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その5

「ねえ、聞いてる?」 「……えっ?」 「ほら、やっぱり聞いてない」 「ごめん……」  彼女がなんだか怒っているみたいだったから、なにを言われたのかわからなかったけれど、とりあえず謝った。  それが逆効果だったらしい。次の日、その子に振られた。 「……巧くんは、わたしのこと、すきじゃないんだよね。知ってた」  来る者は拒まない。去る者も追わない。すきじゃないから、だ。彼女がいてもいなくても、巧の世界は変わらない。だから、特別大切にもできない。  巧はいつも、告白されては振られるばかりだ。  だいたいのフラレ文句は、「わたしのこと、すきじゃないんだよね」か、「いつもわたしからばっかり」だ。キスもセックスも、自分から求めたことはなかった。  ――だから、初めてだったんだ。  初めて、夢に見るほどに触りたいと思って、初めて、喉が渇くような焦燥を味わって、初めて、この人だけは手に入れたいと思って、初めて、おれのことをすきになってほしいと願って、初めて、あなたがすきだと、告げたのだ。  初恋は叶わないものだと、よく言うじゃないか。それだけの、ことだった。  午後から急激に曇って、ちょうど四限が終わる直前に雨が降りはじめた。夕立みたいな強い雨だ。 「あーあ、このタイミングで降ることないのに」 「ほんとにな」  今から不動産屋に行かなくてはならないのに、憂鬱だ。柳瀬と連れ立って、だらだらと教室を出る。朝のうちに傘を買っておいて正解だった。この状態では、今頃近くのコンビニは大盛況だろう。  校舎を出て、ビニール傘をさす。校門を目指して歩きはじめる。雨の匂いが鼻先を過った。ペトリコールと名づけた人は、青く揺らめく水面のように感性が豊かだったに違いない。  視線を上げる。  息が、詰まった。  世界中から、雨の音が消える。雨音だけじゃない。傘にぶつかる滴の音も、風に載って聞こえてきた自動車の水を弾く音も、背後の校舎のざわめきも、周りの学生の話し声も足音も、一瞬で遠くなる。白くぼやける視界に、そこだけが透明に、澄んで見える。 「え……?」 「おかえり、巧くん」  小さく微笑む頬に、雨粒がするりと滑っていく。そこで待っていた人の名前を、いやというほど知っている。 「宮司さん……?」 (どうして……)  わからない。ただ、足が勝手に動き出していた。  子どもみたいな顔で、大人みたいに微笑む彼に、駆け寄る。傘の中に引き込む。 「あんた、なにしてるんですか、傘もささないで……!」 「傘……、ああ、ははは、忘れちゃって」 「笑ってんなよ、ばか!」  傘を肩にかけて、急いでバッグからタオルを出す。紫乃の頭に被せて、ごしごしと強引に拭う。 「ちょっと、巧く……」 「文句なんか、聞きませんから」 (ほんと、なにやってんだよ……)  もう、終わったはず、だったのに。  紫乃が俯いた。無視して、髪を拭き続けた。微かに触れた頬は驚くほど冷たかった。  いつから待っていたのかは知らないが、傘も取りに行かず、こんなに濡れて、身体を冷やして、そんなところを見つけて、巧が怒らないわけがないだろう。多少なりとも自覚はあったのか、しょんぼりと、Tシャツに描かれた大きな黄色のねこまで項垂れて見える。  柳瀬が追いついてくる。巧といる人がだれか気づいて、頷いてから先に帰ってくれた。彼のこういうところを、ほんとうにかっこいいと思う。  とりあえず、全身ずぶ濡れの紫乃をなんとかしないと。このままでは、風邪をひく。理由なんて、話なんて、そんなのあとでいい。 