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第三章 森の薬師ときこりの勇者  第六話 元勇者の護衛

「どうやって結界の中に入った」  恐怖を堪えながら、ニコは厳しい声で問う。  この森にはハロルドが張った結界が張り巡らされている。大きな魔物は見えない壁によって弾かれるはずで、当然アラクネほど大物の魔族が入って来られるはずもない。  結界が破られたのだろうか。もしそうなら、結界の異変を察知したハロルドが誰よりも速く駆けつけるはずだ。  淡い期待を持ったニコだったが、アラクネは口の端を大きく釣り上げた。 「お前、私が結界を破って入って来たとでも思っているのか?」  そう言ってアラクネが掲げた指先は白く、何の変哲もないものだった。  しかし、ニコが数度瞬きする間に、指から手にかけて溶けるようになくなって、代わりに小さな蜘蛛がぼろぼろと落ちてくる。 「私は自分の身体を小型の蜘蛛に変化させることが出来るんだ。勇者の結界は魔族には少々難儀なものだが、私には無意味だ」  それは本当に小さな蜘蛛だった。  森にたくさんいる本物の蜘蛛と見分けはつかず、持つ魔力も結界をすり抜ける程度しかないのだろう。  故に、ハロルドの結界はアラクネを感知することが出来ず、彼女の侵入を許してしまったのだ。  おそらく、彼女が獣王の副官をしていたのは、その能力も大きく関係するはずだ。  身体を小型の蜘蛛に変化させることが出来るのであれば、様々な結界をすり抜けて人間の情報を得ることが出来る。  アラクネはその戦闘力だけではなく、偵察能力も魔族随一を誇るようだった。  状況は最悪だった。以前のニコであったならば、アラクネともまともに戦えたかもしれない。  しかし、ニコにはもはや魔力はなく、走って逃げる体力も健やかな手足もない。  それだけでも絶望的なのに、おまけにニコの背後にはメアリー・アンがいた。  メアリー・アンはこの国における正当な王女だ。彼女自身は自らに価値がないと思っているが、そんなことはない。彼女が魔族に殺されれば、ふたたび王国は魔族との戦争を始めるだろう。  魔王がいないとはいえ、アラクネを始めとした高位の魔族はまだ生きている。彼らを全て狩りつくすまで戦いは止まらず、おそらくハロルドはその先陣を切らなければならない。  ようやく魔族との戦いが終わり、平和な世界が訪れたと思っている人々をまた戦火に巻き込むのだ。そして、おそらくアラクネたち魔族はそれを望んでいる。 「お前たちの狙いは王女殿下か?」 「おや、お前はそう思うのか? まぁ、そこの娘を殺すのも私の仕事のひとつではあるがな」  ふふん、と笑ってアラクネはニコを見た。  掲げていた手を軽く振ると指先から白い糸が出てくる。  その糸を見て、ニコは咄嗟にメアリー・アンの身体を強く押した。勢いで彼女と一緒に地面に倒れ伏したが、辛うじて糸は避けることが出来た。  それまでニコがいた場所にはアラクネの糸が突き刺さっており、じゅわりという音をたてて地面が溶けていた。 「……毒」 「蟲姫アラクネは魔王軍四天王のひとり、獣王の配下です。蜘蛛の魔族で毒の糸を吐くと聞いたことがあります」  溶けた地面を見て呆然と呟くメアリー・アンに、ニコは素早く説明する。  蜘蛛の魔族であるアラクネの攻撃は、その全てが致命傷だ。脚の爪はもちろん、糸にすら毒が含まれている。 「いくら避けようと意味はない。安心しろ、魔術師。殺すのはそちらの娘だけだ」  アラクネの言葉にニコは眉根を寄せた。  彼女が殺せと命令されたのはメアリー・アンだけ。つまりそこにニコは含まれない。  その意図するところを理解して、ニコは本当にこの状況の悪さを理解した。