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心がしょんぼり3
「痛っ」
「あ、すいません」
お昼の社食は満員電車のように混み合っている。安くて美味しいから社食を利用する人が多いのだ。
だから人に軽くぶつかってしまうことは普通にある。
もちろん軽くぶつかるだけだから、普通なら痛いということはない。ないのだけれど、俺の場合はある。それは背中が痣でいっぱいだからだ。
直樹さんは初めて俺の背中を見たときに息をのんでいたから、よっぽどなのだろう。自分では見えないけれど。
今もぶつかったというより触れたと言っていいほど軽くだった。だけど新しくできた痣に触れてしまって痛かった。
そして俺が痛がると一緒にいた末澤が眉を顰める。
「またか」
「あ、うん……」
そう返事を返すと眉間に深い皺を刻む。
とりあえず空いていたテーブルにトレーを置き座る。
「いい加減にしろよ。ってお前が悪い訳じゃないけどさ。でも逃げないのはお前が悪いだろ」
末澤は同期で入社以来仲良くしている。それゆえに言いたいこともズバっという。毒舌のようだけれど、俺のためを思って言ってくれているから不快にはならない。
ただ、しょっちゅう同じことで怒られるのは、さすがにたまらない。
怒られるのは俺が暴力を振るわれているにも関わらず恋人と別れないからだ。
「もういい加減別れて出てけよ。一人暮らしできないほど手取り低いわけじゃないだろ。現に俺だって一人暮らししてるんだし」
「そうなんだけど……」
「まさか、まだ好きだとか言わないよな」
「うん」
「うん、ってどっちだよ」
「さすがに前のようにすごく好きっていうことはないかな。でも嫌いにはなれないんだ」
「はぁ? 体中痣だらけになるくらい暴力振るわれて、それでもまだそんなこと言うわけ?」
最近の末澤は俺に賢人と別れろとばかり言っている。いや、これだけ痣ができるほど暴力を振るわれているんだから言われても当然ではあるけれど。
もしこれが逆の立場だったら俺も別れろって言うだろう。
それはわかっているけれど、嫌いにはなれないんだ。
恋人の賢人とは付き合って3年になるが、暴力を振るわれるようになったのは1年くらい前からで、それまではとても優しかった。俺のことも大切にしてくれていた。
そんな思い出があるから、どうしても嫌いにはなれない。バカかもしれないけど。
「そういえば最近湿布貼ってるみたいじゃん。前は湿布も貼らなかったのに」
「あぁ。貼ってるというか貼って貰ってる」
「貼って貰ってる? 誰に?」
不思議がる末澤を見て、そういえば直樹さんのことを話してなかったな、と思い出す。
「マンションの同じ階の人で、一度玄関から蹴り出されるところみられちゃって。それから心配して湿布貼って、一晩泊めて貰ってるんだ」
「何それ。めっちゃいい人じゃん。暴力男なんかさっさと別れて、その人に乗り換えたらいいのに」
そう……なるよな。これが反対の立場なら絶対にそう言う。
現に俺自身、直樹さんに好意は抱いてる。はっきり好きとか言えるほどじゃないけど、それでも穏やかで優しい直樹さんに好意を抱くのは当然とも言えた。
それでも優しかった賢人が暴力を振るうようになったくらいだから、もしかしたら直樹さんだってそうなるかもしれない。
そう思うと、その好意は大きく膨らませずに今のままでいる方がいい気がする。
賢人が暴力を振るうようになったのは係長に昇進してからだった。
それまでの自由な立場から人を纏めなくてはいけない立場になってストレスが溜まるようになってからだった。
会った日に聞いたけど、直樹さんも賢人と同じ係長だと言っていた。だとしたら、ストレスが溜まることはあるだろう。そうしたら賢人のように暴力を振るうこともあるかもしれない。
末澤にそう言うと、バカかと言われた。
「あのさ。いくらストレス溜まったからって暴力振るう人間なんて少ないんだよ。普通は酒に逃げたり、女なら甘いものとかに逃げたりするんだよ。だから、その人が暴力を振るうかもなんて考える必要はないんだよ」
冷静に考えればそうなのかもしれない。でも、俺にしてみたら賢人だって暴力を振るうようになるとは思えなかったのに、いつの間にか蹴られるようになっていた。
ただ賢人は顔だけは殴らない。だから暴力と言っても背中や腹を蹴ることになる。殴られないから当然だけど顔に痣がつくことはない。だから誰も俺がDVを受けているとは思わないはずだ。
ではなんで末澤が知っているのかと言えば、ぶつかったときに出来たばかりの痣にあたりすごく痛がったことと仲が良いからだ。
俺がDVにあっているのを知っているのは末澤と直樹さんしかいない。女性ならシェルターがあるけれど男の俺だとなんで男が来たんだろうと思うだろう。
だって世の中は男性と女性のカップルがほとんどだ。男同士のカップルなんて少ないし、嫌悪感を示す人だっているだろう。だからシェルターには行かれない。その前に賢人のことを嫌いになれていないから。逃げ出すとかは考えられない。末澤にはおかしいと言われているけれど。
もちろん、好きかどうかと訊かれたら、もう好きとは言えない。散々暴力振るわれていて好きなままではいられない。でも、嫌いではないんだ。すごく好きだったから。だから嫌いにはなれない。だから家を出ていくことはしない。末澤は出ていけと日頃から言っているけれど。
もっと決定的な何かがない限り俺からは出ていかないだろう。でも、賢人からはあるかもしれない。そんな予感がした。
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