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その4-2

 *  みやじ食堂に仏壇はない。遺影さえ、分けてもらえなかった。……当然だと思う。  宮司功一が映っている写真を、紫乃は一枚しか持っていない。  写真を撮られるのが苦手だと言って、遊びに行っても、いつも紫乃の写真ばかりを撮っていた。一緒に撮ろうと誘っても、決まって断られ、基本的にふわふわした功一が頑なだったのが珍しくて、何度も隠し撮りに挑戦しては、怒られた。それすらおかしくて、たのしかった。 「コウ先輩……」  唯一、彼がまともに映っている写真。水色の背景に、似合わない真顔。運転免許証。これしか、紫乃の元には残っていない。  さみしい。功一と過ごした時間が、あまりにも短くて、さみしい。もっと、ずっと、功一といたかった。叶うなら、彼の隣で、一生を終えたかった。 「あなた、ずるいなあ」  あなたは、おれの隣で、一生に幕を閉じた。  ころころと、いろんな表情を見せてくれる人だった。その表情一つ一つを、ほんとうは写真みたいに、いつまでもここに置いていってほしかった。  褪せるはずがないと思っている。生涯、この目蓋の裏に残り続けるはずだ、と。彼と過ごした時間が、彼という存在が、大切で仕方がないから。でも、もし――。  もし、その表情が、少しずつ記憶の中から抜け落ちていってしまったら?  もう二度と見られないその顔を、忘れたくないのに、気づいたら思い出せない刹那がある。そこに横たわる四年という時間に、遠さを突きつけられる。  麻紀に、つらいことを言わせてしまった。  たった一人の親友に、心の中でだけ話せる人を、奪うことを差し向けてしまった。でも、こわかったのだ。いつか、功一が消えてしまうんじゃないかと、思ったんだ。そう思ったら、どうしようもなく、苦しくなった。だから、あの日々に閉じ籠った。  さみしい。つらい。かなしい。そばにいてほしい。行かないで。おれを一人にしないで。  口にしてはいけないものなのだと思った。言ったら、ほんとうに一人になってしまうと、そう思った。 「おれは、功一さんにはなれないけど、……でも、宮司さんを一人にはさせません」  脳内に、蘇る声がある。背中にまわされた手のひらの、やさしさと温かさが、皮膚の表面に焼きついて離れない。  だめだった。なにがあっても、どうしても、その手はとれなかった。  すきだったと、そう言われた。聞いた瞬間、自分はまた一人ぼっちになったのだと、わかった。  功一の運転免許証を抱き締める。両の手で包んだまま、その場に足が崩れた。いつも、巧と二人分の布団が敷かれる場所だ。その前までは、功一と並んで眠っていた。今は、紫乃一人だ。部屋の真ん中で、動けなくなってしまう。  コウ先輩。教えて、答えて。  今でも心の底から功一のことがすきなのに、いつか心の中ですら、彼と話せなくなってしまいそうで、こわい。ここで横になって、月光に包まれる背中を見ながら、誕生日を祝ってもらったあの日が、消えてしまう。ここに残るのは、功一からもらった名前だけになってしまう。功一以外を思った瞬間に、この名前すら忘れてしまうみたいで、こわかったんだ。  でも、功一はもういなくて、紫乃には差し伸べられる手がたくさんあって、きのうまでは確かに幸せで、そう思えたのは、一途に思ってくれた一人の大学生のお陰で……。  ねえ、おれは、どうしたらいい……?  鈴の音が聞こえた。 「宮司さーん?」と追って声がかけられる。来客のようだ。壁にかかる時計は、五時半を示している。  巧が帰ってくるより早く、客が来てしまった。人手が増えるまで、一人でも、がんばらなくちゃ。 (……いや、)  もう、あの子はここには、帰ってこないのだ。 