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第1話
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かすみたなびく幽境の、峰高くそびえた山々のかげに、可憐な桃花は咲きみだれている。
一重八重。
はなびらはけぶるほどに瑞々しく、次々に蕾を開く。
ポンと小さな音が鳴るような気配がして、あたり一面が薄紅に染まる。やがて霧雨が降りそそぎ、花は濡れ、芯が揺らいだ。
不思議なことに、新緑の葉が芽生えた花のそばには実が成っている。細やかな繊毛に包まれた果実は、佳人の肌のごとく艶めき潤み、まさしく白桃色だ。
やわらかな雨に混じるのは、哀愁を帯びた胡弓の響き。
はるか彼方まで広がる桃園をくまなく覆った。水気を帯びた花はすぐにしぼみ、堅い蕾へと戻っていく。
桃はなおもつやつやと濡れて、馥郁たる香りをあたり一面に振りまいた。
ここは仙女の長・西王母(せいおうぼ)の桃園。
聞こえる響きは、管理の役を授けられた地仙の道士・シュー・リアン(許梁)の奏でる音曲だ。
山に建てられた道宮のそば、桃園を遠く眺める観月台に座った彼の手が止まる。
しっとりとした白磁の肌に長いまつげ。くちびるは形のよい薄紅色。
頭頂部の髪を結いあげた長着姿は、天女も嫉妬して黙り込む美しさだ。
そこへ弟子の仙童が転がり込む。名はフェン・ジュンシー(封俊熙)。
あげ髪を布で包んだ少年は、額に汗かく大あわての様子で両手を床へついた。
「一大事でございます。桃園に侵入者が……っ」
「まま、あること」
リアンはゆったりと微笑み、胡弓を片付けた。腰にさげた乾坤袋を開けば、腕の長さほどもある楽器がするりと呑み込まれてしまう。
「悠長なことを言わないでください」
あわてふためいたジュンシーに急かされて、リアンはおのれの袖の内へと手を差し入れた。
長着の仙服はさらりと揺れる大袖だ。そこからたちまちに長剣が抜き出される。鞘はちらりと見えてすぐに消えた。
「さぁ、おいで。ジュンジュン。飛んでゆこう」
左手の人差し指と中指を伸ばして揃え、銀にかがやく刃の上へすべらせる。
長剣を宙へ放したリアンは、床をとんっと蹴って踏んだ。
白い袖と赤い裾が優雅に揺れて、身体が宙へ舞いあがる。横一文字に浮いている長剣へ、すっと乗った。
「その呼び名はやめてください!」
こども扱いに眉を吊りあげたジュンシーも、軽い仕草で床を蹴る。
師匠ほどやわらかな跳躍ではなかったが、あらぬ方向へ流される前に腕を引き寄せられた。リアンの前方へ身体が落ちつく。
「桃園への闖入者は久方ぶりだ」
御剣の術で空へ舞いあがり、山頂から山間へ、奇岩の隙をすり抜けていく。鳥のごとくなめらかに風を選んだが、前後に並んだ師弟の上衣下裳は乱れもしない。そよと揺れるばかりだ。
桃園は人里離れた場所にある。人がたどり着こうとすれば、岩場を登って谷をくだり、川に濡れて藪に刺され、三日三晩さまよい歩かねばならない。
リアンとジュンシーは、外周あたりへおりた。
百年千年と育ち続ける桃が、とろけた匂いを漂わせている。桃園上空を覆っていたもやは晴れ、淡い春の陽差しが湿った下草をきらめかせた。
年中、花が咲き乱れる桃源郷の入り口だ。
「なんと!」
ジュンシーの嘆きがこだまする。
のんびりとあとを追うリアンはおどろきもせず、鞘に収めた刀剣をさげ、片腕を腰裏にまわして歩く。
桃園に慈雨を降らせる仕事を賜って三百年。リアンの悠長な性格には拍車がかかり、桃園に起こる不都合を察知するのは、もっぱら弟子であるジュンシーの役目だ。
「狼の子が桃を食らっています! あああ……」