彼ら魔族は本気で勇者相手に全面戦争を仕掛けるつもりなのだ。そのために、よく情報収集をしている。 「俺はハロルド相手に人質ってことか」 「そのとおり。どうやらあの勇者にとってお前は特別らしいからな。獣王も黒焔帝を殺したお前に会いたがっている。丁重にもてなしてやるから、大人しく捕まりな」  そう言って、アラクネが指を軽く曲げた。その指先から出る毒の糸に、ニコは戦慄する。  アラクネは動くことなく様々な場所に糸を吐くことが出来るのだ。  距離も方向も自由自在で、魔力もほとんど使っていないことだろう。しかし、ニコはそれを避けるために全身を使わなければならない。  ニコは地面を転がるようにして何度も迫りくるアラクネの糸を避けた。  そんなニコを見てアラクネは実に楽しそうに笑い続けている。 「俺が捕まったら、お前は次に王女殿下を殺すだろう?」 「そりゃあ、そうだろ。その小娘を殺せば、勇者が出てくる。また魔王陛下が生きていた頃のような殺し合いの始まりだ。愉快だね」  みっともなく逃げるニコに向かって、アラクネが笑う。  魔族は揃って好戦的で、人間と殺し合うことを望む。言葉は通じず、お互いに理解は出来ない。故に、対話は不可能なのだ。  だからこそ、何としてでもメアリー・アンだけでも逃がさなければならない。  どうにかアラクネの隙を狙おうと、ニコは必死にアラクネの糸に抗った。  そうして地面に転がりながら、数度目の糸を避けたときだ。  弱いくせになかなか諦めないニコの相手をするのが面倒くさくなったのだろう。  怠惰そうに息を吐いたアラクネが、両手の指を拡げてその全てをニコに向ける。  それはまるで大道芸人が傀儡を操るときのような動作だった。  その瞬間、左右から合計十本の糸がニコめがけて飛んできた。  ――避けられない。  そう思ったニコは、松葉杖を掲げて小さく詠唱を唱える。  空気が震えて、松葉杖が微かに輝いた。  この松葉杖は七年前まで、魔術師の杖だった。  ニコが魔術を学び始めた幼い頃に師匠に買い与えられたそれは、黒焔帝との戦いで焼け焦げてしまった。  けれど、完全に燃やされることはなかったのだ。  ニコの腕を焼いた黒炎はしかし、魔力の込められた杖を完全に燃やすことが出来なかった。  焼け残った杖に、ニコは自らの弱い魔力を少しずつ溜め続けていた。  それはもはや長年の習慣のようなもので、前線を退いたニコにはきっと魔術を使う機会もないだろうとは思っていた。しかし、何事も備えておくものだ。  魔力の供給器官が傷ついた今のニコの魔力は本当に少なくて、そのままでは魔術を使うことなど不可能だった。  しかし、長い時間をかけて溜めたニコの魔力は、ようやく大きな魔術をたった一度発動できる量になっていた。 もう少し温存しておきたかったが、仕方がない。  魔力が身体に満ちる慣れた感覚。それを利用して、ニコは魔術を発動する。  選べる魔術はたったひとつ。けれども、ニコは迷わずその魔術を選んだ。 この状況ではこれ以外を選ぶことなど出来なかった。  ニコとメアリー・アンを覆うように、白い光が壁を作っていく。  美しく輝くそれは、飛んで来たアラクネの糸をあっさりとは弾き、中にいるふたりを守った。 「防御魔術か」  忌々しげにアラクネが言う。  守る対象を魔力で覆うところは、アラクネがすり抜けた結界魔術と原理はほとんど同じだ。しかし、違うのはその用途と魔力壁の丈夫さだった。  広範囲を覆い、敵の侵入を防ぐと同時に感知も目的とする結界とは違い、防御魔術は防御だけを目的とする。術式は「破られないこと」に特化していて、魔力で作り出す障壁は結界とは比べ物にならないくらい頑丈だった。  