「はーい、今行きますー!」  さみしくない。帰ってきてほしくなんかない。巧は、功一のことを知りながら、あんなことをしたのだ。許すことなんてできない。  そばにいてほしくない。やさしくされる度、触れられる度、胸がいっぱいになる。――おれは一人でいいんだ。コウ先輩がいないのなら、もうおれは一人でいい。これまでの日々に、戻るだけだ。 「宮司さん、これドレッシングかけてなくない?」 「ええっ、わっ、す、すみません!」  今度は、生野菜サラダ味付けなしを、お客さんに出した。 「そういやあ、きょう巧はどうしたんだ?」  その名前に、どきっとした。馴染みのカウンターの客だった。いつも、巧にちょっかいを出しては、たのしそうに笑ってご飯を食べていってくれる人だ。 「きょうは、ちょっと、いなくて」 「ふうん? 珍しいなあ」 「ですねえ。あの子がいると、店が賑やかですよね」 「紫乃くんも、功一くんがいたときみたいだもんな」 「はは……」  ーーうまく笑えていただろうか。うまく、話せていただろうか。  功一と店を切り盛りしていた頃からの得意客が話に加わって、過去へと内容が逸れていく。つい、息を漏らしていた。  どの人も、巧と仲よくしてくれた。巧の物怖じしない性格と、話しやすさが、そうさせたのだと思う。功一は、どちらかといえば、「ほっとけない」から構ってしまう、そんな人だった。まるで正反対のような二人なのに……。 (なのに……?)  首を傾げる。おれは、「なのに」のあとに、一体なにを続けようとしたのだろう。わからなくなった。 「……な、紫乃くん」 「えっ?」 「えっ、て……、はは、聞いてなかったのかい」 「すみません……」  功一のことを覚えていてくれる人がいることは、うれしい。いっしょに話をできる人がいること、それだけで、まだ彼がここにいると実感できる。だから、巧にも話した。それでも、思い出みたいに語られるのは、どうしても自分の知る功一ではないように思えて、耳を塞ぐ。 (違う……)  今のは、おれは巧くんのことを考え込んでいて――。 「わっ」  手元が滑って、持っていたフライパンがコンロに落ちた。高く持ち上げていなかったお陰で音も小さく、中身のバターライスも無事だった。 「大丈夫?」 「あ、はい。すみません、ちょっと滑っちゃって」  気をつけろよ、と励まされて、頷いた。まったく、ほんとうに、きょうは昼間から、手につかないことばかりだ。 「――あした、休業します」  不意に、口をついていた。  聞こえた客たちがぽかんとする。言った自分も、どうしていきなりこんなことを言い出したのか、わからなかった。 「なにか用事でもあるの?」 「え、ええ、まあ……」  尋ねられても、曖昧にしか答えられない。でも、どうしても、その結論を覆す気にはなれなかった。 (……あ、あしたまで、お客さんに変なもの出しちゃったら大変だから、ちょっと、落ち着くためだって)  言い聞かせるように、自分でもう一度頷く。  こんなもやもやした気持ちのままで作った料理なんて、こんな湿っぽい顔をして作った料理なんて、客に申し訳ない。きっと、おいしくない。そんなものを、みやじ食堂の料理として出すなんて恥ずかしい。それだけだ。  客がはけて、一人で夕飯を食べる。一人で風呂の支度をして、一人分の布団を敷いて、独り言で「おやすみ」と呟いて、電気を落とした。  さっさと眠ろうとしたけれど、なぜか、目が冴えてしまう。きょう一日のことが、目に耳に戻ってくる。  麻紀は、ゆっくり休んで考えろと、言った。真剣な眼差しだった。けれど、なにを考えろというのだ。  頭まで布団を被せる。周りが真っ暗なら、だんだん眠くなると思った。でも、ふと暗闇の中で、隣に彼がいる気持ちになる。 (違う……)  浮かんできた顔を、脳から追い出す。視界が暗いと、またその整った容貌を思い出しそうで、慌てて布団から顔を出した。カーテンの隙間から、柔らかい月明かりが部屋の隅に揺れている。  溜め息を吐く。ずっと、腹の中がもやもやとしている。手を伸ばすと霧のように掴めないくせに、澱になっていつまでも蟠る。それが眠りを妨げて、悩ましい。  もう一度、目を閉じる。  一人の世界に、身を託す。ここにいれば、会える人がいる。ここにいれば、忘れられる人がいる。追い出したいと思えば、すぐにでも、消えるはずなのだ。あの、壊れ物に触れるみたいな手つきも、真っ直ぐな瞳も、芯のある声も、その偽りのない言葉も、ぜんぶぜんぶ忘れられるはずなのだ。  そうして、おれはいつだって、そこで生きるあなたに会いに行ける。ほかのだれになんと思われようと、おれにはここが、必要なのだ。だから、わかっていても、手放せなかったんだ。でも……。  目蓋を上げる。月の光に、今一番会いたい人のあの日の表情がよぎって、思った。  あした、先輩のお墓参りに行こう。 「あっ、あの、先輩」  恥ずかしいことに、声が裏返った。もう何年もいっしょにいるのに、と自分でも呆れる。そんな紫乃の様子には気づかず、功一はいつも通りにゆるりと「なあに?」と応える。視線は、手元のフライパンに注がれたままだ。 「訊いてもいいですか?」 「うん、どうぞ」 「先輩は……、なんでおれとその……、キスより先のことをしてくれないんですか?」 「えええっ?」  ガチャン! と派手な音を立てて、フライパンが落下する。コンロの上に、バターライスが散らばる。 「ちょっと、先輩」 「今のは紫乃が……」  火を消して、功一が零れたバターライスを片づけはじめる。なんだか誤魔化された気がしたから、その横顔を睨んでみる。それから、思わず瞬きを繰り返した。耳まで赤い。真っ赤だ。なんてわかりやすい人なんだ。先輩が誤魔化したのは、紫乃の言葉ではなくて、自分が恥ずかしくなっていること、だ。  おかしくなって、紫乃も刻んでいた人参と包丁を置いて、功一のそばに近づいた。赤い頬を指で突く。 「先輩、顔赤いですけど」 「……先輩をイジメないでください」 「被害妄想?」 「確信犯」  あはは、と声を出して笑う。功一も「もー」なんて言いながら鼻の頭を掻いて、笑ってくれた。バターライスを片づけ終えて、言いにくそうに「びっくりした……」と呟く。 「いきなりどうしたの、紫乃?」 「いきなりじゃないですよ」  ずっと、思っていたことだった。  功一と付き合いはじめて、五年と半分が過ぎようとしていた。いっしょに暮らしはじめて一年と半分。毎日隣で眠るのに、功一が紫乃に触れることは一度もなかった。  不安だった。飽きられたんじゃないかとか、元から男とそういうことをするつもりはないんじゃないかとか、紫乃相手ではそういう気持ちにならないんじゃないかとか、いろいろ考えた。考える度に口の中が苦くなって、心臓が頭のすぐそばで波打った。  おれは、先輩に捨てられるのがこわかった。 「……きょう、おれ、誕生日なんですよ」  朝一で「誕生日おめでとう」とキスされ、大きな大きな誕生日ケーキを貰った。  愛されている。わかっている。  それでも、不安を感じずにいられないのは、頭が心に追いつけないくらい、功一がすきだからだ。 「先輩」 「……だって」  ぽつり、と功一が言葉を溢した。聞き逃さないように、静かにそばに寄る。 「だって……?」 「だって、自信がなかったんだもん……」  なんの自信だろう。紫乃ではだめだということだろうか。  不安が顔に出たのか、功一は慌てたみたいに「あっ、ち、違くて」と両手を横に振って見せた。 