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第二章 王女の来訪 第七話 勇者の愛
嵐のような訪問者が帰って、ニコはどっと疲れてしまった。
もともと、村に薬を卸しに行く日は、薬作りはせずに休むようにしている。
体力のないニコは無理が出来ないのだ。
川辺に腰かけて、足だけを水に浸けた状態で、ニコはゆっくりと空を見上げた。
すっかりと日の暮れた空は、西の空に微かに夕暮れの名残を残していた。紫と藍の狭間の中に、ぽつぽつと小さな星が輝いている。
「ニコ」
「ハロルド」
ここにいたの、と声をかけられてニコは頷いた。
薪割りをしていたハロルドに黙って、小屋を出てきたのはニコだ。
とはいえ、魔力探知に優れたハロルドは、今のニコの砂粒ほどの魔力だって簡単に見つけてしまう。それを分かっていて、ニコはここにいたのだ。
「嬉しかった」
隣に座ったハロルドがぽつりと言った。それにニコは首を傾げる。
「何がだ?」
「ちゃんと、俺とメアリー・アン王女の結婚を断ってくれて。……ちょっと、ニコなら自分より王女の方が俺にはお似合いだって言い出しそうでハラハラしてた」
へへ、と照れ臭そうに笑うハロルドにニコは苦笑する。
途中までハロルドの言う通りのことを考えていたと言ったら、彼はがっかりするだろうか。しかし、それすらもハロルドは分かっているような気がした。
「まぁ、そうだね。今でも正直な話をすると、お前には俺より王女殿下の方がふさわしいとは思ってるよ」
――魔王を倒し世界を救った勇者と美しいお姫様。
そんなのお伽話では、絶対に末永く幸せに暮らすであろう組み合わせだ。
まともに考えれば、メアリー・アンはニコよりもずっとハロルドに富と地位と名誉を与えてくれるだろう。
彼女とともに迎えるハロルドの未来は、きっと後世に語り継がれるような「幸せ」な「勇者」の余生だ。
「でも、王女殿下はお前を『勇者』としてしか見ていなかったろ。なんか、それは嫌だなぁと思って」
これはニコの身勝手な親心でしかないが、ハロルドのそばにいるのはハロルドを彼自身として見てくれる相手がいいと思うのだ。
おまけに、ハロルドが相手のことを好きであればなおよい。だって、そうでなければ、ハロルドはいつまでも「勇者」でいなければならない。
ニコは昼間手に入れた勇者の英雄譚を思い出す。
美しく脚色された物語の中の「勇者」。勇敢で少しの瑕疵すらない彼は、本物のハロルドとはかけ離れた虚構の人物だ。
あれを物語として楽しむのは、大衆だけでいい。伴侶にまでハロルドを「勇者」として見て欲しくはなかった。
ニコがそう言えば、ハロルドがうーんと首を捻る。
「俺が魔王を倒してから、俺のことを『勇者』じゃなくて『ハロルド』として見てくれるのなんて、ニコしかいないよ」
言われて、ニコもそうか、と思う。
世界は何百年間も魔族の被害に苦しんでいた。
そんな苦しみを終わらせてくれた勇者を、「勇者」以外の誰かとして見ろだなんて。多くの人にとって、とても難しいことだと理解していた。
なぜならば、人々にとってハロルドはひとりの人間である前に「勇者ハロルド」であり、心の支えなのだ。
「結局、俺か……」
じゃあ、仕方ない、と頷けば、ハロルドが心底おかしそうに笑った。
「仕方なくないよ。ニコがいいんだって何回も言ってるじゃん」
「別に俺じゃなくたって、いいと思うけどな。しっかり探せば、俺以外にもお前をちゃんと『ハロルド』として見てくれる可愛い子だっているさ」
「そういう子もいるかもしれないけど、俺が欲しいのはニコだけだよ。言っただろ、俺が世界を救えたのは、『みんな』の中にニコがいたからだ」
ハロルドは勇者として、不特定多数の人々の幸せを願って魔王討伐の旅に出た。
旅立つ前に知り合った人々も、旅の途中で出会った人々も、ハロルドにとっては全て等しく「救いたいみんな」であったはずだ。それはきっと彼の本心で、そこに嘘偽りはない。
しかし、本当に命の危機に瀕したとき。心の底から会いたいと願ったのはたったひとりだ、と彼は笑う。
「もう駄目かも、って思うたびにニコを思い出したんだ。もう一回、生きてニコに会うまでは絶対に死ねないってずっと思ってた。だから、俺を生かしてくれたのはニコだし、魔王を倒せたのもニコがいたからだよ」
そう言って、ハロルドがニコの両手を握った。ニコに右手の先はないが、肘の下あたりを持って、服に隠れたその断面をそっと撫でる。
「うん……」
かつて、何度もハロルドと繋いだ右手は、もう繋ぐことは出来ない。けれども、こうやって握ってもらうことは出来るのだ。
ハロルドの愛はいつだって真っ直ぐだ。
全てを失ったニコに、愛される価値を与えようとしてくれる。
その魂の美しさは、女神の加護を与えられているからだろうか。それとも、そんなハロルドだから女神も彼を愛したのだろうか。
静かに近付いてくるハロルドの唇を、ニコは目を瞑って受け入れた。
ハロルドがやりやすいようにと顔を少しだけ上に向ければ、ハロルドが驚いた様子でびくりと肩を揺らした。
そういえば、ニコの方から何か行動を起こしたのは、これが初めてかもしれない。
「ニコ……」
少しだけ唇が離れて、その隙間から吐息のように名前を呼ばれる。
ニコの左手を握っていたはずの大きな右手が、ニコの首筋を優しく撫でた。
