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その4-1

「おーい、巧」  呼ばれて、足元から視線を上げた。暗闇の中を黄色いランプが一つ、近づいてくる。ベンチから立ち上がり、地面に置いていたボストンバッグを肩にかけ直す。 「ヤナ。悪いな、こんな時間に」 「いーよ。ほら、荷物は中入るから」 「……ん」  柳瀬はベンチの隣に原付を停めて、座席のクッションを開いた。その中に巧のバッグを仕舞ってくれる。  深夜を回って、電車がないことに気がついたのは、稲荷木駅の改札に定期券を通す直前だった。駅で野宿するわけにもいかず、目的地だった当人に電話をし、迎えに来てもらった。  かつてお人よしの家主に拾われたベンチに座ったが、夜は更けるばかりで、隣も空いたまま、時間だけが過ぎた。数十分経って空虚な視界に差した明かりが、永遠の出口のように見えた。  柳瀬が原付に跨って、荷台をぽんぽんと叩く。ついでに、白いヘルメットが投げて寄越される。 「ほら、乗れよ。車通りも少ないし、おれの運転なら二人乗り大丈夫だろ」 「うわ、心配」 「なんだって?」 「冗談だよ。……ありがとう」  礼を言って後ろに乗ると、「らしくない」も、「どういたしまして」もなく、ただ黙って原付を発車させてくれる。そんな何気ない気遣いが、今は堪らなくありがたい。  深更のしじまを、低く響くエンジン音が染めていく。会話はなかった。ぽつり、ぽつりと灯る街灯が、瞬いては背後に流れていく。  二十分くらい走って、見知ったアパートの前に着く。柳瀬の住んでいるアパートだ。何度か訪れているけれど、こんな夜遅くに来たのは初めてだ。平坦に濃紺で塗りたくられた建物は、昼間に見る場所とは違って見える。  部屋に通されて、勧められたクッションに適当に座った。部屋が汚いと太るという迷信を信じているらしく、柳瀬の部屋はいつも意外に整頓されている。 「紅茶飲む?」 「こんな時間にカフェイン採ると、眠れなくなるぞ」 「おまえはどうせ眠れないだろ。メープルティーでいい?」 「……おっしゃれー」 「ようこちゃんからもらった」  また知らない女の子の名前だったけれど、巧はもう気にもしない。柳瀬はどんなにいろんな女の子と仲よくしても、不埒なことや不義理なことはぜったいにしない。だから人気があるし、男友だちにも気がきく。  こんなふうに、いとも簡単に巧のことを言い当てられる友人が、羨ましくなる。おれも、宮司さんのことを、もっとちゃんと、わかってあげたかった……。  甘い香りの紅茶を手渡されて、湯気の立つ内に口に運んだ。ミルクも砂糖も入っていないのに、不思議と甘かった。柳瀬は、巧が話し出すのを、そばに座って待ってくれている。 「……ヤナ」  呼ぶと、「うん?」と、今まで聞いたことがないほどやさしい返事が聞こえた。それがあまりにも不意で、思わず泣きそうになった。 「ヤナは、どこまで知ってた……?」 「……たぶん、今巧が知ってるくらい」  こんな時間に頼った時点で、紫乃との間になにかあったことは勘づかれていると思った。案の定、すんなりと回答が返ってきた。わざと、直接的な言葉を避けてくれる心遣いは、巧にはできない。柳瀬の機転とやさしさの象徴だ。  けれど、今はそれじゃ、わからないんだ。  教えてほしいと思った。柳瀬はなにを考えて、「あの人は、やめたほうがいい」と言ったのだろう。どうして、キスなんてした? 今さらだと言われても、やはり知りたいのだ。だって、もう二度と会えないのだとしたって、この心はまだ、宮司紫乃でいっぱいなのだから。 「……功一さんのことは」 「コウ先輩、でしょ」 「宮司さん、付き合ってたって……」 「知ってる」 「もう、亡くなってるってことは……?」 「知ってるよ。だからあのとき、おれは宮司さんにキスをしたんだ」  視線を手元のマグカップから、すぐ隣の柳瀬に移す。アーモンド型の目は、伏せられていた。すっと、空気を切り裂くように、瞳が上がる。柳瀬の視線と視線が絡む。 (……なんで、おまえまで、そんな顔してんだよ) 「まだ宮司さんが、功一さんのことを引き摺ってるのか、確かめようとしたんだ。……正直、ずっと深くて……、知ったら、おまえが傷つくって思った」  堪えるように眉を寄せながら、友人が話してくれる。