「宮司さん、とりあえず、屋根のあるところに入りましょう。学校の中ならコンビニもあるし」 「……しの」  雨の中で、声が響いた。  すごく小さな声だったのに、おれの耳にはそばで囁かれたように鮮明に、まだ、あんたの声は届くんだ。 「あの、宮司さん……」 「紫乃だ。おれの名前は、紫乃だよ」  *  雨が降ってきた。  家を出たときは光る太陽が頭上にあったのに、大学の校門に着いたあたりであっという間に暗くなって、やがて、水滴が落ちてきた。 (しまった、傘忘れて来ちゃったなあ)  はじめは静かな雨だったのに、だんだんと雨粒が大きさを増していく。ぼたぼたと頭頂部を狙って雫が当たってきて、痛いくらいだ。でも、今傘を取りに戻ったら、行き違いになってしまうかもしれない。彼の講義の終わる時間すら、紫乃は知らなかった。  一時間ほど待っていた頃、彼が現れた。柳瀬と校舎を出てくるのを見て、ちゃんと学校行ってたんだな、と安心する。  目が合った。雨のせいで世界は仄白い。それなのに、彼の目には雨なんて映らないみたいに、真っ直ぐ、紫乃を見つけるのだ。 「……え……?」 「おかえり、巧くん」  驚いた顔。……そうだな、おれも、君と同じくらい、強情だったはずだったから。  巧が駆け寄ってくる。一番に、紫乃に傘を差し出してくれる。 「あんた、なにしてるんですか、傘もささないで……!」 「傘……、ああ、ははは、忘れちゃって」 「笑ってんなよ、ばか!」  真剣な顔に、叱られた。眉根を寄せたまま、タオルで頭を拭いてくれる。触れる手は、すごくすごく、温かいと思った。  きっと、聞きたいことがたくさんあるんだと思う。言いたいことも、もっと。それでも、紫乃を、一番に思ってくれる。  君は、おれのことを、「宮司さん」と呼ぶね。わかっていてもなお、いつもそう呼んでくれるね。 「おれの名前は、紫乃だよ」  けどね、いいんだ。  おれの宝物は、おれが忘れない限り、おれが失わない限り、そこにあり続ける。もしも君が、そう呼ぶのがつらいのなら、もうおれに返しても、いいんだ。  巧に連れられて大学の中に入った。  紫乃の通っていた大学よりもかなり広い。総合大学らしく、学部や学生もずっと多いからだろう。けれど、雰囲気は同じだと思った。若くて、明るくて……、功一と出会った場所も、こんなところだった。 「服、とりあえずおれの上着着ていてください。ロッカーからジャージ取ってくるので」  と、薄手のカーディガンを手渡され、少し困る。そのまま着たら、巧のカーディガンがびしょ濡れになるだろう。 「気にしなくていいですよ」 「え?」 「おれの服なんて、濡れてもべつに。洗えばいいだけですし。……そんなことよりも、あんたが風邪をひくほうが困ります」  思わず、ぽかんと口を開けて、彼のそっぽを向いた横顔を見つめてしまった。気づいて、「……なんです」と尋ねられる。 「あっ、ごめん。はは、巧くんにはお見通しなんだなあって」 「……あんたのこと、ですから」  くすり、と笑ってしまう。 (……ですって、先輩。あなたも、巧くんの爪の垢でも煎じて飲んだら?)  でも、それでも。おれはあなたが、そんなあなたが、すきだったんです。  大きめのカーディガンを身に纏って、案内された学食のイスに座る。 「ちょっとだけ待っていてくださいね。……どっか行かないでくださいよ」  そう言われてから、しばらく経つ。今さらだけれど、いっしょに行けばよかった。紫乃は、待つのが苦手だ。  講義はだいたい終わったのか、校門付近と比べると人は少ない。学食に出入りするのは、生徒がちらほらと、帰り支度を済ませた事務員らしき人が多い。 (そういえば、おれは四限が終わったら、すぐサークルに行っていたんだったなあ……)  もう、六年も七年も前のことなのに、こんなに鮮やかに、覚えている。教室の風景、真四角に切り取られた青空、勉強する仲間の横顔、シャーペンの走る音、柔らかい雰囲気、机の小さな落書き、固いイスの感触、笑う顔、澄んだ功一の声――。 「すみません、お待たせしました」 「巧くん」  走って行ってきたのだろうか、肩で息をしながら、巧が戻ってきた。 「これ、トイレとかで着替えましょう。ちゃんと洗ってありますし」 「それを洗ってるのは、おれだもんな」 「うっ、おっしゃる通りです……」 「あはは、ごめんごめん。ありがとう」  素直すぎる反応に、つい揶揄いたくなってしまう。ふだん落ち着いている分、年相応の姿を見ると、うれしくなる。唇を尖らせてジャージの入った見慣れた袋を手渡され、一番近くのトイレに促される。  紫乃の通っていた大学がかなりの年代物だったからか、比べると、この大学のトイレはすごく綺麗だった。入口にはハンドドライヤーが備えつけてあるし、全身鏡も、どんな目的があるのかわからない多目的トイレまである。  服を脱ぎはじめると、巧は気を遣ったみたいに慌ててトイレから出ていった。男同士だから気にしないのに、と思ったけれど、そういえば功一も、いつも顔を背けては耳まで赤くしていたっけ、と思い出して、苦笑した。 「おまたせ」 「あ、いえ」  着替えて出ていくと、巧はトイレの入口のすぐそばで待ってくれていた。携帯電話も触らずに、ただ、じっと待っていたみたいだ。巧のそういうところが、気に入っていた。  きっと巧は、無意識でそういう時間の過ごし方を選んでいる。けれど紫乃はちゃんと、知っている。  巧が歩き出すので、ついていく。校内のコンビニで傘を買って、紫乃にくれた。細かいお金を持っていなかったから、あとできっちり返そうと思った。ここに来たら、それができると、思っていた。  校舎を出て、まだ屋根のあるところで立ち止まる。巧の後ろ姿が、不意に遠く感じられた。 「……じゃあ、おれ、今から不動産屋に行くので、これで」 「え……」 「新しい部屋、契約しなきゃいけないから」  ポン、と傘を開く。「ジャージは返さなくていいです」なんて言って、雨の中に出ていこうとする。  無意識に、手が伸びた。  指が勝手に、巧の服の袖を掴んでいた。  驚いた顔が振り向く。 「あの……」 「あ……」  出て行け、と言った。  彼に裏切られた気持ちになった。  嘘をつかれて、かなしかった。  功一との約束。さみしさに負けて、守り切れなかったことを、一晩中声を枯らして悔やんだ。  どれも、真実だ。紛れもない、自分のことだろう。 「……離してください」  小さく、巧の手が揺れる。その反動で、呆気なく指先が離れた。  巧の瞳が、雨を映す。傘を掲げる。行ってしまう。このままじゃ、行ってしまう――。 「……宮司、さん……」  手を掴んだ。そのまま引っ張って、背の高い彼の胸元に額を寄せた。ビニール傘が、地面に落ちてコツリと鳴った。小さな音が、雨で掻き消されていく。  ーーおれには、名字を重ねた人がいる。  でも、それでも、我が儘だと言われたって、自分勝手だといやがられたって、酷なことを強いていると自覚していたって、ペットじゃないんだからと呆れられたって、おれは、この手を離したくない。ちゃんと、面倒を見ていてあげたいんだ。ちゃんと、あの場所で、おれといてほしいんだ。 「あの……」 「……巧くんのせいだ」 「え、えっと……」 「巧くんのせいで、お客さんにちょっと泣かれるほど辛いハヤシライス食べさせちゃった。巧くんのせいで、お客さんに具なしロールキャベツ出しちゃった。