もちろん小さく弱い魔物ですら通すことはない。  アラクネは逃げることを諦め、防御だけに徹したニコを見て、ぎりりと唇を噛みしめた。 「何と小賢しい。そんな防御など、すぐに破壊してやる」  毒では防御障壁を破れないと判断したアラクネは、糸での攻撃を止めた。  代わりに背中から生える蜘蛛の脚を勢いよく振り下ろす。硬い爪が魔力の壁に当たって、がぎん、と大きな音をたてた。  ニコも実戦経験を多く積んだ元魔術師であるが、アラクネも同様に四天王配下の高位魔族として多くの魔術師を殺してきたらしい。  防御魔術に対する攻略方法を瞬時に実践してくるあたりが戦い慣れている。  破られないように、魔術を防ぐように硬く魔力を突き固める防御魔術は、物理攻撃に弱い側面があった。  硬い金剛石が一点に研ぎ澄ませた強い力に弱いように、防御魔術も鋭く硬いもので叩かれることに弱かった。  込めた魔力の強さと操作する魔術師の腕にもよるが、強い力を加えられると砕けてしまうのだ。  それを分かっていて、アラクネは鋭い爪の先を何度も何度もニコたちを守る防御障壁に打ち付けてきた。  おまけに、この防御魔術。展開中は中から攻撃をすることが出来ない。  そのため本来であれば、一瞬の攻撃を防ぐためのもので、中に籠って長い時間使うには向いてはいなかった。そういう使い方をするのは、救援が来ることが望める場合だけだ。  故にニコは防御魔術を選んだのだ。  この地には光の勇者がいる。  例え、アラクネが隠密行動に長け、一切感知されないように結界内に侵入してきたとしても、きっとハロルドは気づいてくれる。  ニコには、その確信があった。  ハロルドが駆けつけてくれれば、きっとアラクネを倒してくれるだろう。  しかし問題は、彼が駆けつけてくれるまでニコとメアリー・アンが無事でいられるかということだった。  森を抜けた村からハロルドが駆けつけてくるまで、おそらく魔術を使って数分。今のニコたちにはその数分が命取りだった。  アラクネの爪は繰り返し、ニコたちを狙ってくる。  ニコには、この状況を打開するための方法がなかった。  長年溜め続けた魔力は、そう時間を置かずに尽きるだろう。  そうすれば、きっとアラクネは迷わずメアリー・アンを殺す。そしてハロルドが駆けつける前にニコを連れ去るはずだ。その先に待っているのは、魔族たちが望む激しい戦いだ。    どうにかして防がなければいけないのに、力が足りず今にも防御衝撃は破られそうだった。  ――せめて、もう少しまともに魔術が使えれば。  ニコはついそう思ってしまい、唇を噛みしめる。  七年前の戦いを後悔したことはなかったのに、碌に魔術も使えない今の自分がひどく恨めしかった。  まだ年若いメアリー・アンを守ることすら今のニコには難しいのだ。  ニコが強い無力感に苛まれたときだった。気を散らしたのがいけなかったのか、それともアラクネの爪が予想よりもずっと頑丈だったのか。  握りしめていた杖が揺れて、防御障壁にぴきり、と小さな亀裂が入る。  アラクネが顔を歪めて声も高らかに笑った。  勝利を確信した笑みとともに高く持ち上げられた爪が容赦なく振り下ろされる。  亀裂の入った部分に先端が突き刺さって、そのまま軽い音をたてて防御障壁が砕けた。  硬く壁になるように構築した魔力の破片がきらきらと輝きながら散っていく。  ニコは振り返って背中に庇ったままのメアリー・アンを見た。逃げろ、と小さく呟いて自らの腹でその爪を受ける。 「ニコ様――ッ!」  森の中にメアリー・アンの悲鳴が響き渡った。

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