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第三章 森の薬師ときこりの勇者 第七話 勇者の登場と銀色の樹
柔らかい腹に深々と突き刺さるアラクネの爪を見て、ニコはああ、これは死んだな、と思った。
だって、爪の刺さった場所が焼けるように痛い。
アラクネの爪には糸と同じように毒がある。
地面を溶かすほどの毒を身体に受けて無事でいられるわけがなかったし、そもそも鋭く太い爪が内臓を大きく傷つけている。きっと毒がなくても助からなかっただろう。
ニコの命が零れ落ちるように、じわじわと腹部から血が溢れていく。
このまま助からないだろう、と思ったニコが薄れゆく意識の中で思い出したのは、ハロルドのことだった。
ニコが死ねば、ハロルドはきっと悲しむだろう。
守れなかったと気に病んでしまうだろうか。ニコの死を自分のせいだと思い込んでしまわないだろうか。
魔王討伐という偉業を成し遂げて、ようやく彼の望む穏やかな生活を一緒に送れると思った矢先にこれだ。
思い残すことはあまりなかったけれど、ハロルドを置いていくことだけは心配だった。
こんなぼろぼろのニコを愛していると、何よりも大切なのだと言ってくれたたったひとりのニコの勇者。
あの眩しい笑顔を思い出して、ニコは彼にもっと愛していると伝えればよかったな、と思った。
ハロルドから与えられる愛はひどく心地よかった。
七年前に枯れたはずのニコの心に新しい愛が芽吹くほどに。自分はそんな純粋で大きな愛にちゃんと応えられていただろうか。
ニコだってハロルドを心より愛していて、この世界の何よりも大切だと、ちゃんと言葉に出して言えばよかった。
それから、もっと彼と深く触れ合っておけばよかった。
ニコのことばかりで、自分の欲望を置き去りにしていた可愛いあの勇者はきっと、誰よりも優しくニコに触れてくれたはずなのに。
こんなところで死ぬくらいなら、抱かれておけばよかった。
ニコはそう強く後悔したけれど、その想いはもう伝えることは出来ないし、抱かれたいという願いも叶わない。
耳元でメアリー・アンの呼ぶ声が聞こえる。
瞼が重くてもう目を開けていることが出来なかった。
アラクネの高笑いとメアリー・アンに握りしめられた左手。暗闇に沈もうとする意識の中で、何かが微かに光ったような気がした。
同時に身体に流れ込んでくる、よく知ったような、けれども全く知らないような「力」が確かにあった。
温かく、身体中に染み渡るそれは、間違いなくメアリー・アンが握りしめた左手から注ぎ込まれている。
これは、魔力だろうか。
よく分からなくて、ニコは自らの身体を巡るその力を手繰り寄せてみる。身体に刻んだ魔術式にその力を通せば、ニコがかつて操っていた魔術が使えるはずだ。
ニコの力は植物を生やすことだ。この力を使えば、それはそれは立派な木を生やすことが出来るだろう。
少しだけワクワクしながら、ニコはメアリー・アンから渡された力を使って、魔術を発動させた。
遠くから怒声が聞こえる。
そして「ニコ様」と何度も名前を呼ばれた。ニコは意識を無理やり引き上げるようなその声に引きずられて、ようやく目を開けた。
そして目の前に広がる光景にひどく驚いた。
「え?」
視界は一面銀色だった。
否、目の前に銀色の木が生えている。
幹も葉も全てが銀色できらきらと繊細に輝くその木は、ニコとメアリー・アンを守るようにその枝でふたりを覆い隠していた。
「ニコ様、気づかれましたか!?」
メアリー・アンが乱れた髪のままニコを見ていた。
どうやらニコはメアリー・アンに抱きかかえられているらしい。
「傷が……」
そのとき、ニコは腹の痛みが全くないことに気づいた。
恐る恐る自らの腹部に触れると、そこには破けた服とつるりとした皮膚があった。
驚いて、ニコはメアリー・アンを見る。
するとメアリー・アンも混乱しているようで、分からない、と首を横に振った。
「ニコ様が助けてくださったのではないのですか?」
そう言ってメアリー・アンが見上げたのは、ニコたちを守るように覆った木の枝だ。
美しく輝く枝が生き生きと四方八方に伸び、生い茂る葉がアラクネの身体を押しつぶしている。
アラクネは数本の太い木の枝に挟まれ、そこから逃れようともがいていた。
しかし、枝はまったく傷つかず、攻撃の衝撃を感じることもなかった。
この木は普通の木ではない。