巧くんのせいで、お客さんに味なしサラダ食べさせちゃうところだった。ぜんぶぜんぶ、巧くんのせいだ」 「そんな……」  理不尽でいい。迷惑でいい。自分勝手でいい。ただ、そばにいてほしい。  同じ気持ちはまだ持ち寄れない。功一を忘れることなんてできない。それでも、これが今一番、素直な気持ちだ。嘘も偽りも誤魔化しもない。目の前のたった一人に伝えたいと願う、本音なのだ。  巧がしたことを許すことは、まだできそうにない。でも、それで今まで重ねてきた時間がなくなるなんてことは、ぜったいにないのだ。  巧がどうしようもないくらいお人よしだったから、あの日出会った。手を差し伸べた。世話の焼ける弟ができたみたいで、たのしかった。紫乃の料理を、だれよりも素直に「おいしい」と言ってくれて、うれしかった。毎日、自分の料理を食べてくれる人がいることが、幸せだった。弁当の中身を考えるのがすきだった。誕生日には、紫乃によく似合うエプロンを贈ってくれた。毎日愛用している。  紫乃より、功一より、大きな手は、いつもやさしかった。包み込むようなやさしさを、いつも紫乃にくれていた。功一を思い出して崩れそうになったとき、そばにいてくれた。胸を貸してくれた。  だからおれは、今、また変わらずに立っていられる。君の前にいられる。  宮司紫乃でいられるんだ。 「巧くんがいないせいで、おれ、なんもうまくいかないんだよ」  だから、いっしょにいようよ。  * (夢……?)  そうだ、きっと自分に都合のいい夢を見ているのだ。  小さな肩が、震えている。小さな身体から、震えが伝わってくる。違う。確かに、腕の中にある。巧に、寄り添っている。 (選んでいいのか……?)  巧と紫乃は、同じ気持ちではない。巧が焦がれるほど思うように、紫乃が焦がれるのは、違う人だ。それでも、今、小さな丸い手は自分に向かって、差し出されている。  たとえ、そばにいられたって、紫乃が巧をすきになってくれることはない。それがわかったから、もう終わった恋なのだと言い聞かせて、諦めようとした。  たとえ、どんなに思ったって、紫乃が巧をそういう相手として見ることはない。それを思い知らされたから、「すきだった」と告げた。  たとえ、どんなに互いが望んだって、巧は宮司功一にはなれない。それでようやく、忘れる、という選択肢を見つけられたのだ。 「紫乃さん」と、呼んでみたかった。  紫乃が校門で名前を口にしたとき、確かに、呼ぼうと思った。それが、巧の気持ちのはずだった。  それでも、言葉が閊えて、呼ぶタイミングを逃していた。そうして、次に思わず出てきた彼の名前は、いつもと変わらない「宮司さん」だった。  自分がすきになったのは、「櫻井紫乃」ではなく、「宮司紫乃」なのだと、頭を後ろから殴られたような思いがした。  宮司紫乃をすきでいる限り、おれはあんたを「宮司さん」と呼んでしまう。そうである限り、おれは一生功一さんには勝てなくて、あんたは一生、おれを見ることはないんだ。  だったら、いっそ、もう終わらせたい。 「すきだった、って言ったじゃないですか。おれに、もうその気はないですから」  そう、生意気に言えたらよかった。きっと、こんなに、苦しくなかった。  ほんとうに紫乃を思っていないのなら、これからだって、ただの家主として、ふつうに暮らせるはずだった。 「……おれは、功一さんにはなれません」  それを言うのに、身体中の勇気を使った。言ったら、紫乃をかなしい現実に引き戻してしまうと、思ったから。言ったら、今度こそ、紫乃のそばにいる資格を失うと、思ったから。それなのに。 「そんなこと、頼んでない」  息が詰まった。いろんな感情が綯い交ぜになって、頭が混乱する。