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第二章 王女の来訪 第六話 勇者の事情
「王国は南方に攻め入るつもりはありません。しかし、他の北方諸国がこちらに剣を向けないとは言いきれないのです」
目を伏せたメアリー・アンの言葉に、ニコはひどく複雑な気持ちになった。
王国は国土が広く魔術が盛んな分、北方でも恵まれた国と言えるのだ。
いつ隣国に寝首を掻かれないとも限らない。故に、もしニコが変わらず王国軍に属していたなら、ニコは間違いなく魔術師として国境に派遣されていたはずだ。
だからこそ、メアリー・アンの言う理屈は痛いほどによく分かった。
他国相手に圧倒的な軍事力を誇示するのは、戦争回避のための常套手段だ。
それは理解できる。――けれども。
「……それで、今度はハロルドに人間を殺せって言うんですか」
小屋の中に冷たい声が響いた。年端も行かない少女に向けたニコの態度に、驚いてハロルドがニコの方を見る。
基本的にニコは子どもが好きだ。幼いハロルドを放っておけずに養育し、一緒に暮らすくらいには。子ども相手に怒ることも声を荒げることもしたことはないし、したくはなかった。
けれども、このときのニコの心は冷え切っていた。
少女らしからぬ態度のメアリー・アンに違和感を抱いたのもある。
確かに、メアリー・アンの主張は何も間違ってはいない。元軍人として理解できる。
おまけに彼女の「王女」という立場から考えるとその考えは当たり前のことで、「国家」としてとても重要なことだった。
しかし、ニコは「ハロルドの伴侶」だ。
彼女の主張は、その立場としては絶対に了承できない。
「もし、戦闘になれば王家の旗印に使ったハロルドは、真っ先に戦場に行かなければいけなくなる。それを貴女はきちんと理解していますか」
ニコは声が震えないように、必死で舌を動かした。
悲しくて、苦しくて、とても悔しかった。
メアリー・アンにとってハロルドは「勇者」でしかないのだ。
彼女はハロルドをそれ以上にも以下にも見ていない。だからこそ、その立場を利用することしか考えていない。
しかし、ハロルドは「勇者」の前に「ハロルド」というひとりの青年だ。
ニコはハロルドの身体に残る、大きな傷痕を知っている。
かつて虫を殺すことすら嫌がった優しい少年が、数多の魔族を葬るためにどれほど心を殺してきたのかを理解している。
聖剣を抜いたそのときから――否、女神に勇者候補として加護を与えられたときから、ハロルドはずっとその責務を背負って生きてきた。
そして、ようやく魔王を討ち倒したというのに。
「ハロルドは世界のために、過酷な魔王討伐の旅をやり遂げました。その報酬としてここにいるはずです。なのに、今度は国のために人を殺せという。そんなの、俺の立場から喜んでやれるわけがないでしょう」
「……ニコ」
ハロルドがそっとニコの肩を抱いた。どうやら怒りのあまり、全身が震えていたらしい。涙を堪えるのに必死で、まったく気づいていなかった。
ニコはメアリー・アンに怒っていたわけではない。こんな大事なことをたったひとりの少女に任せた国王に怒っていた。
「それは、そうかもしれません。けれど国のため、民のため、ハロルド様が戦うのは仕方のないことです。こんなところで暮らしている薬師の貴方には、理解出来ないことかもしれませんが――」
「失礼ですが、ひょっとして『神緑のニコ』殿ですか?」
それまで黙ってやりとりを聞いていた護衛の騎士が、語気を強めたメアリー・アンの言葉を遮るように言った。
意外な人物の邪魔に、メアリー・アンは責めるような視線で騎士の方を振り向いた。
それはおそらく、メアリー・アンにとってはひどい裏切りだったはずだ。
通常、臣下である騎士が、主であるメアリー・アンの言葉を遮るなど絶対にしないことだし、してはいけないことだ。
けれども、騎士はメアリー・アンの顔を見て優しく諭すように微笑む。
「姫様。この方は神樹を利用した王都の結界を構築された、大魔術師神緑のニコ殿ですよ。勇者ハロルドを育て、七年前に黒焔帝を退けた方です。それ以上は口にしてはいけません」
騎士の言葉にメアリー・アンはひどく驚いたのだろう。
何度も瞬きをしながらニコを見て、微かに眉根を寄せる。その今にも泣きそうな表情に、ニコはひどく気まずい気分になった。
神緑のニコ――というのは、ニコが現役時代に付けられたふたつ名だ。