ニコが魔術で生やすことが出来るのは、実際に見知った木だけだった。
生やす木の種類をしっかりと思い浮かべないと魔術は上手く発動しないし、術者自身がその木について詳しく知っている必要があった。
けれども、ニコはこんな木は知らない。
いや、正確にはその「性質」をよく知らないのだ。
木自体はよく知っている。
なぜならば、この木は王宮のど真ん中に生えているからだ。
「神樹……」
女神によって聖なる力を与えられた神の木だ。
以前、メアリー・アンに説明したとおり、神樹を芽吹かせることが出来るのは女神だけで、この世界にはたった一本しか残されていない。
その上、王宮に生えた神樹はこれほどまでに力に溢れてはいなかったし、アラクネほどの魔族の攻撃を防ぐことなど出来ないはずだ。
神樹は確かに聖なる木だが、その能力はただ瘴気を浄化し、大地を潤すだけだ。
それなのにどうして、と思いながらニコは身体を起こす。
もう一度確認した腹部は、やはり何の傷もなかった。それどころか皮膚は綺麗で、元々あったはずの火傷の痕までなくなっている。
まるで、一度貫かれた腹の傷が新しく一から再生したような状態だった。
何があったのか、再びメアリー・アンに問おうとしたときだ。
ドン、と大きな音がして大地が震えた。
肌に感じる大きな魔力に驚いて、ニコは木に拘束されているアラクネを見た。
アラクネは目を見開いて空を見ていた。
否、彼女の瞳はもはや何も映していない。ただ見開かれているだけだ。
同じように開いたままの口は、断末魔を上げる暇もなくざらざらと崩れていく。アラクネは彼女の身体を拘束する木の枝ごと、頭の天辺から足まで縦に一刀両断され絶命していた。
アラクネの身体は黒い霧のような細かい粒子へと変わり、静かな森の中に霧散していった。残されたのは、不自然に切断された銀色の木だけだった。
「ニコ!」
消えたアラクネを呆然と見つめていたニコを聞き慣れた声が呼んだ。
そこには聖剣を持ったハロルドがいた。彼がアラクネを殺したのだ。
何かの魔術を使って飛んで来たらしいハロルドは、地面に着地しながらアラクネの身体を切断したようだった。先ほどの大きな音は、ハロルドがアラクネを切った音だったらしい。
「ニコ、大丈夫!?」
ニコでも分かるほどの重たい魔力はなくなり、ようやく楽に呼吸が出来るような気がした。
アラクネの魔力も邪悪で気持ち悪かったが、ハロルドの本気の怒りを孕んだ魔力も圧が強い。
「ハロルド……」
傷は治っているとはいえ、ニコは枯れかけた魔力を使いすぎていた。
ぐったりとメアリー・アンにもたれかかるニコを見て、ハロルドが顔色を変える。
「怪我したの?」
「怪我は……」
したといえばした。
けれど、今は治っている。
何と説明すればいいのか分からず、むき出しの腹を見て言葉を濁すニコに、ハロルドは怪訝そうな顔をした。
「治ってる」
そう言って、ハロルドがニコの腹をその手のひらでぺたぺたと触れる。
同時に銀色の木からふわふわと光り輝く月虫のようなものが落ちてきた。
――精霊だ。
森に多く住む気まぐれな精霊たちは清廉な魔力を好む。
普段は残りかすのようなニコの魔力ですら好んでくれて、何くれと協力してくれているというのに、今回はアラクネが倒されるまで姿すら見せなかった。
いくら精霊たちが気まぐれとはいえ、それは少し不可解なことだった。
ぽわぽわと精霊たちがニコの身体に触れて、少しずつ魔力を分け与えようとする。その魔力に触れて、ニコは似ている、と思った。
精霊たちの魔力は、先ほどメアリー・アンから渡されたものにひどく似ていた。
懐かしくよく知ったような気がしたのは、このためだったのだ。
魔力を持たないはずのメアリー・アンの「力」。それがどうして精霊たちの魔力に似ているのだろう。
人と精霊の魔力はその根源が全く違う。似て非なるものだった。
考えることはたくさんあった。しかし、ニコがまともに思考できたのはここまでだった。
疲労が一気にニコを襲ったのだ。温かな魔力を感じながら、ニコは思考がどんどん遠くなっていくのを感じていた。
遠くにハロルドが呼ぶ声がする。
ニコが大好きな、明るくて優しい少し掠れた声だ。
もう二度と聞けないかと思ったその声に、ニコは大きく安堵する。必死に自分を呼ぶその声に応えたい。けれど、ニコの意識が続いたのはそこまでだった。
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