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第三章 森の薬師ときこりの勇者  第五話 勇者の不在

 メアリー・アンに魔力がないことを知っても、同時に彼女の王女としての矜持と覚悟を理解しても、ニコには彼女にしてやれることはなかった。  ハロルドはメアリー・アンとの結婚には絶対に頷かなかったし、彼女自身も再びそれを迫る様子もなかった。時間は穏やかに過ぎていく。  ニコは普段通り冬に向けて薬草を集めていたし、ハロルドは小屋の改修の合間に村の依頼で木材を取っていた。木材は村での需要があり、注文はひっきりなしに入る。  魔族が怖くて長年森に入れなかった村人たちは、もうずっと家々の修繕や家財の新調を諦めてきたらしい。  それをハロルドのおかげで木材が手に入るとあって、嬉々として依頼してくるのだ。  騎士であるはずのウィルも、もはや王女の護衛騎士というよりは木こりの助手と言った方がいい有様で、本来覚えないでいいはずの木の切り方や倒し方について詳しくなっていた。  ハロルドとウィルは三日ほど木を切って、四日目に木材を村に運んでいる。  木こりであれば大量の木材を運ぶとき、多くの人手を必要とする。しかし、彼らは勇者と騎士だった。重たい木材も魔術を使えば、少しの労力で運ぶことが出来た。  おそらく、村人はニコとハロルドを薬師と木こりとして認識していることだろう。 「ニコ、今日も王女とふたりになるけど大丈夫?」 「大丈夫だ。王女殿下ももうずいぶんと薬草の種類を見分けられるようになったからな。ハロルドより覚えがいい」 「そういう意味じゃないんだけど。まぁ、いいや」  今はシアの葉の最後の収穫時期だ。シアの葉は打ち身や捻挫といった外傷に効果のある薬草だが、収穫時期が極端に短い。  おまけに北部の限られた地域でしか取れないため、需要が高いのだ。  せっかくメアリー・アンという人手があるのだから、たくさん採りたい、と笑うニコを見てハロルドは苦笑する。 「あんまり、魔域には近づかないでね」  聖剣を背負いながら、ハロルドは言った。  木を切り出し始めた最初の頃、ハロルドは聖剣で木を切るという暴挙に出ていた。  女神より与えられし聖剣は勇者の証で、聖なる力が宿っている。  どれほど硬いもの切っても刃こぼれひとつせず、ありとあらゆるものが切れる素晴らしい代物だ。故に、森の木などパンよりも簡単に切れると、ハロルドは喜んで聖剣で木を切っていた。  しかし、少し前からきちんとした木材用の斧を使うようになっていた。  なんでも、一緒に作業するウィルが、ハロルドが聖剣で木を切るたびにひどく狼狽するのだという。  いちいち変な声を上げるので、とうとう能天気なハロルドも聖剣で木を切ることの無礼さを理解したようだった。  この森にやって来てからのハロルドは聖剣を使うことは滅多になかった。  強い魔物は軒並み勇者一行に倒されているし、弱い魔物は勇者を恐れて人里にはやって来ない。  森は平穏そのものだったが、それでもハロルドは聖剣をその身から離すことはなかった。  身支度をするハロルドを横目で見ながら、ニコもローブを着て薬草採集用の籠を背負う。  左脇で松葉杖をついて、よっこらせ、と座っていた椅子から立ち上がった。  家を出る際、ニコ、とハロルドに呼ばれた。  なんだ、と顔を上げるとすぐ後ろにハロルドが立っていた。  背後から覆いかぶさるようにニコの前髪を上げて、額に口づける。そのときふわりと香ったのは清潔な石鹸の匂いと微かな薬草の香りだ。 「お守り」  出がけに行う額への口づけは、ハロルドとニコの習慣のようなものだった。  