「その、そういうことじゃなくて、むしろおれは毎日紫乃で抜いてるくらいで」 「なっ、なに言ってんですか!」 「ぐえっ」  顔に火が点くってまさにこういうことか。思わず功一の顔面に手を押しつけてしまったのも、不可抗力だ。  頭に血が昇って、自分から訊いたくせに厨房から逃げ出そうとした。冷たい手のひらに手首を掴まれて、足を止める。 「先輩……?」 「ごめん、でも、ちゃんと聞いて」  意外だった。いつもふわふわした態度ばかりの功一に、こんなふうに引き留められたのは初めてで、つい、その顔を凝視する。功一の顔も、紫乃が感じているのと同じくらい、赤かった。 「おれ、ずっと決めてたことがあるんだ」 「決めてたこと?」 「紫乃を抱くのは、ちゃんとおれが自立して、紫乃とおれ二人を、ちゃんと養えるようになったら、って」 「そんなの……」  みやじ食堂は軌道に乗った。紫乃は大学生ではなくなり、最初の一年は、生活に慣れるので必死だった。食堂の売上も、住人が増えた分増やさなくてはならなかった。 「そんなの、気にしなくて、よかったのに……」  勝手に功一の夢に乗っかって、店にまで転がり込んだのは、自分だ。功一は、もっとべつの人と、きっと素敵な女性と、ここを営むはずだったのだ。  おれは、結婚もできなくて、子どももできなくて、先輩のご両親に挨拶すら行けない。 「うん……、でも、おれが決めたことだから」  小さく笑って、でも言葉を曲げない瞳を見たら、胸の奥が苦しくなった。  二人でいたって、そばにいたって、すき合っていたって、二人は一人にはなれない。言葉を交わして、気持ちを伝えなきゃ、わかり合うことすらできない。でも……。  先輩の手をとる。真っ直ぐな目を見る。  あなたの目を見る。あなたを一人にしないこと。それが、おれの決めたこと。 「養ってもらわなくていい」 「紫乃……」 「そんな自信は要りません。おれは、コウ先輩のそばにいさせてほしいんです」  それだけなんだ。それだけで、おれは幸せになれるから、だから、ぜんぶ「おれが」って、抱え込まないでほしいんだ。先輩と対等でいたい。だから、そんなふうに決められてしまったら、おれは、さみしい。  功一が考えていたことは、少しわかる。功一にも、気を遣わせているという負い目があったのだと思う。男女ならばできたけじめのつけ方が、紫乃相手には見つけられない。だから、認めてもらうために、紫乃一人くらい支えられると、見せるためだったのではないだろうか。 「紫乃、でも……」 「先輩は、おれの気持ちがわかってないです」  ずっと見ていたんなら、ずっと見ていてくれるのなら、おれの気持ちくらい、当ててみてください。ぎゅ、と、握られた手に、手を重ねる。 (ね、わかるでしょう?) 「……すき」 「聞こえません」 「紫乃がすき。そういうところが、ほんとうにすき」  身体をいっぱいに抱き締められて、思わず「おれもです」と言いそうになった。でも、小さな返事だけにしておいた。あんまり甘やかすと、すぐ調子に乗るんだから。  ね、先輩、おれ思うんですよ。  そこにいるのが当たり前で、お互いが空気みたいに自然になっちゃったって、きっといつもどきどきしていて、そういうのも当たり前で。片方に寄りかかるのではなくて、一方的に支えられるんじゃなくて、手を伸ばし合う。お互いにできないことは、頼って、いっしょに考えて、二人でやれることを増やしていける。幸せって、一つ一つじゃなくて、そういうのを許し合える二人にだけ見つけられる一つのものなんだって。  おれは、宮司功一と、そういう二人になりたい。 「……誕生日、おめでとう」 「はい」 「プレゼント、なんだけど……」 「さっき、ケーキ貰いましたけど?」  面白半分で言い返したら、いきなりぶちゅっとキスされた。