目の前の旋毛を凝視する。  今までの紫乃なら、傷ついていたはずだ。宮司功一がいないという現実を、突きつけられるのを恐れたはずだ。いやだと巧を拒んだはずだ。  どうして、と問おうとしたけれど、うまく声が出なかった。掠れた息だけが喉から零れる。巧の動揺を察したのか、紫乃は緩慢に身体を離して、一歩後ろへ下がった。一歩分の距離ができて、彼の顔がよく見えた。  清々しく、微笑んでいる。 「麻紀が、言ってくれた」 「え……?」 「もう先輩はいないんだって、おれに、言ってくれたんだ」 (小戸森さん……)  ――それを言うことが、どんなにどんなに、つらいことなのか、巧よりずっとわかっていて、なお、声にして紫乃に告げたのだ。 (……一発くらい、殴られてたりして)  おれと同じように、それくらいは覚悟してたのかな。だとしたら、やっぱりあなたは、強い人だ。おれはもう離れるって、わかっていたから言えただけなのだから。 「……麻紀さ」 「はい」 「おれのこと、すきだったんだって」 「……はい」 「知ってた?」 「……はい」  知っていた。知っていました。知らないの、あんただけですよ。 「おれ、ぜんぜん気づかなかったよ。……何年も、ずっといっしょにいたはずなのになあ」なんて、頭を掻く様子を見据える。気づいた紫乃が笑みを仕舞う。 「おれだって、あんたがすきだったんです」 「うん。もう、知ってる」  もう、伝えた。伝えたからには、互いに知らない振りはできない。答えがないと、もう、そばにいられないのだ。  巧には、紫乃といられる理由がない。拒絶された手のひらの痛さが、それを告げている。だから、今、ここに紫乃が立って、自分と向き合っている現実が、受け入れられない。子どものようだと、言われるかもしれない。  でも、それでも、初めてした恋だから、どうしたらいいかわからないんだ。学校じゃ教えてくれない、大人にだってわからない、恋の仕方に戸惑うのは、きっとみんな、同じだ。  きらわれたくなくて、離れたくなくて、そばにいたくて、わかってほしくて、触れたくて、触れてほしくて、だれより、自分を一番に思ってほしい。そんなとき、なにかを考えてからとか、そんな理屈、恋する力には到底敵わないんだ。それを、十九年生きてきて、初めて知った。紫乃が、教えてくれた。だから、証がほしかった。  言葉が、形になって残ればいいのに。そうすれば、もう、安心して紫乃のところへ帰れる。もう、十分すぎるくらい、もらったはずなのに、そんなことを考えてしまう。  欲張りだと言われたって、「そばにいるだけでいい」なんて、結局、綺麗事だった。わかっていた。 「……宮司さん」  口を開く。なにを言うつもりなのか、自分でも、わからなかった。 「うん?」  やさしい相槌。またこうやって、顔を突き合わせて話ができるだけでも幸福なはずなのに、これ以上、なにを欲しいというのだろう。 「……おれ、またあんなこと、しちゃうかもしれませんよ」 「大丈夫だよ」  伏せた瞳を上げる。  出会ったあの日と同じように――、彼はまったく高校生にしか見えない無邪気な顔で、 「今度はちゃんと、ぶん殴ってでも、止めてやるから」  と笑った。  ――ああ、だめだ、やっぱり、この人には、敵わない。  鼻の奥がつんとして、両手を伸ばした。「うん」なんて羽毛のような声音で、身体を支えてくれる。この人は、こんな顔のくせして、こんな華奢な身体のくせして、おれよりずっと、ずっと、大人なんだ。  敵わないと、思わされてしまう。  七歳の差が埋まることはない。でも、そんなことではなくて、彼は、その目で耳で唇で手足で、心で、繋ぎ紡いで、大人になったのだ。 