巧の痛みを自分まで感じて顔を歪めるくせに、真っ直ぐこちらを見て、口を開いては傷を抉る。  そうだ、きっとあのとき、柳瀬が真実を隠してくれなかったら、あの時点で、真正面から向き合わされていたら、たぶん、堪えられなかった。  今、一つ一つを自分の手で集めて、見つめて、整理して、受け入れて、嘔吐しそうになりながら嚥下して、それでも思っていくのだと決めたから、投げ出さないでいられた。捨てていい恋に、しなくて済んだ。 「やめたほうがいいって、言ってくれたのは、そういう意味だったんだ」 「早く気づけよ、ばか……」 「……うん。ごめん」  気づいて、傷つく前に諦めてほしかったのか。ようやく柳瀬の気持ちに追いつく。  巧が気づけなかったのは、紫乃の気持ちもだ。  宮司さんは、どんな気持ちでおれを食堂に招いてくれたのだろう。なにを思って、おれと暮らしていたのだろう。今となってはもう、一生聞くことも叶わない。 「……宮司さんがさ」  友の声に、耳を傾ける。 「……うん」 「約束したんだって、言ってたんだよ」 「約束……」 「功一さんと、『おれ以外に、身体を触らせないでね』って」 (ああ……)  柳瀬は、気づいているのだ。巧の弱いところを、もうとっくに、知っていたのだ。 「だから、キス、だったんだ」 「悪かったな、巧」 「こっちこそ」 「巧は、殴らなかっただろ」  僅かに笑い合って、それから柳瀬は、紫乃に聞いたことを、言葉を選んで話した。  紫乃と功一との間で、小さな諍いがあったこと。たぶん、口振りからして、紫乃が功一に焼き餅を焼かせたのだろうということ。功一が言ったこと。苦笑いして、紫乃が頷いたこと。  自分が思う人に、自分だけを特別にしてもらいたい。そういう功一の気持ちがわかるから、約束が欲しくなる気持ちだって、理解できる。  それがずっと、紫乃を縛りつけてしまうものになるとわかっていたとしても、自分はきっと、約束せずにはいられない。でも、功一は、巧とは違うのだろう。  彼の約束は、ずっと隣を歩き続けるという、誓いの形だったのではないだろうか。やっぱり敵わないなと、思わされる。 「……ヤナ」 「うん?」 「おれ、きょう、宮司さんを抱いたんだ」  うん。  そう頷いたまま、親友は夜が更けていく中、ずっと静かに手を重ねていてくれた。  紫乃のことを一つ知る度に、知らなかった紫乃を一つ忘れる。贈ることはあっても、決して返ってこない気持ちを、それでも捨てられないのは、つらくて仕方ないのに忘れられないのは、まだ、どうしようもないくらい、紫乃のことがすきだからだ。  終わってしまった恋に、意味はあるのだろうか。  叶わなかった思いは、なかったことになってしまうのだろうか。  答えがないとわかっているのに、問い続けなくてはいられないのは、未練でしかないのだろうか。柳瀬にきょうあったことを話しながら、そんなことを考えていた。  白い肌も、滑らかな骨格も、細い腰も、柔らかい髪も、身体の熱さも、まだ艶めかしく蘇ってくる。氷みたいな声が耳朶に残って、頭から冷水を被せる。ずっと言いたくて、ずっとこわくて、ずっと言葉にできなかった声が、紫乃に届いていたのかもわからなくて、頭の中がぐちゃぐちゃで、今、ここにいる。だれかに支えてもらわないと、自分を保っていられそうになかった。 「……ヤナ、悪いんだけど、部屋見つけるまで、ちょっと居候させてほしい……」 「いいよ。すきなだけいろ」 「……ごめん」  すぐ見つけるから、と呟くと、いいって言ってんだろ、と髪を掻き混ぜられた。甘えている。凭れかかっている。大学生にもなって、一人じゃ立っていられない。情けない。でも。 「巧……?」 「……ごめん」  ヤナがいてくれてよかったって、思ってしまうんだ。  目を閉じたら、きっと嫌なものが見えてしまう。眠れない。なんか、目の奥が熱い。 「……いいよ」  いいよ、と言いながら、肩を貸してくれる友人に、身体を預ける。勝手に涙が零れ落ちる。痛む場所も、苦しい気持ちも、だれを思って泣くのかも、自分自身でわかりきっていた。  気がついたら、昼だった。  むく、と身体を起こすと、肩から綿毛布が落ちた。結局泣き疲れて眠ってしまったらしい。見知らぬ天井を眺め、しばらく考えて、柳瀬の家だと思い出す。 