ニコは別々の場所で作業をするとき――つまり、最近は毎日のようにハロルドはニコに口づける。  最初はその甘い空気に戸惑ったが、ニコと離れるのが寂しいのだと眉を下げられれば拒否をする気にもなれない。  ニコの爛れた肌に触れて、名残惜しそうにハロルドは微笑んだ。  それから、すぐ帰って来るから、と言ってニコとは違う方向へ進む。昨日のうちに切り出した木材を森の入り口近くに集めておいたらしい。  そこでウィルと落ち合うのだと言って、ハロルドは手を振った。  ニコは小屋の前までやって来たメアリー・アンとふたりで森の奥へと向かう。  シアの葉は森の奥に群生している。奥、といっても広大な黒の森からすれば、南方――つまり、王国側のごく一部に過ぎない。  魔族の領域からは遥か遠く、ハロルドの結界に守られた安全な場所だ。  黒の森に生える木々は太く、濃い葉を茂らせている。夏とはいえ北部の日射しは柔らかく、その僅かな陽の光さえ木々が遮ってしまうので、森の奥には下草はほとんど生えなかった。  そんな中で地面に這うようにして自生するのがシアの葉だ。  打ち身や切り傷にもよく効くが、殺菌効果があるため火傷の処置にもよく使われる薬だ。  ニコの傷はもう古傷と言っていいものだから、感染の危険はない。  しかし、たっぷりの油脂と混ぜて作るシアの軟膏をニコは普段から保湿目的で使っていた。それ故、一年を通して使用できるように出来るだけたくさんのシアの葉が欲しかった。  そういった事情はメアリー・アンにも話してある。彼女は朗らかに笑って、ではわたくしがニコ様のためにたくさん軟膏を作りましょう、と意気込んでいた。  その日の森はいやに静かだった。聞こえるのは風が葉を揺らす音と、ニコとメアリー・アンの息遣い。それからシアの葉を指で摘む音だけだ。  メアリー・アンとふたり、黙々と作業をしていたニコは、その違和感に気づいてふと顔を上げた。群生地に着いたときはまだ早朝といっていい時間で、朝露がシアの葉を滴らせていたけれど、気づけばもうすっかり太陽が中天に差し掛かっていた。  耳が痛くなるほどの静寂は、普段とあまり変わらない。  平穏な森には街中のような喧騒はなく、風が木々を揺らす音や近くにある川のせせらぎの音くらいしか聞こえないものだ。  しかしその静けさが、今日はどういうわけかニコにひどい緊張を与えていた。寒くはないはずなのに全身に鳥肌が立って、息苦しい。  何か嫌な予感がして、ニコは必死にその違和感の正体を探ろうと視線を動かした。  森には動物一匹おらず、いるのは小さな蜘蛛や蟻といった虫だけだ。  おかしいところなどない。いつもの森だ。けれども、どうにも落ち着かなかった。  実戦を退いて久しいとはいえ、ニコとて元王国軍の魔術師だ。幼い頃から戦場を渡り歩き、実戦経験だけは豊富だった。  肌がひりつくような感覚は、魔力探知が出来なくなっても分かる。――殺気の気配だ。  ぞくりとした気配を微かに感じて、ニコはゆっくりと立ち上がる。  そして空を見上げて、そのことに気が付いた。  ――鳥が、一羽もいない。  森の奥は魔域が近く時折魔獣が出るので、大型の動物たちはあまり近寄らない。  しかし、鼠や兎といった小動物や小鳥たちはちらほらと見かけるはずだった。  違和感はこれだ、とニコは息を吐く。  小鳥の囀りが一切聞こえないから、静かすぎるのだ。  ニコの経験から言って、普段とは違うことは何かの前触れであることが多い。  これまで地獄のような戦場を何度も経験して理解したのは、そういう感覚を決して無視してはいけないということだ。  のんびりとした様子でシアの葉を摘んでいるメアリー・アンの方に近寄り、ニコは彼女を庇うようにして森の奥を見た。 