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第1話

 背高く生え渡る、菊の原であった。  あたりは霧時雨につつまれて、ほうぼうと暗い。  草の葉裏に、もやのような夜気がゆれ、つぼみが月の香りを帯びている。  うっすらと、夜の気配が残る朝。  木立はしんとして静まり返っていた。  草も木も、夢の中にある。まどろむような霞がからみつく、白みまさった朝。その、夜影を散らす風が、菊の背を冷たく吹きさらう。  花の囁きが、白い原にさわさわとみちていく。  淙々とした風の音である。  目の前を秋風が吹き渡っていく、心地の良い朝だった。  これほど気持ちがよいのなら、身体の内にこもった熱も、手放すのが惜しい。フィルの唇に自然と微笑が浮かぶ。  花のざわめきにうもれるフィルである。萩の小花を散らす秋風にほてりを冷ましながら、菊の花茎をたぐり寄せていた。  白百合のような指先で愛おしく触れるのは、今朝開いたばかりの花びらである。葉末に滴る露をすくいとり、匂やかな手はひらり、ひらりと花の上をおどっている。  一つずつ、丁寧に、銀の朝露を留め置く葉や花珠にふれるフィルは、片腕に抱えた瓶の中に雫を注いでいく。  と、息を凝らして、そっと、耳を寄せる。  夜月と金の陽玉が二つ並んで触れあえば、きっとこのような音が鳴るのだろう。美しい玉の触れあう冴え冴えとした音色が、小さな瓶の中で響きあっていた。  幻想的な世界が広がっているにちがいなかった。星々の連なる小さな宇宙をのぞこうと、フィルのつり目がちの大きな瞳が、瓶の中に向けられた。澄んだ水面から冷気が立ち上る。  朝露の清らかな香りにまじって、醒めるようなにおいをとらえた。氷のにおいだ。  冬が近い。  露が凍ってしまう前に、なるべく多く汲んでおかなければ。  黒い角を持つ貴人、犀角(さいかく)の主は、朝露の蜜しか召し上がらないのだから。  その濡れた菊野の中をさらに深く踏み込み、朝露を汲もうと身を屈めたとき、 「――おい!」  咄嗟に襟首をひきつかむ手と同時である。  怒号が飛んだ。  フィルは背中を打ち付けつけてひっくり返った。  その背の痛みを覚えるより先に、視線は手の中の瓶を見つめている。  大事な朝露である。それがこぼれてしまったのではないかと、気が気でなかったのだ。  瓶口すれすれに水面が大きく波打っているのをみれば、どうやらこぼれずにすんだらしい。  安堵して息をつくも、霧の中、ぬっと飛び出た男の顔に内心ぞっと肌が粟立った。顔の横に、小豆ほどのほくろが目立つ男。フェースである。 「何をしている……!」  すかさずフィルの麻衣を乱暴に引き掴む。 「ずうずうしいではないか!」  躊躇ううちに、頭は地面に押しつけられた。  晩秋にさしかかった白い風が、地をさらって消えていく、その、風の止んだところから、リン……、リン……、と澄んだ音が聞こえていた。  ――鈴の音。  馬の、霧を裂く蹄の音がきこえてくる。  犀角の貴人。  その額際から生えるのは、息をのむほどに真っ白な角。  ――白犀(はくさい)だ。

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