「ヤナー……?」 「おう、巧起きた?」  ひょこっと台所から顔を出して、柳瀬が手に持ったフライパンを軽く振った。 「今昼飯作ってんだけど、巧、フレンチトースト食べられたっけ?」 「うん」  寝起きから甘いもの……、と眉尻を下げたくなったが、柳瀬なら納得だ。準備をしてくれている間に洗面所を借り、顔を洗う。鏡に映る自分の顔は、くまが濃くて、目蓋が腫れて奥二重になっていた。  作ってもらったフレンチトーストと牛乳をテーブルに運んで、それぞれ並べる。「食欲ある?」と訊かれて、頷いた。  もう痛むところはない、と言ったら嘘になるけれど、少なくとも、きのうよりは落ち着いた。柳瀬のお陰で喉に詰まっていた蟠りが小さくなった。感謝している。  いつまでもここにいるわけにはいかないから、すぐにでも部屋を探してこないと。それに、きょうもほんとうは講義があったのに、柳瀬は巧に付き合ってさぼってくれたのだ。これ以上、迷惑をかけたくない。  柳瀬はこれからアルバイトがあるらしく、巧に鍵を渡して昼を食べて出て行った。もしかしたら、巧が目覚めるのを待っていてくれたのかもしれない。他人の家に一人でいるのも気まずくて、まだ日も高かったので早速不動産屋へ行くことにする。  鍵をかけて、郵便受けの中に落とす。柳瀬に鍵のありかをメールで伝えて、アパートを出た。  大学の近くの賃貸仲介会社の支店を目指して、歩を進める。その間も、ずっと、考えていた。思う相手は、まだ一人きりだ。  それでも、人は慣れる。  その速度は人によって違うけれど、いつか必ず、それが「当たり前」になる。きっと、自分も、そうだ。  紫乃がいないことが、当たり前になる。  大学に行って、友人と過ごして、彼女なんて作って、テスト期間になったら必死で勉強して、長期休みには地元に帰って、また大学に行って……。紫乃のいた時間を、みやじ食堂という空間を、あんなに鮮やかで美しくて、十九年生きてきた中で一番どきどきと胸が高鳴っていた月日を、忘れる。なくて当然のものなのだと、思えるようになる。 (……いたい)  当たり前のよう学校に行って、当たり前のように女の子をすきになって、当たり前のように新しい恋なんて見つけちゃって。そういう毎日が、来るのだ。 (痛いってば……)  紫乃がいなくても、生きていける。紫乃が、そうではなかっただけ。  紫乃には、功一がいなくてはならなかった。巧ではなくて、功一じゃないとだめだった。功一にしか、紫乃の心は埋められない。だから紫乃は、これからもずっと、みやじ食堂を守って、過去の日々を泳ぐように、思い出を抱き続けるのだ。  ――でも。でもね、宮司さん。ねえ、宮司さん。  あんたの思う未来には、なにが映っていますか。そこに、小戸森さんは、ポチは、桃子ちゃんは、秋名さんは、ちゃんといますか。  ねえ、宮司さん。人は過去には戻れないのだと、知っていますか。なにをしたって、取り戻せないものがある。なにをしたって、そばにいられない人がいる。知っていますか。 「ただいま」 「おう、おかえり。部屋見に行ってたのか?」 「そう。何件か検討してみることになった」 「急がなくていいって言ってんのにー」 「はは、ありがとう」  お土産、と帰り道に寄ったスーバーの出来合いのおかずを渡すと、「助かった! あと一品なににしようか迷ってたんだよな」と柳瀬によろこんでもらえた。  言えなかったけれど、伝えられなかったけれど、宮司さん、おれはあんたがすきで、幸せだったよ。  まだ、夜中一人で声を押し殺して泣いてしまうほど、痛くて痛くて堪らない。でも、もう、この新しい時間に身を委ねて、彼を忘れてみせる。  それがきっと、紫乃のためだ。二度と巧に会わないまま、これまで通りにみやじ食堂を守り、大切な客のために料理を作って、心の中の恋人に抱かれる。そこに、間違いを侵した自分は、いなくていい。ただ、大すきな仲間のことは、忘れないでいてほしい。  あんたのためだ。だからどうか、あんたはきょうもきっと、笑っていてくださいね。  * 「うわあ、かっ辛い!」  馴染みの客にハヤシライスを出してすぐに、そんな悲鳴が聞こえた。びっくりして、カウンターを振り返る。 「ど、どうしましたっ?」 