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第一章 勇者の求婚 第七話 勇者の恋
薬草を持ったハロルドが、ニコの右側にそっと移動して歩き出す。
森の中は張り巡らされた木々の根や落ち葉、それから石などがそこら中に転がっておりどうしても足元が悪い。
全身に負った火傷のせいで皮膚が突っ張り、足をうまく動かせないニコは転びやすい上に転ぶと大惨事になる。故に、左脇の下に挟んだ松葉杖を器用に使って、ゆっくりと歩くようにしていた。
そのことをハロルドはこのひと月で学んだらしい。ニコとともに歩くときは、患側である右側に立ってニコを守るように寄り添ってくれる。もちろん、採集した薬草を入れた籠はふたつともハロルドが抱えていた。
ニコの生活は穏やかでのんびりしているとはいえ、やることが少ないわけではない。
薬草を持って家に帰りつけば、すぐに次の作業が待っている。薬草が新鮮なうちに下処理を終わらせないとせっかくの薬効が半減してしまうのだ。
採って来たスターフラワーとフラウの花を持って、ニコは家の裏手に流れる川に向かった。
ハロルドは薪を割りに行った。薪割りは身体が不自由なニコにとってひどく重労働で、毎回難儀していたから、こうやって手を借りられるのは正直有り難かった。
川のほとりに腰かけて、花の表面をざっと洗い流す。そのままスターフラワーは数本を束ねて紐で括って籠に戻し、フラウの花は葉と花弁をより分けていく。
慣れた作業なので、片手でもそう時間はかからない。左手と口を使って器用に紐を扱い、少し難儀する部分は精霊が貸してくれる魔力を使った。
フラウの花は葉と花弁で少しだけ効能が違う。葉は別の薬草と混ぜて使えるが、花弁はそのままで使った方がより純度の高い薬になった。
これらの知識はニコが植物魔術を学ぶ過程でついでにと身につけたものだった。
当時のニコは将来自分が魔術を使えなくなる可能性など欠片も考えたことはなかった。しかし、それでもきちんと学んでいた過去の自分は本当に偉かったと思う。
こんな身体でもなんとか生活できたのは、この知識があったおかげだ。
六年前、ニコがこの村に初めてやってきたとき、村人たちはそれはそれはニコのことを警戒していた。
それもそのはずである。こんな辺鄙な村にふらりと住みついた余所者の若い男、というだけでも十分怪しいのに、ニコは全身の火傷痕を隠すために、夏でも長いローブを着て髪を伸ばしていた。
男の動きは覚束なくて、おまけに右腕はない。客観的に見て怪しさ満点である。
仮にニコが村人の立場であれば、子どもや若い娘たちは絶対に近寄るなと言って聞かせるだろう。
それでもニコがこの村に受け入れられたのは、ニコの作る薬の効果が絶大だったからだ。
魔域に隣接するほど辺境にあるこの村に、医者はいない。
最も近い医者がいる町は歩いて半日以上かかり、ニコが来るまで村人たちはその不便さに嘆きつつも具合の悪い家族を背負って町を目指すしかなかった。
しかし、新しく来た火傷だらけの辛気臭い男は薬師だという。背に腹は代えられない、と最初にニコの薬を飲んだのは誰だったのか。
よく覚えてはいないが、勇気ある村人がニコの薬を飲んだ数日後、ニコは村の小さな商店から大量の薬の注文を受けた。村人の飲んだ薬がよく効いたのだ。
当たり前である。ニコの知識は王宮の薬学書から得たもので、王宮の薬師にも引けを取らない。おまけに材料となる薬草は新鮮で、いい薬を作るために不可欠な魔素を多く含んでいた。
それから、ニコはゆっくりと長い時間をかけて村人たちからの信頼を得た。世間話のひとつもせず、ただ黙々と薬を作り続けるニコに特別親しい人はいないけれど、それでも村に顔を見せれば皆挨拶くらいはしてくれる。
そんな彼らから僅かばかりの現金と野菜を受け取るのが、ニコの主な収入源だった。
片方しかない手で器用にフラウの花をより分けていると、頼んだ薪割りが終わったらしいハロルドが手伝いに来てくれる。ニコにとっては三日分の薪割りは半日がかりの大作業だが、ハロルドはその倍以上の薪を四半刻もかからずに割ってしまう。
「これを干せばいい?」
「うん。あっちに引っかけておいて」