「今は、巧くんに、そばにいてほしいって、思うから」  足りないから、その分、いっしょにいればいい。足りない分、毎日いっしょにいて、「おはよう」と言って、ご飯を食べて、学校に行って、店を手伝って、「おやすみ」って、顔見て言えば、それでいい。そうして、時間を重ねて、紫乃のことを、もっと知りたい。自分のことを、もっと知ってほしい。「諦める」選択は、最後でいい。  今、巧の腕の中に、新しい選択肢はある。 「……宮司さん」 「うん?」 「もう一度、お世話になります」 「うん。よろしくな」  許されて、今度はこちらから抱き締めた身体は、泣きたくなるくらい、温かかった。  それから、二人で手を繋いで帰った。  稲荷木駅で電車を下車して、緑ばかりになった桜並木の下を歩く。ちらりと隣を盗み見れば、紫乃は傘越しに空を仰いでいた。つられて、目を向ける。葉の間から、ちらちらと夕空が覗いていた。もう雨が上がるのだろう。夕暮れらしい明るさを取り戻した天に、小さな星が瞬きはじめている。  嗚咽が聞こえた。聞こえない振りをした。  ぎゅ、と繋ぐ手に力を籠めたら、同じくらいの力が返ってきた。二つの手のひらの中で、体温が一つになる。 「……たくみくん……」 「はい」  ちゃんと、おれはいますよ。ちゃんと、聞いているよ。 「おれは、一人ぼっちじゃなかったよ……」 「はい」  彼の瞳には、小さな星に、思い出が滲んで見えたのかもしれない。  ずっと、宮司功一が守ってくれていた。みやじ食堂という空間が、そこに流れるやさしい時間が、宮司紫乃にとってどんなに大切だったか、巧にはわかる。  きょうからは、おれがこの人を守る場所になろう。  代わりじゃなくて、川辺巧として、そばにいる。紫乃が、そう願ってくれたから。 「宮司さん」 「うん……」 「あんたは、ずっと、一人ぼっちなんかじゃありませんでしたよ。……今までも、これからも、きっと、ずっと」  一秒毎に、過去は遠ざかっていく。けれど、たとえきのうに戻れなくても、変わらずに、あしたを迎えられたら、それでいい。忘れられなくて、いいんだよ。  徒歩七分でみやじ食堂に帰ると、店の前で見慣れた人影が傘を揺らしていた。「あ」なんて間の抜けた声が出て、気づいた人物がこちらを振り向く。 「ヤナ」 「やっと帰ってきたな。遅いぞ、バカワベ」 「お前……、暇だったからって、それはねえよ」  ずいっとボストンバッグを目の前に差し出されて、お見通しか、と苦笑した。わざわざ巧の荷物を届けに来てくれたらしい。ずいぶん、時間をかけて帰ってきてしまったようだ。  バッグを受け取ると、柳瀬は「じゃあな」と爪先を返した。それを、紫乃が呼び留める。 「柳瀬くん」 「え、は、はい?」  まだ紫乃が前の一件のことを怒っていると思ったのか、柳瀬が戸惑いながら足を止める。笑える。おれのすきな人は、そんなに心狭くないっつうの。  紫乃の手が、ぺたっと柳瀬の手に触れる。 「ほら、こんなに冷えてる。上がっていきな。なんかあったかいもん、作ってやるから」 「いっ、いいんですかっ?」 「いいよ。甘いもののほうがいいなら、またプチシュー焼こうか?」  紫乃がにやりとすると、柳瀬は真っ青になって、「あれはないっすよ! おれガチ泣きしましたからね! 残したら巧に殺されるし!」と傘をブンブン振るから、巧も紫乃も、腹を抱えて笑った。  紫乃が鍵を回して、戸を開く。鈴が鳴って、その後ろに柳瀬がついていく。 「ただいまー、ポチ」 「お邪魔しまーす」  二人の背中の奥に、まんじゅうが寄ってくるのが見えた。「よいしょ」と声をかけて、紫乃が丸い身体を抱き上げる。  足を止める。気づいて、二人が振り向いた。 