「宮司くん、これ辛いよ」 「え? いつもと違いました?」  おかしいな、仕込みも調理も、いつもと変わらないはずなんだけれど……。促されて、鍋から小皿に掬って、口に運ぶ。 「ぶはっ、かっら!」  慌てて水を飲んで、「な、辛いだろう?」と若干唇が赤くなっている客に苦笑される。 「ごっごめんなさい! すぐ新しいもの作るんで!」 「いいよ、いいよ。これはこれでおいしいから。……代わりに、水とご飯をサービスしてくれるとうれしいな」 「すみません……」  手渡された皿に、もりっと麦ごはんを足す。これでたぶん丁度いいくらいのバランスだろう……。  皿を返して、お冷やのお代りをよそうと、客はまたスプーンを小気味よく動かして、慰めるように「うまいうまい」と言ってくれた。 「……ん? ねえ、紫乃くん」  客に呼ばれて、「はい」とテーブル席に近づいた。先程、出来立てのロールキャベツを出した方だ。 「なんですか?」 「節約でもはじめたの?」 「へ? なんでです?」  このロールキャベツ、具が入ってないよ。  なんて言われて、サアアと顔から血の気が引いた。 「うっ、うそ……!」  慌てて皿を覗き込めば、ほら、とフォークを動かして切り口を見せてくれた。ほんとうだ……。本来合挽き肉が入っているべき場所が、綺麗さっぱりキャベツ色だった。 「ごごごごめんなさい! すぐ新しいものを……」 「あはは、大丈夫だよ。十分おいしいし」 「すみません……、よかったら、おかず一品サービスします……」 「うん、ありがとう。じゃあ、ハンバーグ一つ」 「すぐお持ちします」  余っているはずの挽き肉を使えるように、という気遣いに、また申し訳ない気持ちでいっぱいになる。すぐに俵型のハンバーグを出すと、やっぱり客は「おいしいよ」と笑ってくれた。  功一の人柄のお陰なのだろう、みやじ食堂に来てくれる人は、みんなほんとうにいい人ばかりだ。 (おかしいなあ……)  きょうのおれ、なにも手についていない。なんでだろう。  * (ああ、情けない……)  小戸森麻紀は「みやじ食堂」の看板を仰ぎながら、溜め息を吐いた。  川辺のことが気になって、来てしまった。空く時間を狙って来ているとはいえ、紫乃が忙しくないとは限らない。前倒しでやれることはやったが、自分だって、仕事がないわけではないのに。 「……宮司さんは、その人と、付き合っていたんですか」  そう問うた川辺の表情が、忘れられない。声にならない声が、耳朶に届く。  そうだったのかと納得した顔をして、そのくせ、つらいつらいと声が響く。受け入れた色の瞳が上辺のものなのかどうか、判断がつかなかった。しかし、紫乃を思う辛酸の味を知りながら、それでも彼は気持ちを変えられないのだということは、わかった。わかってしまった。  同じ気持ちを抱えてきた。捨てることができないできた。絶つことなんて、思う人の存在がそばにある限り、自分一人の力では無理なのだ。そばで笑っていてほしいと、願ってしまうのだ。息が苦しくなるくらい、知っている。  鈴の音を鳴らして、食堂に入る。 「いらっしゃい」の声が聞こえて、気づいた紫乃が、「あ、麻紀だ」と頬を緩める。麻紀を見つけて、紫乃は笑うのだ。こんな些細な瞬間を手放したくないほど、思ってしまった。もうこんなに、経っていた。 「なんか食べる?」 「ああ、なになら出せる?」 「あー、……激辛ハヤシ」 「なんだそれ」  話しながらカウンターにかけると、もうすっかり見知ったねこが隣のイスに飛び乗った。確か、名前はポチだ。知らない客がいるときにはきちんと住居スペースに引っ込んでいる、名に合った利口なやつだ。 「ちょっと失敗しちゃって……」 「ふうん? いいよ、それ食べさせて」 「ごめん。ご飯多めにしておくな」 「うん、わかった」  そんなに? と訝しく感じつつ、いつまでも麻紀の下心を見透かすみたいににやけるポチの頬を摘まんだ。  間もなくして出されたハヤシライスは、見た目こそ通常通りだが、口に入れれば、それはみやじ食堂の本来の味と比べてかなり辛かった。食べられなくもないが、水を片手にしていないと少々厳しい。 「これは……辛いな」 「どこで間違えたのか、覚えてなくてさ……」 「覚えてない?」 「うん。仕込みのときなのか、調理のときなのかわかんない。