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第二章 王女の来訪  第一話 勇者が最も恐れるもの

 ニコがハロルドの求婚を受け入れたからといって、ふたりの生活に大きな変化はなかった。  一緒に食事を取ったり、森に出かけたり。家事を済ませたりして日中を過ごし、陽が暮れれば床に就く。何も変わらない。静かで穏やかな森での生活だ。  強いて言えば、それまで床で寝ていたハロルドがニコの寝台に潜り込んでくるようになったことが変化と言えば変化だろうか。  山小屋にニコが引っ越してきたとき、木の板と藁を使って作った簡易の寝台は狭く、ニコひとり寝るだけでいっぱいになってしまう。そこに背が高いハロルドが、無理やり入ってくるのだから堪らない。  ニコはハロルドに抱き込まれて身動きが取れないし、たぶんハロルドは毛布から足が出ていた。夜は冷えるのでくっついていても暑くはないが、それでもぎゅうぎゅうと抱きしめられたまま一晩を過ごせば息苦しくはある。  そんな夜を七日ほど過ごしたニコは、先日とうとうハロルドに苦言を呈した。  ――狭い。苦しい。重たい。暑苦しい。  そう文句を言えば、ハロルドも思うところがあったのだろう。  森から伐採してきた木を組み合わせて、ニコが作ったよりもずっと大きくて頑丈な寝台を作ってくれたのだ。  敷布はわざわざ村へ行って買い求め、毛布だって新品を用意した。その結果、小屋の約四分の一が寝台で占められることになってしまった。狭い小屋なのだ。  元々は、木こりが夏の間だけ使っていた薪割り小屋だ。小さな小屋の中には少々立派な竈兼暖炉と、人ひとりが短期間寝泊まり出来る程度の空間しかなかった。それをニコが無理やり生活できるように改良したわけだが、当然大の男がふたりで暮らせるほどの広さはない。  いっそ、村の空き家を買い取って引っ越してもいい、と提案はした。けれどハロルドは頷かなかった。 「だって、ニコはこの小屋気に入ってるだろ」  そう言って、眦を緩めた。  ハロルドはニコがこの小屋を気に入っている理由を知っているのだろう。 確かに、ハロルドの言うとおり、ニコは自ら手を入れたこの小屋をとても気に入っている。  数年かけて自分好みに改良した小屋自体に愛着があるのはもちろんだが、それにはもうひとつ理由があった。  ここは、かつてハロルドとニコが一緒に暮らした家に少し似ているのだ。否、ニコ自身が似せて作った。  六年前、行く当てもなく王都を出たニコがこの村に住み着いたのは、ここがハロルドの生まれ故郷である村によく似ていたからだ。  王都から遠く離れた辺境の村。気候や生えている木々もよく似ていて、ニコはひとりで暮らす毎日の中、たった二年だけ暮らしたあの日々を思い出していた。  よく似た村と森に囲まれて、あの頃の家を真似して作った小屋に住む。  思えば、これまでのニコの人生の中で、ハロルドと一緒に暮らしたあの日々が一番幸福だったように思う。  出会ったときのハロルドはたったひとりで生きる孤独な少年だったが、ニコだってずっとひとりぼっちだった。だからこそ、二度と戻れないあの頃を懐かしむための家を作って、引きこもっていた。  ニコに執着していたのはハロルドの方だが、ニコだってハロルドのことをずっと想っていた。それは恋慕ではなかったが、想いの大きさという点ではそう変わらないかもしれない。  そんなニコの気持ちを知って、ハロルドはこの小屋を大切にしてくれるのだ。  しかし、狭いものは狭い。だからこそ、今度は小屋を増築すると言う。食料庫と薬草保管庫を兼ねた貯蔵庫と浴室が欲しいらしい。 「後は鶏を飼う小屋作りたい。ニコに卵を食わせなきゃ」なんて言う。  がりがりに痩せているニコを少しでも太らせたい、という理由だけで鶏小屋を作ってしまおうというハロルドは少々過保護だと思ったが、しかし浴室はありがたかった。  普段、ニコは身体を洗うとき小屋の近くにある川で水浴びをしている。  薬草を洗うのも洗濯も、飲料水までお世話になっている川だが、冬になるとその水は凍りつくほどに冷たくなった。そうなれば洗濯はもちろん、水浴びだって出来なくなってしまう。  故に、ニコはいつも冬の間は最低限、お湯で濡らした手巾で身体を拭き、何とか身を清めていた。  しかし、浴室があれば水浴びの問題は解決するだろう。王都育ちのニコは清潔が健康にも影響することを知っているのだ。  ハロルドとしては、ニコが屋外で水浴びするのが嫌らしい。いくら人目がないからといって、火傷だらけの醜い肌を晒すのはよくないだろうか。そう問えば、そういう問題ではないと怒られた。  少しずつ、ハロルドは小屋の環境を整えていった。やはり、本気でニコとここに永住するつもりらしい。  村でも森の薬師であるニコが結婚したという話は少しだけ話題になった。  