びっくりしすぎて、一度常温に戻った頰が再熱する。 「ちょ……っ!」 「紫乃がイジワルばっかり言うから、仕返し。自業自得だ」 「……うれしい、とか言ったら?」 「……おれがキュン死にする」 「あははっ」  おかしい。似合わない物言いが意外で、腹を抱えて笑ったら、功一も自分の言ったことに声を出して笑った。  ほら、見て。もう、見つけたよ。  幸せの形って、一人じゃ難しくて、でも二人だと、こんなに簡単に見つけられてしまうものなんだね。 「紫乃」  そっと、慈しむように名前を呼ばれた。  ゆっくりと目蓋を上げると、彼の背中が見えた。開いた窓から、柔らかい月の光と初夏の香りを含んだ風が入ってくる。彼の短い髪が、微風に揺れている。 「先輩……?」  ああ、きれいだなあ……。  輪郭を月光が縁取って、でも、なんでだろう、その背中が、彼が、ふと遠くに行ってしまう気がした。 「誕生日おめでとう」 「もう、何回目ですか?」 「はは、六回目くらい?」 「九回目です」  そんなに言ってた? と笑う功一につられて、紫乃も笑った。  背中に、まだ手のひらの感触が鮮やかに残っている。功一は、慈しむようにやさしく、抱いてくれた。温かくて、愛おしくて、泣きそうになった。  何度も、何度も、ここにいることを確かめるように名前を呼んで、その腕でいっぱいに抱き締めてくれた。世界に二人だけみたいで、こんな時間が続けばいいと思った。  宮司功一がいるのなら、もうほかのだれもいらないと、思った。 「いろいろ考えたんだけどね、紫乃」 「なにをです?」 「プレゼント」 「さっき、ケーキ貰いましたよ?」  今度のは、意地悪で言ったのではなかった。功一から貰ったケーキには、気持ちがたくさん籠っていて、魔法がかかったみたいにおいしかった。  それに、紫乃の気持ちに、功一はちゃんと応えてくれた。愛されている証をくれた。こんなにこんなに幸福なのに、これ以上なにを望むというのだろう。 「うん、でも、ずっと紫乃にあげたかったものがあって、……でも、言っていいのか、迷っていたんだ」 「あげたかったもの……?」  うん。そう、頷いて、功一がこちらを振り向く。月光で照らされた瞳は、宝物みたいにきらきらして見えて、すごくすごく、きれいで……。  功一の頰が銀色の縁に彩られ、ほんのり色づいていた。微笑む唇が、だれよりやさしいことを、知っている。 「紫乃、おれの名字を、もらってほしいんだ」 「おれのために、紫乃のそのかっこいい名字、捨ててくれないかな」と、言われて、泣きそうになった。布団から出る。月光に包まれる功一に抱きつく。肌が重なって、ぬくもりが一つになる。 「先輩……」 「ごめんな、遅くなって」 「……ばか」 (なにが、遅くなって、だよ)  目が熱くて堪らない。熱くて熱くて、硬い肩の骨に頬を寄せた。温い手のひらが、頭の後ろをすっぽりくるんでくれる。 「紫乃、泣いてる?」 「泣いてない」  泣いてない。泣いてないけど、恥ずかしいから、少しだけ、こうさせていてほしい。二人でいることを許してくれて、うれしい。 「宮司、紫乃」  月明かりの下で口にした言葉を、一生、忘れない。 「じゃあ、行ってくるね。店番よろしく」 「はい。ちゃんと夕方のピークまでに帰ってきてくださいよ?」 「わかってるわかってる。行ってきます」 「もー、ぜったいですよ? 行ってらっしゃい」  最後の会話だとわかっていたら、もっと、ちゃんと、言いたかった。照れないで、目を見て、向き合って、手を重ねて、あなたにすきだと、伝えたかった。  五時を回った。先輩が出かけてから、二時間が過ぎた。 「もう、……早く帰ってこないかなあ……」  カウンターのそばの、電話が鳴った。訃報だった。  