そのとき、ニコの視界の端にちらりと何かが映った。宵闇のなかで小さく光るそれは、美しく輝きながらゆらゆらと漂っている。
「――月虫だ」
ハロルドがその光る何かを見て言った。
「ああ、そろそろそんな時期か」
「ここには、月虫までいるんだ」
ハロルドが感心したように辺りを見回した。
月虫とは川に生息する小さな虫で、夏になると成虫になり、陽が落ちればまるで月のように輝き出すのだ。
群生し、光りながら飛ぶことから多くは星虫とも光虫とも呼ばれるが、ハロルドの故郷では「月虫」と呼ばれていた。
月虫はどんな場所でも暮らせるわけではない。澄んだ水と豊かな緑がある場所でのみ生きることが出来る、とても珍しい虫だった。
「懐かしいだろ」
ニコはそう言って微笑んだ。
ハロルドが旅した魔域は、瘴気が深いため当然繊細な生き物である月虫は生息できない。
村が滅んでから暮らしていた王都も人口が多く、清らかで緑豊かな川などありはしなかった。
だから、きっとハロルドが月虫を見たのは故郷を失った七年ぶりのことだろう。
あの村でハロルドとニコは、夏の間中この光を眺めていた。
リリードロップとともに月虫は、ニコにとってあの村で過ごした夏そのものだった。
この森は、ハロルドの故郷とよく似ている。気候や風景だけではなく、まったく別の地域だというのに植生も虫の分布も似ており、そこかしこにあの村の面影があった。
「お前は俺がいたから生き残ったって言うけどな、俺だってお前がいたから今まで生きて来られたよ」
大怪我を負って全てを失い、おまけにハロルドとの離別を選んだ。
それでも、ニコが穏やかに生きて来られたのは、記憶の中のハロルドがニコを支えてくれたからだ。
ニコ、と自分を呼ぶまろくて少し高い声も、そっと差し出される小さな手も。好意を隠さない澄んだ瞳も。その全てがニコの生きる意味であり、何物にも代えがたい宝物だった。
ニコの人生は、七年前にその役割を終えたのだと思っていた。
それがまさか、成長した勇者が再びニコを求めてやってくるとは、なんとも数奇な人生である。
「愛してるよ、ハロルド。たぶんお前が俺を想うようにはまだ思ってやれてはいないけど。それでも、俺はお前が望むものは何でも与えてやりたいとは思う」
「……それ、前も言ってたよ」
「そうだっけ」
「うん。俺が求婚したとき」
「そうか」
「ニコはがんばって伴侶になろうとしてくれてるけどね、別に家族でも何でもいいんだよ」
甘えるように首筋に顔を擦りつけてくるハロルドを抱き留めて、ニコはそうなのか、と呟いた。
てっきり、ハロルドはニコに「伴侶」の役割を望んでいるのかと思っていた。親愛以上の口づけを求めてくるのも、もっと深く触れ合うためなのかと思っていたのだ。
しかし、違う、とハロルドは首を横に振る。
「そりゃ、俺も一人前の男ですから。キスもしたいし、もっと触りたいよ。でもニコが俺のそばにいてくれるなら、家族でも伴侶でも何でもいいんだ」
背中に回された手に力が籠る。逞しい腕は、ニコがよく知る幼いハロルドとは全く違うものだ。
「ハロルド」
「ん――」
ニコは少しだけ身体を離して、両手――右手は肘の先だが――でハロルドの頬を掴んだ。
驚くハロルドに婀娜に微笑んで、そのまま唇を奪う。柔らかいそれをゆっくりと食んで、そのまま軽く歯をたてた。
ハロルドがひっ、と息を吸った瞬間、少しだけ開いた隙間から遠慮なく舌を割り入れた。動揺し躊躇うハロルドを促すように、ニコは彼の舌を自らのそれでなぞる。
とはいえ、ニコとて初心者に毛が生えたようなものだ。辛うじてそういう経験がないわけではない、という程度で深い口付けだってそれ以上だってもうずいぶんとしていない。
――これから、どうやるんだったっけ。
一瞬、そんなことを考えて動きが止まった瞬間だった。ハロルドの舌がニコの上顎を舌先で舐め上げた。攻守交替。そんな文字が脳裏に浮かぶ。
「ぁ、んぅ、んン……」
ニコの許しを得たハロルドは、そのままニコの口内を蹂躙した。
触れられるとぞわりとする上顎を丹念に舐めまわしたかと思えば、今度は先ほどニコがしてみせたように舌同士を擦り合わせる。
歯列に添って舌を這わせ、そのまま舌の根を強く吸われてしまった。
「はぁ、ぁ……」
散々、舐めて満足したのだろうか。ようやく離れた唇からは、もはや吐息しか出てこない。
「駄目だよ、ニコ」
「なんで。我慢なら、しなくていい」
「ニコ――」
「俺はお前になら何されたっていいし、お前は何してもいいんだ」
ハロルドは一瞬だけ泣きそうな顔をして、それからうん、と小さく頷いた。
「愛してるんだ。もうどこにもいかないで。俺のニコ」
――それだけでいいから。
それは、まるで祈るような言葉だった。
三年前、勇者ハロルドは世界を救うために旅に出た。
人々を苦しめる魔王を激戦の果てに打倒し、多くの人が彼の偉業に救われ、世界に平和が訪れた。
――その勇者ハロルドが唯一恐れるのが、「ニコがどこかへいってしまうこと」。
そんなの、愛以外の何だというのだろうか。
どこにもいかない。ずっとそばにいる。
何度もそう繰り返して、ニコはハロルドの身体を抱きしめた。
月虫が小さな明かりを灯して、ゆっくりと二人の周りを巡る。
初夏の夜。黒の森は、美しく仄かに輝いていた。
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