「巧くん?」  首を傾げられて、改めて、紫乃の顔を見た。本気で不可思議そうに、巧の名を呼ぶ。  足元の敷居が、跨げなかった。  戻ってきたんだ。帰ってきたんだ。ほんとうに、ここにいて、いいんだ。それを、大すきな人が望んでくれた。  紫乃に、ひどいことをした。ひどく、傷つけた。それでも、迎えに来てくれて、名前を呼んで、また笑いかけてくれた。  こんなに幸せでいいんだろうか。おれは、ほんとうに、ここにいていいんだろうか。  不安になる。みやじ食堂と自分とを隔てる透明な壁があったらと思うと、こわくてこわくて、足が固まって、膝から下が震えるようだった。 「なにしてんの、ほら、早くおいで」 「あ」  紫乃と柳瀬に、両手を引かれて、思わず一歩踏み出した。  あまりにも簡単に、食堂の中に入れて、驚く。 「なにしてんだよ、おれは早く宮司さんのハヤシ食うんだから」 「あれ、結局ハヤシになったんだ?」 「はい! 前はオムライスいただいたんで、定番繋がり」 「あー、失敗した。おととい作った激辛ハヤシ、残しておけばよかった」 「ちょっ、それどういう意味ですかっ?」  ワイワイと言葉を交わしながら、二人はカウンターへ歩いていく。手は解かれて、今は自分の二本きりだ。  つい、振り返る。  見慣れた、みやじ食堂の入口の扉が、風に揺れて、心地よい鈴の音を響かせている。ああ、そうか、ここは、そういう場所だった。思い出す。  背中で、「巧くん、早く手洗って来なー?」と聞いた。柳瀬が隣に座ってきたらしいポチに、「お前、ちょっとメタボすぎない? 宮司さんに甘やかされると、みんなこうなるの? 巧が心配」なんて話しかけている。跳ねる声が、店内に響く。  最初から、だれに対しても壁なんてない。だれもが笑って食事をして、穏やかで、幸福で、温かかくて、やさしくて。おれの知っているここは、はじめから、だれかを拒んだりすることのない場所だった。おれが、そんなことすら、見えなくなっていただけ。 「あ、川辺くん」  開きっぱなしになっていた扉に、見知った顔がひょっこり覗いた。実はこの人、店長とか言いながら、暇人なんじゃないだろうか。 「小戸森さん」 「ああ、その……、きょうは新作のパイをだな……」 「麻紀だ。どうぞ、入って入って」  紫乃がにこにこして、手招きをする。巧にビミョーな顔を向けながら、小戸森はみやじ食堂の戸を潜った。 「いい匂いがするー!」  と、いきなり外から声が響いて、次の瞬間には桃子が店内に飛び込んできた。 「こんにちは!」 「桃子ちゃん」 「なになに? きゃはは、川辺くん暗い顔~」 「……ヒドイ」 「あっ、宮司さん、こんにちは! きょうもすきです!」 「あー……はは、ありがとう、桃子ちゃん」 「初めまして、おれ、巧の親友の柳瀬あきら。よかったら今度、おれとデートしない?」 「キョーミなーい! あっ、パイだ~!」 「ヒドイ……!」  大学では百戦錬磨の柳瀬あきらがこの扱い。さすが桃子だ。落ち込む柳瀬がおかしい。 「あっ、きょうは開いてる……!」  また外から声がして、今度は秋名が勢いよく扉に顔を出す。珍しく頬が紅潮して、なんだかテンションが高めだ。 「秋名さん、こんにちは」 「ああ、巧くん、こんにちは! 聞いて、きのうオムライス成功したんだ!」 「ほんとうですか!」 「ちょっと待ってね……、携帯で写真を撮ったんだ」  入口でごそごそと鞄を漁りはじめる秋名を、カウンター席に促してあげる。もうみんな見知った顔なのか、「できたんですか?」と、輪に入れてくれる。 「きのう来てみたんですけど、閉まっていて」 「それは、すみませんでした」 「いえいえ、お陰で、自分なりに試行錯誤して作れたの思うんです。