宮司功一の命日は、紫乃の誕生日の翌日だ。あの日も、ちょうどこんな感じの、さらりとした晴れの日だった。  功一の実家は、みやじ食堂のある豊下市から電車を二時間ほど乗り継いだところにある。豊下市と同じくらい小さな街で、背の低いマンション住宅が多く見受けられる。  駅前に個人経営の花屋がある。店先に、空気の色をそのまま染め出したみたいな季節の花々が両手を伸ばしている。色の落ちたポスト、数メートル間隔で設置された丸い街灯、焦げ茶色の車両避け、街路樹の緑。明るい日差しと柔らかな雰囲気に包まれた駅を出る。  この街は、穏やかな空気で満ちている。功一みたいだ。いつも思う。  墓地は、駅から徒歩十分。 「……ごめんね、先輩」  呟く。駅を出てすぐのベンチだった。その場で、足が動かなくなった。  毎年、毎年、もうこれで四年目だ。もうずっと、ここでこうしている。  駅まで来て、いつも動けなくなった。墓地の場所は知っているのに、そこに、足を向けられない。彼の名の彫られた墓を見ることができない。この街に、紫乃は入れない。  功一を殺した自分は、ここに拒絶されている。  駅の近くのコンビニで、適当に昼食を買って、ベンチで食べた。なにをするでもなく、功一の生まれ育った街を眺めて、日が橙色になってからまた電車に乗って、食堂に帰った。 「ただいま」  おとといまで、温かかった食堂は、「おかえりなさい」の声すら、もう返ってこなかった。  うにゃあ、と声がして、のそのそとまんじゅうが店の奥から歩いてくる。入口の鈴の音を覚えていたのだろう。 「ポチ……」  しゃがんで手を差し出すと、喉を鳴らしながらポチは紫乃の指先に湿った鼻でタッチした。それだけのことなのに、急に目頭が熱くなった。鼻の奥がつんとして、思わず嗚咽が零れ落ちた。 「ポチ、おれ、ひとりぼっちだよ……」  一人でいいって、ほかのだれもいらないって、そう言ったけれど……、でも、さみしい。だれかに、助けてほしい。勝手すぎると思う。 「巧くん……」  今そばにいてほしい人の名前は、とっくの昔に、自分自身が知っていたのだ。  翌日の月曜日にも、『休業日』の看板をかけた。  あした、また変わらずに明るいみやじ食堂に戻れるように、仕込みだけ午前中に済ませた。 「行ってくるね、ポチ」  カウンターに座って、ポチはゴロゴロと喉で返事をした。その姿が優雅にお茶を嗜む人のように見えて、ちょっと笑って、店を出た。  功一が気に入ってつけていたキーホルダーがついた鍵を回して、戸締りを完了する。 「……行ってくるね、先輩」  失くしたままじゃ、いられない。ほしいものは、見ているだけじゃ手に入らない。それが大切なものなら、なおさら、諦めちゃったら届かない。  あの日、功一がゆで卵を出してくれたときの気持ちを、今になってようやく、わかることができた気がする。  振り向く。いつもの、みやじ食堂へ至る道が瞳に映る。仰いだ空は、目を細めるくらい、眩しかった。  初夏の風が吹いている。  空に向かって、手を挙げた。いっぱいに、手を振った。  見えるかな。わかるかな。  あなたに手を振る。力を込めて、いっぱいに振る。青が少しだけ、滲む。かなしいほど、綺麗だ。 (ね、先輩。これが、おれたちのサインだ)  愛してくれて、ほんとうに、ありがとう。  *  きょうはバイトがないと言う柳瀬に、部屋探しを手伝ってもらうことにした。きのうのうちに目をつけておいた物件を内覧し、新しいところも視野に入れる。そこまで強いこだわりはないし、金銭面の上限も立地もある程度制限がある。それに照らし合わせれば、自ずと候補は絞られた。 「なんとか決まりそうだな」 「巻き込んで悪いな」 「ほんとよお、そんなにアタシと暮らすのがイヤなのかしらあ」 「なんで急にオネエなんだよ」  笑った。