わなわなと震える肩を慰めるように撫でて、リアンは足元へ視線を向けた。
黒い塊がうずくまるように倒れ込み、手元にはかじった果実がころりとひとつ。
「獣が入ってくるなんて! もしかしたら、妖しの類いでは!」
叫んだジュンシーにがしっとしがみつかれ、リアンはあっけないほど簡単によろめいた。胸ほどの背丈の弟子にあわてて引き戻され、笑い声を立てる。
「さぁ、どうだろうね。……うん、これは獣ではない」
白絹の大袖を垂らした腕でジュンシーを控えさせ、片足を一歩踏み出した。頭頂部を結いあげ残りを垂らした長い髪が、さらりと腕をすべる。
「見てごらん、ジュンジュン。かわいい耳がついている」
「野犬ですか、狼ですか」
「……犬か、狼か……どちらにせよ、獣人の子だ。ほら、服を着ている」
黒い塊の全体を覆っているのは毛皮だが、灰色に染めた衣も見える。そして、毛むくじゃらな部分には、へなりと倒れた耳らしきものが見えた。ぴくっと小さく震えて揺れる。
リアンの腕越し、おそるおそる覗いたジュンシーがいぶかしげにつぶやいた。
「獣人……? 本当ですか。ぼくは会ったことも見たこともありません」
「耳を隠せば、こちらに住まう人間とほとんど変わらないから当然だ」
引き留めようとする手をするりとかわし、リアンは膝を折って身を屈めた。
濡れた下草は豊かな色彩で、倒れ込んだ狼獣人のこどもを包んでいる。大きさはジュンシーの半分ほどで、黒く染めた筒袖からちらりと出ている手は体毛薄く、あどけなくも小さい。
もっと背を丸めて覗き込むと、目を閉じている顔が見えた。やはり年の頃もジュンシーの半分。五歳か六歳の幼子だ。
「こんなところへ迷い込むとは……。やはり妖しだろうかな」
首を傾げながら、倒れ込んだ少年の毛皮羽織の背に手のひらを押し当てる。伝わった息づかいは浅かった。
「開明君(かいめいくん)をお呼びになってはいかがです。あぁ、そんな……、考えなしに」
まくしたてたジュンシーが短く息を吸い込む。
そのときにはすでにリアンは獣人の子を抱えていた。ずっしりとした重さにふらついたが、片手に長剣をさげて立つ。
ジュンシーは信じられないとばかりに額へ指先を当て、せわしなくかぶりを振りながら嘆息をついた。
「犬の子を拾うのとは、わけが違います。お師匠さま」
「聞き捨てならない言い草だな。フェン・ジュンシー」
落ちつきはらって答えたリアンの声が、寝起きを共にするジュンシーを黙らせる。
ずけずけとしたもの言いを許していても、師匠は師匠、弟子は弟子ということだ。
「妖しにさらわれて、この地を三日三晩さまよった挙げ句の盗み食いだとしたら……」
「もう長くはないでしょう」
ジュンシーは頭を垂れ、沈んだ声で答えた。腕を互い違いに袖へ入れて胸の前へ掲げる。
「……いつものように、ぼくが里のそばまで運んでまいります」
「よい。……これは、連れ帰る」
幽境の隠れ里に人が迷い込むことはまれにある。ある者は仙女に出会い、ある者は不老の桃を手にするが、その実、迷い人の多くは命を落とす。
人間風情が手にできる果実ではないからだ。西の果てに住む獣人族も同じはずだった。
「御意」
ジュンシーは短く答えた。リアンの差し出した長剣を受け取って鞘から引き抜く。
御剣の術でひとっ飛び。ふたりは拾いものを抱えて道宮へ戻った。
息も絶えんばかりに昏睡している小さな身体から衣服を脱がせ、温かい湯で肌を清める。
やはり、どこもかしこもリアンやジュンシーと同じつくりだ。
獣のような濃い体毛はなく、腕が二本と足が二本。その付け根には男の証しがちんまりとついている。
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