さっき見たら、異様に唐辛子と七味が減ってた」 「……この粒は七味か」  ルウの中に、ごろごろ実のようなものがある。唐辛子は上手に溶けたらしい、強烈な辛味はそのままに。  紫乃がこんな失敗をするのは、珍しい。いや、大学で一緒に調理サークルに入ったときから、一度も見たことがない。真面目なやつだから、失敗をしないよう、注意をしていたのは知っている。  ――同じ夢を見るのは、もうできないのだと、大学生で悟った。  でも、それでも、そばにいたいと思った。そばにいるには、この道を辿るしかないと思った。少しでも、寄り添う二人に近づきたくて、でも同じくらい、目の前で見せつけられる現実が痛くて、ずっと迷って足掻いて、気がついたら、ここにいた。この食堂よりも、大きなレストランなんて、経営していた。どうやら、自分には経営者としての才能があったらしかった。  おれは、ほんとうは、どうなりたかったのだろう。  きっと、ここみたいに、小さな洋食屋で、よかった。おまえといられるなら、それだけでよかった。おれは、川辺くんが、羨ましかったのかもしれない。  選んでもらえないとしても、そばにいられる彼が、羨ましかった。若く真っ直ぐな視線が、そのひたむきさが、もう己にはできない選択が、どうしようもなく羨ましかったのだ。昔の自分を重ねては、諦めないでくれと、心のどこかで、祈っていたのだ。  盛大な溜め息を吐く紫乃に、「まあ、おいしいよ」と慰めに言ってみる。元のみやじ食堂の味を知らない人が食べたら、辛めのハヤシライスだと思うだろう。 「……でもおれ、具なしロールキャベツもお客さんに出しちゃったんだよ、きょう……」 「それは……、ひどいな」 「うう、ほんと、どうしたんだろう……」  頭を掻く紫乃を見ていたら、少しだけ、いやな予感がした。こんな風に、紫乃の心を動かせる人は、一人きりだと思っていた。  誤魔化すように視線を泳がせ、できるだけ自然に「そろそろ川辺くんが帰ってくる時間かな」と嘯く。壁の時計はもうすぐ、午後五時を指そうとしていた。 「……帰ってこないよ」 「……え?」  紫乃の声が、冷たかった。初めて、こんな声を聞く。 「帰ってこない? 珍しいな、どこか泊まりにでも行っているのか」 「麻紀があの子を気にするなんて、それこそ珍しいね」 「……茶化すな」  おかしい。紫乃の態度がおかしい。店のどこかが、おかしい。なにかが足りない。「あの子」なんて言い方、紫乃らしくない。おまえはいつも、名前を呼ぶだろう。 「紫乃」 「あの子は、帰ってこない」  もう、出て行ってもらったから。  頭の中が、真っ白になった。思わず、紫乃の顔を凝視する。そんな態度に気を留めず、紫乃は「あ、水のお代り淹れようか。お茶のほうがいい?」と、麻紀のそばのグラスに手を伸ばした。 「麻紀?」  その手を、掴んでいた。 「川辺くんに出て行ってもらったって、どういう意味だ」 「意味って……、そのままだよ。そもそも、あの子は一人暮らしするはずだったんだし」 「そんなことは聞いていない」  握る手に力を込めると、紫乃は気まずそうに目を逸らした。 「川辺くんに、なに、された……?」 「……なにも」  嘘を吐かれた。こんな目に見えるような嘘の吐き方をされるのは初めてで、なぜだかひどく傷つく。 (言いたくない、ってことか……)  そうならば、無理には聞かない。言いたくないことは、だれにだってある。しかし……。  指を解く。自分でもわけがわからず、手先が震えた。  川辺が、紫乃を変えた。川辺が来て、一年が過ぎて、確かに紫乃は変わったのだ。それは、いつも見ていた自分だから、よりわかるのだ。  功一を失って、抜け殻になった紫乃。たった一人で、みやじ食堂を支えるのだと頷いた日を、忘れられない。それだけが自分の生きる理由なのだと言うみたいに、毎日火の前で汗を流す紫乃、功一の料理を作り続ける紫乃。無理した笑顔。たのしそうに料理をしている横顔が、すきだった。それを忘れてしまうくらい、小さな歪みから、一瞬で壊れてしまいそうな紫乃。  川辺が来た日から、紫乃はよく笑うようになった。はじめは、川辺に気を遣わせないようにと、作った笑顔だったのかもしれない。それでも、それはいつしか本物になっていた。うれしそうに、彼の話をするようになった。