「王女殿下」 「はい」  どうされましたか、と首を傾げたメアリー・アンは、さすが護衛騎士に守られ慣れた王女といったところだろうか。緊張したニコの様子にすぐに気づいたようだった。 「小屋に戻りましょう。早く、ここから立ち去った方がいい」 「分かりました」  何故、ともどうして、とも言わないのは、そんな暇がないと彼女が分かっているからだ。  横に置いていた籠を持って、何気ない動作でメアリー・アンは立ち上がった。  そして、ふたりで来た道を戻ろうと足を踏み出したときだった。 「おや、もう帰ってしまうのか?」  静かな森に涼やかな声が響いた。   同時に、ニコはずいぶんと久しぶりに逃げ出したいくらいの重たく凶悪な魔力を感じて、声のした方向を振り返った。そして、そこにいる人物を見て息を飲む。    そこには、ひとりの少女が立っていた。  少女、といってもメアリー・アンよりも少しだけ年長で、年のころはおそらく十六、七。  乙女らしくすんなりとした手足を露わにした短い黒いドレスを着ていて、腰ほどまである黒髪はまとめることなくそのまま下ろされていた。  一見すると愛らしいただの少女のように見えた。  しかし、彼女が人間ではないことはすぐに分かった。  燃えるような赤い瞳の横に、小さな単眼が左右三つずつ付いていたからだ。  ――魔族だ。  力の強い魔族は、己の魔力を使って人間に擬態することが出来る。  本来であれば人とはまったく違う生き物であるはずの彼らは、長い闘いの歴史の中で人を殺すために生来の姿とは別の姿を取るようになった。  つまり、人間に擬態し相手の油断を誘うことを覚えたのだ。  しかし、それは決して完ぺきではなかった。人とは異なる魔力を完全に隠すことは出来ないし、身体のどこかに必ず擬態しきれない部分が出てくる。  ニコたち王国軍の兵士は、それを手がかりに人に紛れた魔族たちを見つけてきた。  彼女の場合、それが目元にそのまま残された六つの副眼なのだ。 「王女殿下……ッ!」  走って! とニコが叫ぶと、少女が愉快そうに笑い声をあげた。  その瞬間、強い殺気を感じる。  ニコは持っていた松葉杖で自らの身を庇いながら、メアリー・アンと少女の直線上に入った。鋭い爪が松葉杖に当たって跳ね返ったのは、ほとんど同時だった。  衝撃で飛ばされたニコは、少し離れたところにいたメアリー・アンを巻き込んでひっくり返る。しかし、身体は硬い松葉杖に守られて無傷だった。 「あはは、そんな身体でよく避けたな! 腐っても黒焔帝を倒した魔術師ということか!」  その様子を見て、少女はその愛らしい顔をひどく歪めて言い捨てた。 「殿下、大丈夫ですか?」 「わ、わたくしは大丈夫です。ニコ様は」  青褪めて震えるメアリー・アンを背後に庇いながら、ニコは少女の方を睨んだ。そして未だ笑い続ける彼女の姿を見て、盛大に舌打ちする。  少女の背中からは鋭い爪を持った八本の脚が生えていた。 人型の身体よりはるかに長いそれに持ち上げられて、彼女の視線はニコたちよりもずいぶんと上になっている。太くびっしりと毛の生えたそれは蜘蛛の脚だった。 「……蟲姫(ちゅうき)アラクネ」  そう呼ばれる魔物と相対するのは、ニコは初めてだった。  しかし、その噂は嫌というほどに聞いたことがあった。  かつて、ニコがハロルドの護衛を命じられるよりも前、国境の前線にいた頃の話だ。  ニコたちがいた戦場よりも、さらに北にあるという小国が魔族に滅ぼされたことがあった。  その国を襲ったのが獣王と呼ばれる魔王配下の四天王のひとりで、当時、蟲姫アラクネは獣王の副官という話だった。

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