ハロルドはニコがまとめたスターフラワーの束を抱えて踵を返した。ニコがひとりで採集していた頃は、薬草を干すのは家の中だった。家の梁にロープを数本渡して、そこにひっかけていたのだ。しかし、ハロルドが来てから採れる薬草の量が一気に増えてしまった。
干す場所がなくなり、慌てて新しく作ったのが外の物干し台だ。元々あった洗濯物用の物干し台にロープと板を増やし、そこに衣服だけではなく色々な薬草を干せるようにしたのだ。
もちろん、その台を作ったのはハロルドでニコはその作業に口だけを出した。
「この時期は雨降らないから、そのまま干していいぞ」
「分かった」
ハロルドは素直にニコの言葉に従う。昔はもう少し生意気で、もう少し我儘だった。
「ハロルド、これも」
「うん」
ニコは分けたフラウの花と葉を持って、物干し台に向かった。
束にしたスターフラワーとは違い、フラウの花は板の上に広げて乾燥させる。ニコはそれ用の浅い籠を用意してその上に花弁が重ならないように広げていった。
単純な作業はふたりで行えばすぐに終わる。朝から出かけた薬草採取は、その下処理までを昼前に終わらせることが出来た。
終わり、と言ってニコはそれまで作業のために曲げていた腰と背筋を伸ばした。突っ張った皮膚と強張った関節をほぐし、そのまま空を見上げる。黒い木々に隠された青空はハロルドの瞳のように澄んだ色をしていた。
隣のハロルドもスターフラワーを干し終えて、ニコの方に向き直った。
「あ、ハロルド」
「なに」
つい、ニコはその名前を呼んだ。ハロルドの光を溶かし込んだような金髪に、一枚の青い花弁がついていることに気が付いたからだ。
手を伸ばしたのは無意識だった。昔、ニコはそうやってよくハロルドの頭を撫でていた。最初は照れ臭そうに、けれど徐々に恥ずかしがるようになったハロルドの表情がニコはとても好きだった。――けれど。
花弁を取ろうとして差し出したのは、右手だった。しかし、ニコの右手は前腕の半分から先はない。あの頃、彼の髪を梳いて頭を撫でていた右手は、黒焔帝との戦いで焼け落ちてしまった。
おまけに、この七年間でハロルドの背はぐっと伸びていた。ニコの胸元にあったつむじはもう見上げても見えなくて、ニコの途中までしかない腕はとても花弁までは届かなかった。
「ニコ?」
右手を上げたまま固まったニコに、当然ハロルドは不思議そうな顔をした。その表情はニコのよく知るものだったが、背が伸び逞しくなったハロルドはふとした瞬間に見知らぬ人のようにも見える。
「……ハロルド、髪に花びらが付いてる」
届かない、と左手を出しながら言えば、ハロルドはまじで? といいながら頭を下げてくれる。
「取って。自分じゃわからない」
「ん」
ようやく見えたつむじは相変わらず右巻きで、あの頃と何も変わらない。ニコはハロルドの前髪についていた花弁を摘まんだ。青くて先の尖った花弁は、間違いなく先ほど干していたスターフラワーのものだった。
「ありがと」
「うん」
ほら、と見せた花弁を見てハロルドが微笑んだ。その柔らかい表情と緩んだ眦に溢れた感情を見て、ニコは動きを止める。日差しに温んだ風が森を吹き抜け、ニコのローブを微かに揺らした。
衣擦れの音と近づくハロルドの顔。右半身が上手く動かないニコの動作はひどくゆっくりだ。けれど、決して避けられないわけではなかった。ニコの様子を確かめるように、恐る恐る近づいて来たハロルドを受け入れたのはニコの意思だ。
慎重に唇が触れ合って、またゆっくりと離れていく。ただ重なるだけの優しい口づけは一瞬で、けれども確実にニコとハロルドの関係を変えるものだった。
「……なんで避けなかったの」
「避けて欲しかったのか?」
「避けないで欲しかった……」
ニコは立ったまま、まっすぐにハロルドを見つめる。ニコの目は左右で色が違う。
右目は黒炎に直接晒されたせいで、眼球が傷つき色が変わってしまったのだ。
左はもともとの薄紫、右は濁ったような灰紫だ。群青の髪をかき分けて、ハロルドがニコの目を覗き込んだ。
大きな手のひらで右頬を包みこみ、親指ででこぼことした皮膚を優しく撫でる。
「もう痛くない?」
「痛くないよ」
怪我を負ったのは七年も前のことだ。時折、疼くことがあるがもう痛みはほとんどない。
「お前こそ、痛くないのか」
「痛くない。ちゃんと治してもらったから」
そっと触れたハロルドの首元には左首から右の脇腹まで届く、大きな傷跡があった。大半が服に隠れてしまうその傷は、間違いなく殺意を持ってつけられたものだった。