……あっ、あった!」  薄い画面を明るくして、秋名が「見てください!」と差し出す。みんなが一同に覗きこんで、称賛を述べる。 「ほら、巧くんも見てください!」 「えっ、あ、はい」 「川辺くん、扉開けっぱ」 「わ、ごめん」 「川辺くんもパイは食べるかい」 「ああ、はい。いただきます」 「巧~、かわいそうなあきらくんを慰めて~」 「わかったわかった」  扉を閉めようと、入口へ近づく。見れば、雨が上がっていた。  薄い雲の合間から夕日が浮かんで見えて、すごく綺麗だ。水彩絵の具でさっと色づけしたような空色に、橙色の光が煌めく。色とりどりの傘が、入口に並んでいる。  あの日、そこに未練がましく滲んだ涙は、もう日々に溶けている。 「巧くん」  振り向く。カウンターで、紫乃が呼んでいた。 「手洗ったら、こっち、手伝ってくれる?」  はい、と返事をした。  なんだか胸がいっぱいで、堪らなくなった。 「はい!」  もう一度、応えた。  扉を閉める。みんなが呼んでいる。温かい空間が、やさしい時間が、足元から身体を満たす。  ここが、すきだ。  すきだと思える。元々の家主はもういないけれど、その人の心を守る人が、ずっと引き継いできた。それに感化されて、ここを大切に思い、集まる人がいる。食事という、一日のうちの一番たのしい時間を、ここで過ごして、笑う人がいる。愛されて、確かに、ここはある。なにも、変わらない。  そんな場所に、今いられる。  こんなに、たくさんの思いが籠った場所だ。胸がいっぱいになるわけだ。  気づけば、くすりと笑っていた。  みんなの元へ、一歩踏み出す。 「宮司さん」 「うん?」 「……ただいま」 「おかえり」と、あんたが眩しく返すから、きっと今頃、やっぱり幸せそうに笑っている功一さんの顔が、おれにも見えた気がした。  後日、秋名からメールを受け取った紫乃は、満足そうな笑みでそれを巧に見せた。テーブルを拭いていた巧は、カウンターから携帯電話を受け取る。  そこには、つるりとした黄金のオムライスと、同じくらい目映い三つの笑顔の写真が添付されていた。真ん中に映るのが娘さんだろう、照れ臭そうにしながらも、自然な表情だった。憂鬱を引き摺って帰る少し前までの父親の陰は、もうそこにはない。 「よかったですね、宮司さん」  携帯電話を返しながら、いっしょに労いの言葉を手渡す。もう一度、画面を一瞥してから、「うん、よかった」と、紫乃がゆっくり頷く。 (ああ……やっぱり、) 「すきです」  ぽろりと零れ出た声に、紫乃が顔を上げる。澄んだ瞳で、真っ直ぐに巧を見つめ返す。  これまで幾度も咽喉に閊えた言葉が、今はこんなに自由に口にできる。返ってこなくてもいい、ただ、素直な気持ちをあんたに伝えたい。 これまで言えなかった分を、少しずつ、一つずつ、渡してあげたい。  一人じゃない。そばにいる。ちゃんといる。 「もしかして、夕飯の催促か? 仕方ないなあ、きょうは先にちょっと取り分けておいて、オムハヤシにしようか」  盛大なる勘違いをしながら、大鍋から二人分のハヤシライスのルウを掬う横顔に苦笑する。ハヤシライスは、巧の一番すきなメニューだ。ほんとうにこの人は、他人と料理のことばっかりなんだから。でも、そういうところも、堪らなくすきだ。大すきだ。  鈴の音が響く。入口を振り向く。  すうっと息を吸い込む音が重なって、思わず笑声が溢れた。 「いらっしゃいませ!」  みやじ食堂は、きょうも二人と一匹と、たくさんの人を結んで営まれている。

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