聞くところによると神のごとく繊細かつ大胆に緑を操る、という意味らしいが、その名の凄さはニコ自身にはよく分からない。
王国軍に所属する第十席までの魔術師は、その魔力属性に応じたふたつ名を与えられ、常にその名に恥じない働きをすることを求められてきた。
しかし、それももう七年も前の話だ。
「はは、まぁ、昔そう呼ばれてたこともあったような」
「ニコ殿は覚えていないかもしれませんが、何を隠そう私も騎士候補生のときに貴方に命を助けられました。その節はありがとうございます」
手を胸に当てた騎士が、ニコに向かって膝をついて頭を下げた。
これは騎士の最敬礼で、最も相手に敬意を払うときにとる姿勢だ。
「いや、それも昔の話で……」
今はただの森の薬師に過ぎないニコに、近衛騎士の最敬礼は重過ぎる。
慌てて椅子から立ち上がろうとしたニコだったが、それより先に立ち上がったのはメアリー・アンの方だった。ガタン、という音をたてて古い椅子が床に倒れた。
「国のために尽くした魔術師だったのであれば、わたくしとハロルド様の婚姻の重さもご理解いただけると思うのですが」
「分かりますよ、それなりには。俺が中央にいた頃とは、だいぶ世界も変わりましたけどね」
「でしたら……!」
「分かった上で、言っているんです。貴女たち王族は相変わらず、俺たちのことを便利な道具か何かだと勘違いしているようですが……。俺はこの国の平和なんかより、ハロルドが笑って暮らしてくれる方がずっと大切だ」
「――ッ!」
青褪めた顔でメアリー・アンは唇を噛んだ。
そんな彼女を見上げて、ニコは力なく微笑む。ニコだって幼い少女を虐めたいわけではない。
「貴女と結婚して、ハロルドが幸せになるのでしたら、俺だってよろこんで離縁しますよ」
「ニコ!?」
ニコの言葉に声を上げたハロルドの背を、ニコは宥めるようにそっと撫でた。話は最後まで聞きなさい、と昔からあれほど言い聞かせていたというのに。
「俺はハロルドと俺が釣り合っているとは思っていません。お伽話の勇者様の隣には、美しいお姫様がいるもんだし、俺はもう魔術も使えない死にぞこないだ。それでも、貴女とではハロルドはきっと幸せになれない」
せめて、メアリー・アンがハロルドに恋をしていたならよかったのだ。
独りよがりでも、幼い初恋でも何でもいい。
ただ自分とハロルドの幸せだけを盲目的に信じて求婚して来たのであれば、ニコにだって考える余地もあった。
しかし、彼女は国と民のためだと言ったのだ。彼女の言う「民」の中にハロルドは入っていない。
それでは、ニコは身を引くことは出来なかった。
幸せになれない、と言われたことが堪えたのだろうか。メアリー・アンはしばらくそのままの姿勢で立ち尽くしていた。そこに静かな声が響く。
「メアリー・アン王女殿下」
肩を抱いたまま、ハロルドは空いている手でニコの手を取る。しっかりと握られた左手は、たった一本だけ残ったハロルドと手を繋ぐための手だった。
「俺はニコを愛しています。世界を救ったのは、確かにみんなを魔王から助けたかったからだし、誰かの故郷を守りたかったからです。けれど、俺はきっとその『みんな』の中にニコがいたから魔王を倒せたんだと思います。……ニコがいなければ、きっと俺はどこかで魔族に殺されていた」
ハロルドは真っ直ぐにメアリー・アンを見て言った。
メアリー・アンは一国の王女が身に纏うには驚くほど簡素な旅装と、たったひとりの従者だけを伴ってこの辺境の村に来た。
ここから王都までどれほどの道のりだったのか、ニコははっきりと覚えていない。しかし、各重要都市を繋ぐ転移魔方陣を使っても数か月はかかる道のりのはずだ。
彼女はそれなりの覚悟を持って、ハロルドに会いに来たはずだ。彼女は決して愚かではない。むしろ国のためにと動ける勇敢で、高潔な人物だ。
何かを言いたいのに、けれども言葉に出来ない。そんな表情をしたまま唇を震わせて、ようやく「また来ます」とだけ言ってメアリー・アンは踵を返した。
騎士が扉を開けて、メアリー・アンの退室を促した。
外に出る瞬間、メアリー・アンは一度だけ足を止めた。そして身体ごとニコとハロルドの方を向いて、美しいカーテシーを披露する。部屋に招かれたことへの礼なのだろう。
森に住む薬師の小さな小屋だ。それに敬意を払えるのが、メアリー・アンという王女なのだ。
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