世話の焼ける弟ができたみたいに、毎日たのしそうに見えた。  川辺が、紫乃になにかをした。それがまったくわからないと言えば、嘘になる。麻紀にはわかる。わかってしまう。  だって、きっと、自分も長くそうしたかったのだから。彼と同じ立場だったならば、同じことをするだろうと思うから。だからと言って、許すことはできない。紫乃を傷つけたことに、変わりはない。  でも――。 (川辺くん)  思うのだ。  きっと、これが、何年も思ってきて、それでもなにもできなかった臆病者の、唯一できることだ。 (紫乃を変えるのが君だったなら、紫乃を叱るのは、おれの役目だね)  そしておれはもう一度だけ、すきですきで、いつかおれだけの人になってほしいと願ったその人の手を、そっと掴むのだ。 「麻紀……?」  手の震えは、収まっていなかった。それが伝わっても構わないと、お冷やのお代りを置いてくれた手首を包み込む。  例えば、紫乃を失ったとして、おれはまた、べつの人を選べるだろうか。目の前に差し出された手を、掴めるだろうか。きっと、できない。紫乃だって、同じなのだ。でも、それでも、おれは、手を伸ばす。  掴んでほしいから伸ばすんじゃない。ただ、その目に、今の世界を映してほしい。色を失くして、もう美しく見えないかもしれないここを、それでもちゃんと、見ていてほしい。  そっちに行くな。世界を見ろ。紫乃、おまえの生きる場所は、ここだ。 「紫乃、宮司先輩は、もういないんだよ」  紫乃の目から、光が消える。ここではないどこかに、行ってしまう。  彼にとって、世界一残酷な言葉だ。わかっている。でも、言わないといけない。今、紫乃をあの日の世界から取り戻せるのは、功一でも、川辺でもなく、己なのだ。 「紫乃、もういないんだ」 「……やめてくれ」 「何回だって言う。宮司先輩は、もう――」 「やめろって言ってんだろ!」  こんなふうに、紫乃が声を荒げるのは初めてだった。手を振り払われた。下唇を噛んで、またその手を掴む。逃がさない。逃がすものか。  今でも、紫乃の瞳の中で、宮司功一は生きている。紫乃のそばにいて、やさしすぎるその手で触れるのだ。そんなおまえでも、おれはおまえがすきなんだ。 「紫乃」 「……いやだ、なにも聞きたくない」 「紫乃」  いやいやと駄々をこねる子どもみたいに首を振る。伏せられた目から、雫が零れそうだ。紫乃にこんな顔は似合わない。でも、そんな顔でもいいから、ここにいてほしい。川辺がくれたチャンスを、もう今までみたいに、見ているだけで諦めたくない。 「いやだ、麻紀、きらい……」 「はは……、子どもみたいだなあ」  いいよ、おれのことは、いくらきらってくれたって。 「すきだよ、紫乃」  どんなに厭われても、おれはずっと、何年も前から、おまえのことだけはずっとずっと、ずっと、すきだから。 「……それ」 「え?」  急に静かになった紫乃が、ぽつりと呟いた。それ、がなにを指すのかがわからなくて、首を傾げる。 「巧くんも言ってた……」 「川辺くんが……?」 「うん」  目に焦点が戻ってくる。海闇の中に灯台を見つけたように、淡い光が宿る。  きゅ、と手を握り返された。心臓が跳ねる。それを感じたのか、くすりと紫乃が笑った。  おれの大すきな、宮司先輩を思うあの瞬間の顔だ。 「『あんたがすきでした』ってさ……。過去形だった」 「巧くん、おれのことすきだったんだなあ。おれ、ぜんぜん知らなかった」と、紫乃が肩を竦める。困ったような、照れたような声だった。 「……麻紀も」 「おれのことは、とっくに知っていたくせに」 「そんなこと、ないよ」  そんなことない、と、もう一度だけ呟いて、紫乃は瞳を伏せた。  ――違和、だ。  腹の中にじわりと、正体不明の黒いものが広がる。それはもやもやと膨らんで、身体を重くする。  紫乃はこれからも、これまでと同じように、功一と歩んでいくのもだと思っていた。紫乃の中でのみ生きられるその人だけをそばに置いて、思って、だれの手も取らず、一人で生きていくのだと。  辛すぎるハヤシライス。  具なしロールキャベツ。 (……そう、だったのか)  知っていた。そうだ、こいつは学生時代から、とんだ鈍感野郎だ。こんなにそばにいて、おれの気持ちに気づかないのだから。でも、おれも人のことを言えなかったらしい。 