この傷はいつ負ったものだろう。ニコが全てを捨てて穏やかに森で暮らしている間、ハロルドはどこでどんな経験をしたのだろうか。ハロルドと暮らしたこのひと月、ニコはずっとそんなことばかりを考えていた。
ニコが知らないハロルドの時間は、そのまま勇者と魔王の戦いの軌跡だ。
ハロルドの身体に付いた傷を目にするたび、ハロルドの時折見せる視線の鋭さに気づくたびに、ニコは「勇者の使命」を目の前に突きつけられたようだった。
理解していなかったわけではない。けれども、ニコは再会して一緒に暮らすことで、ようやくハロルドの恋の重さを知ったのだ。
「王都に戻らなくていいのか」
「やるべきことはちゃんと片づけて来たって言っただろ。俺は魔王を倒したんだから、ニコと一緒に暮らす権利があるんだよ」
拗ねたように返されて、ニコは苦笑するしかなかった。勇者の責務や王の話をすると、ハロルドは決まってこんな顔をする。
ハロルドは国王のことがひどく嫌いらしい。その理由を知っている身としては、それ以上強く王都に戻れと言うわけにも行かない。
ニコは最初、ハロルドの告白を受け入れるつもりはなかった。
成人したとはいえまだ若いハロルドには、勇者として、ひとりの若者として、輝かしい未来が待っているはずだ。それをこんな田舎の森の奥で終わらせていいわけがない。
しかし、ニコとともに過ごすハロルドはとても幸せそうだった。おまけに事あるごとに「もう一度ニコと暮らすことだけを励みに魔王を倒した」と言われれば、ニコの心境だって多少は変化するというものだ。
「……お前が、ここにいたいなら、好きなだけいていいよ」
「うん」
「魔王を倒したお前が唯一望むのが、俺だってんならまた一緒に暮らそう」
ハロルドは魔王を倒し、世界を救った勇者だ。そんなハロルドが望むのは、最初から――それこそ七年前のあの日からたったひとつだった。それはきっと彼にとって金銀財宝より、地位より名誉よりも大切で重要なものなのだろう。
ハロルドが何よりもニコが欲しいというのならば、ニコはその望みを拒めない。
だってニコは、昔からハロルドのお願いには滅法弱かった。ハロルドが可愛くて仕方ないのだ。
あの頃よりずっと背も伸びて、筋肉だってついた。ニコの後ろをついて回って、ニコが守らなければいけなかったニコだけの小さな勇者。
けれども、彼は大きく成長し世界の勇者になった。そしてニコに愛を告げるのだ。
「好きだよ、ニコ。俺と結婚してください」
「……いいよ」
ハロルドの求婚に小さく頷いたニコは彼に何か言われる前に、でも、と続ける。
「俺はお前のことを愛してるけど、それは家族愛とかそういうやつで、お前が望むものをお前と同じ熱量で返せるかは分からない」
ニコの中で、ハロルドは幼い子どもだった。別れたのは六年前。ハロルドが十三のときで、そのときだって成長期前の彼はニコよりもずっと背が低かった。
それが急に成長して一人前の男になって、愛を告げられて。愛を返したとして、それが彼の望むものと同じである自信はなかった。そもそも、結婚し伴侶になるのであれば、そこにはきっと肉体的な接触があるのだろう。
怪我をしてからのニコは当然、そんな関係を誰とも結んでいなかったし、それ以前だって経験が豊富なわけではない。端的な話、ハロルドと交合が出来るのかと言われれば、今の段階では否と言うしかなかった。
「いいよ」
ニコが懸念していることをハロルドも察したのだろう。少し眉を下げて、困ったように微笑んでいた。
「ニコがどんな気持ちでも、俺のことを愛してくれているならそれでいい。一緒にいられるなら、それだけでいい」
長い腕がそっとニコを抱きしめる。それはまるで壊れ物にでも触るような、優しい手つきだった。
――生きてる。
ハロルドがニコの髪に顔を埋めて、小さく呟いた。ゆっくりと吐く息が湿っていることも、背中に回った手のひらが小さく震えていることも、ニコは気づかないふりをした。
こうしてニコは勇者ハロルドの伴侶となった。広い背中を抱きしめ返して、そっと目を瞑る。
春の日射しは温かく、吹く風は穏やかだ。魔獣に襲われる心配も、魔族に村を焼かれる恐怖もない世界で、ニコはただハロルドを抱きしめていた。
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