ちゃんと、笑えた。  帰り道、近所のスーパーに寄った。夕飯のおかずの入ったビニール袋を提げて、夕日を背にして、柳瀬の家へ帰る。  見慣れない道に、みやじ食堂の影はない。  紫乃とすら、こんなふうに夕焼けの中を歩いたことはなかった。 「……意外と、ヤナとうまくやれたりしてな」  揶揄って言ったら、「ごめんなさいねえ、アタシ、これでも女の子がすきなのよ」と引き続きオネエ言葉で返されて、吹き出した。 「オネエさんなのに、そこはオッケーじゃねえのか」 「おれにだって、このみがあるんだよ。宮司さんならオッケーだけど」 「かわいいから?」 「かわいいから」 「巧は百パーセント『かっこいい』部類だからなあ」と、見事に振られる。笑ってしまう。  そうだよなあ、と、夕日を仰ぐ。  人には、このみがある。受け入れられる人と、どうしたって受け入れられない人がいる。 (……いいんだ)  もう、いいんだ。  思い悩まなくても、苦しい気持ちを我慢しなくても、もういいんだ。もう終わった恋愛なんだ。  紫乃が、巧を必要とすることはない。あの人には功一がいるのだから。迎えに来るなんてことはあり得ない。ずっと、永久に、ない。  期待するな。履き違えるな。おれに向けられた笑顔は、ぜんぶぜんぶ、功一さんを思う気持ちからだったんだ。おれに重ねて、あの人を思うから、宮司さんはおれといてくれたんだ。おれが「宮司さん」と呼ぶから、いっしょにいてくれただけなんだ。  履き違えるな。  もう一度だけ、噛み締めるように、ゆっくりと口にする。 「もう、終わった恋なんだ」  月曜日になった。  一週間前が、嘘だったみたいだ。みやじ食堂にいて、紫乃に起こしてもらって、おいしいお弁当があってふつうだったのが、もう、こんなに遠い。 「巧、起きたー?」 「……お前、早いな」 「一人暮らしだからな」  声をかけられて、のそりと布団から顔を出す。柳瀬はもう身支度を終えて、朝ご飯を作っていた。 「ああ、そうか。一人暮らしはじめたら、自分で起きなきゃいけないのか……」  そう思い至って、自信がなくなる。自炊もしなくてはいけないし、洗濯も、掃除も当番ではなく自分でぜんぶやって、さらにバイトも探さないといけない。これからのことを思って出た溜め息に、柳瀬が「おいおい」と肩を竦める。 「ちゃんと起きて、一限とか来るんだぞ?」 「自信ねえ……」 「メシも」 「そこはもう、朝昼夜ぜんぶ学食行くわ。それかコンビニか」 「……おまえ、ほんとにやりそうだからこわいんだよな」  きょうの学校帰りに、正式に不動産屋と契約してくるつもりだ。親にも連絡をして、口座に資金を振り込んでもらってある。  これで、ほんとうに、さよならだ。 「……いてて」 「巧?」 「……なんでもない」  一度布団にくるまって、それから何事もなかったように立ち上がる。  選べないはずだった答えしか残らなかった。もう自分には、諦めることしかできない。  朝食を済ませて、部屋を出る。  きょうは午後から雨が降るらしい。今はこんなに晴れ渡っているけれど、最近の天気は変わりやすい。そういえば、自分の傘をみやじ食堂に置いてきてしまった。仕方がないので、登校前にコンビニで買った。  歩いて学校に着いて、これはこれで便利だと思った。食堂もこれくらい近かったら……、と考えかけて、いつかこんなことを本気で思っていたなあ、と苦笑した。  耳に残るのは、やっぱり大すきな人の、「おかえり」の声だ。 「……え……?」 「おかえり、巧くん」  会いたくて会いたくて、聞きたかったその言葉を携えて、その人は待っていた。

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