大々的に吹聴したわけではないが、ハロルドはたびたび村に買い物に出かけている。  おまけにニコが薬を卸すときも一緒にくっついてきて、卸先の商店の店主と雑談を交わしているのだから、その流れで早々に自分たちの関係は知られてしまった。  この国で婚姻届けを国に出すのは、王侯貴族くらいのものだ。  平民たちは基本的に事実婚で、親や自分が決めた相手と一緒に住むことが「婚姻」の証明となる。だから、一緒に住んでいるニコとハロルドも夫夫だと言ってしまえば、そういうことになるのだ。    背が高く、見目のいいハロルドは、勇者であることを隠していてもどうしても目立つ。  彼が村に足を運ぶたびに色めきだっていた村の若い娘たちは、彼の結婚を知ってそれはそれは落ち込んでいたらしい。  もちろん、残念がっていたのは娘たちだけではなかった。  村の大人たちも若く労働力になりそうな男が、火傷だらけの陰気な男と結婚したことを勿体ないと思っているようだった。  ニコと一緒にいるときに、自分の娘を伴侶にどうだと言ってくる者もいた。けれどもハロルドは取り合わず、ニコを何よりも優先するのだ。  いつだって不自由な身体に寄り添い、ニコの生活を助けてくれる。そうやって周囲にも自分たちが伴侶であることを周知し、ニコの暮らしに馴染んでいく。  ハロルドはゆっくりとであるが、確実にニコの伴侶になっていった。  とはいえ、自分たちは元々家族だった。離れていた期間はあるし、ハロルドは大きく成長しているが、ニコにとっては変わらない可愛い養い子だ。  その事実はどうしても変わらないのだけれども、ハロルドはその関係を少しだけ変えたいらしい。  昔と同じように一緒に食事をして一緒の寝台で眠る。抱きしめることも抱きしめられることもあるが、そこにほんの少しハロルドは欲を混ぜるようになっていた。 「ニコ」  薬草を細かく磨り潰していると、ハロルドに名前を呼ばれた。答えるために振り向くと唇に触れるものがある。  ふっくらと柔らかく、微かに甘いそれはハロルドの唇だ。  ふに、と触れてすぐに離れる口づけは、求婚を受け入れたあのときに許して以来繰り返されるハロルドの求愛行動だった。 「驚いた顔してる。いい加減、慣れてよ」 「ぅん……」  ニコが固まっていると、ハロルドがそう言ってもう一度口づけて来る。  表面だけを触れ合わせるだけの口づけだとしても、ニコにとっては一大事だ。  別にこれまで誰ともそういう関係になったことがないとは言わないが、相手はあのハロルドである。  散々、一緒に寝たり抱きしめたり、額や頬への親愛のキスはしても唇へのキスだけはしたことがなかった。  かつての養い子に性愛の対象として見られることに未だなれず、どうしても身体が強張ってしまう。  しかし、今のハロルドはニコの夫だ。求婚されて、他でもないニコがそれを受け入れた。  伴侶と言うのは、こうして親愛以上の触れ合いをするものだ。若い身体は欲を持て余すだろうに、混乱しているニコに合わせて、ハロルドは決して無理強いはしなかった。  そして必ず、「ゆっくりでいいから」と言うのだ。  けれど、その先に続く言葉をハロルドは決して言わなかった。  ニコはそれを聞くといつもハロルドは本当は何と言いたいのだろうか、と考えてしまう。  ゆっくりでいいから、自分をそういう対象として見て欲しいのだろうか。それとも、養い子としてではなく、夫としてひとりの男として愛して欲しいのだろうか。  そのどれもが正解のようで、どれもが不正解のような気がした。  ハロルドがニコに最も望むのは何なんなのか。ニコがハロルドの気持ちを受け入れたのは、世界を救った勇者がたったひとつ求めたものがニコだったからだ。  本当はもっと彼に相応しい場所があることも、もっと彼に釣り合う相手がいることも知っている。けれども、ハロルドはニコだけが欲しいと繰り返し言う。そして、いつだってニコの選択を待っている。  だからニコはいつもハロルドに答えることが出来ないのだ。  もっとハロルドが強引にニコを自分のものにしようとしてくれたなら、楽だっただろうとすら思う。選ぶのはいつだってニコで、決めるのもニコだ。  ニコが選べば、それはニコの意思だ。ハロルドはきっとニコ自身に自分を選んで欲しいのだろう。そうすれば、もう二度と捨てられないと思っているのかもしれない。  ――捨てたわけではないんだけどな。  口付けを受け入れていると、逞しい腕がニコの身体を抱き寄せた。触れる熱はよく知るもので、馴染んだ温度が少しだけ虚しい。もっと強く抱きしめてくれれば、ニコには迷う必要も抗う体力もない。  けれど、ハロルドはそうはしないのだ。だって、彼は恐れている。  もう一度、ニコを失うことを何よりも恐れているのだ。

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