「……川辺くんと、なにがあった?」 「……うん」  自分でも初めて聞くような、やさしい声が出た。吹っ切れたのかもしれない。初めて言えた。ずっと伝えたかった。ずっと、こわかった。ずっと、紫乃のそばにいたかった。  変われたのは、彼だけではなかったらしい。  いつも一人で臆病ぶっていた自分が、紫乃のことを知らなすぎただけだ。 「おれ、巧くんのことを許せないと思うんだ。でも……」 「うん……」 「でも、今ちょっと、さみしい、かもしれない……」  紫乃、ほんとうに、変わったなあ。よかった。  よかった。  人と人の繋がりに、時間はあまり関係ない。  最初から気が合う人もいれば、いつまで経っても仲よくなれない人もいる。  運命なんてものは信じないけれど、でもそこには、一年で築き上げられた絆があった。それは、はじめから麻紀と繋いだものとは、違う種類のものだった。 「麻紀、巧くんに話しただろ、先輩のこと」 「ああ。……勝手に悪かった」 「いいよ。巧くんが訊いたんだろう?」  頷いた。紫乃もいつか話すつもりだったのだろう。順番が違っただけだと、紫乃はだれも責めなかった。再度川辺が紫乃から真実を聞いたのは、紫乃の気持ちが知りたかったからなのではないかと思う。麻紀も知らない、紫乃の思い出の気持ち。  紫乃は君に、どんなふうに話をしたのだろう。 「巧くんは、ほんとうに勝手なんだ。世話の焼ける子でさ、気にしててあげないと、すぐおれにばっかり気を遣うんだよ。友だち一人うちに呼ぶのにも、おれの顔色見て、迷惑になるんじゃないかとか思ってて、なかなか言い出せないでいるんだ。そのくせ、……勝手に、おれの中に踏み込んでくる」  紫乃、気づいているか。文句ばかり言っているくせに、おまえ笑っているよ。  紫乃のこんな顔を見るのは、久し振りだった。 「川辺くんを迎えに行かないのか?」 「どうして?」 「川辺くんは強情だから、おまえが行かないと、ぜったい自分からなんて帰ってこないぞ」 「……いいよ、帰ってこなくて」  膝の上で拳を固める。自分のことのように、言葉が突き刺さってくる。なんて不器用なのだろう。自分がどんな顔をしているのかさえ、わかっていないのか。 (……嘘つきめ)  どうして、おまえは気づかないんだろうな。どうして、自分に嘘を吐いてまで、一人だけを選ぼうとするんだろうな。……そんなのは、宮司先輩のためだということを、痛いほどよく知っている。  功一との一生の誓いを、紫乃はその身体ぜんぶで守ろうとしているのだ。  でも、紫乃。それって、先輩はよろこぶのかな。おまえの愛した宮司功一という人は、おまえが一人でいることを望むのかな。おまえに一人でいろなんて、おれ以外を選ばないでくれなんて、そんなことを言うかな。先輩がすきになったのは、そんな顔をした紫乃だったのかな。  麻紀には、功一の気持ちも、紫乃の気持ちも、川辺の気持ちも、完璧にはわからない。所詮は他者だ。でも、自分の気持ちだけは、ちゃんと、ここにある。だからこのままじゃだめだと、伝えたいんだ。 「ほんとうにいいのか」 「麻紀、しつこい」  紫乃には珍しく、いやな顔をされた。自分も珍しいことを口にしていると自覚している。どうしておれが川辺くんなんかのために、紫乃を説得しなきゃいけないのだろう。 (くそ、なんか……、くやしいなあ)  でも、紫乃のたのしそうなあの顔をもう一度見られるのなら、それを今取り戻すことができるのが彼なのだとしたら。おれはいくらでも、紫乃に語りかけ、悪者にだってなってやろう。恩に着ろよ。 「何回だって言う。川辺くんを迎えに行かなくていいのか」 「いい。あの子がいなくても、おれは変わらない」 「変わらない?」 「そうだよ。だって、おれには……、コウ先輩のこの店がある」  紫乃が目を伏せる。  小さな唇が、声を紡ぐ。 「おれには、コウ先輩がいる」  ――ぷつりと、なにかが切れる音がした。  気づけば、カウンターを強く叩いていた。驚いたポチが、するりと奥に逃げていく。紫乃が顔を上げる。 「あ、麻紀……?」  声音で、紫乃が戸惑っているのがわかる。でも、なぜか、火が点いたように頭の芯が熱くて、なにも考えられない。  紫乃の胸倉を掴む。カウンターから身を乗り出して、目を閉じる。吐息が唇を掠る。 「やめろっ」  胸を押された。肺を圧迫する力に、視線を上げる。紫乃の幼い顔がすぐ目の前にある。 「麻紀、いやだ」 「キスしたい。紫乃がすきだ」 「いやだ……」 「どうして?」  首を振られる。もう一度、どうしてと問えば、紫乃はまた目を伏せて、「おれにはコウ先輩がいるから」と、消え入りそうな声で言った。掴んだ胸倉を、ぐっと引き寄せる。喉が詰まったのだろう、くぐもった呻きが、唇の隙間から零れる。 「あ、さき……っ」 「……えよ」 「え……?」 「言えよ。おれの目を見て、『おれにはコウ先輩がいるから』って、言ってみろ!」  言ってみろよ。おまえがすきだという人間に向かって、言ってみろ。 「おれ、には……」  紫乃の瞳の中に、自分の顔が映っている。知らなかった。おれはこんなに真っ直ぐに、人と向き合うことができるのだ。知らなかった。おれはこんな顔で、紫乃を思うのだ。 「コウ、先輩が……」  ぽつり。  雨が降るように、音もなく雫が落ちた。ぽつり、ぽつりと、静寂の中に零れていく。  紫乃、おれにすら言えないことを、おまえが川辺くんに言えるとは、到底思えないよ。おまえのことを、どれだけおれが、見つめてきたと思っているんだよ。 「……かってる……」 「うん……」 「わかって、る……」  うん、と頷いた。  自分の声とは思えなかった。紫乃を思って、おれはこんな声を出せるのだ。おまえに出会って、知らなかった自分がどんどん見つかるね。  あの人が亡くなってから、紫乃の涙を初めて見た。あまりにも綺麗で、息ができなくなる。 「もう、コウ先輩がいないことくらい……、おれだって、わかってるんだ……っ」  それから、紫乃は声が枯れるまで泣き続けた。  ひどいことを言ったと、自覚させてしまったと、わかっていた。こんなことを、紫乃が望んでいなかったということも。  これでよかったのだろうか。麻紀がすきだったのは、紫乃の泣く顔ではなかったはずだ。 「……麻紀」 「うん……?」 「ごめん」  紡がれた言葉に、声が詰まった。その言葉を言わなくてはいけなかったのは、己のほうだ。 「麻紀、ありがとう」  ――すきな人が、自分を思ってくれること。  たったそれだけの条件でよかった。そう、いつか思って、それが一生叶わないと知っていた。  でも、今、わかった。  叶わなくても、選ばれなくても、彼のたった一人になれなくても、意味はあるんだ。あったんだ、ここに、確かに。  くやしくて、かなしくて、さみしくてつらくて、振り向いてほしくて、紫乃が大切で、そういう気持ちを、紫乃をすきにならなければ、知ることはなかった。ほかのだれかじゃない、紫乃をすきになったから、こういう気持ちを知ることができたのだ。  紫乃とだったから、今こうして麻紀はここにいて、今の自分でいられるのだ。  紫乃の柔らかい髪を撫でる。いとしさを噛み締める。 「ゆっくり休んで、考えろ」  そう言い残して、みやじ食堂を出る。ハヤシライスもお冷やも、完食していた。  赤い暖簾をくぐって、夕焼け空を見上げる。あしたは、土曜日だ。HEMPもきっと混み合うことだろう。きょうのうちに、できる準備を進めておこう。  感謝をするのは、おれのほうだ。  思う。日が傾いて、ずいぶんやさしい気候になった。こんな日に、あの人は、すぐそこのスーパーの前で亡くなった。こんな日に、紫乃は一人ぼっちになった。  紫乃、おまえが教えてくれたこの気持ちを、おれはぜったいに忘れない。だから、「ありがとう」と言えるくらい、諦めてみせる。わかるかな、おまえのそばにいたいと願うから、おれは選ぶんだ。  すきだよ、紫乃。  ありがとう、すきだったよ。 (……さて、と)  不思議と、涙は出なかった。生まれて初めての失恋なのに、なんでだろう、今は、この安らかさに身を委ねてみたい。  車に乗り込む。ミラーを直して、シートベルトを締める。視線は、今どこにいるかもわからないへたれた君へ。 (川辺くん、君はまだ、「すきだった」じゃないだろう)  諦めるな。手放すな。目を逸らすな。痛みを知らないで人をすきでいられるほど、世界は君に甘くない。  それでも、おれは君を、信じている。

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