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第2話

 獣人である証拠は、尾てい骨のあたりに毛むくじゃらの尻尾が一本。顔の横についているはずの耳の代わり、これもまた毛むくじゃらの三角形がふたつ、頭頂部に並んでいる。 「不憫なことだ」  黒髪をそっと指で撫でてやりながら、リアンは寝台の端に腰かけた。人差し指と中指を立て、布でくるんだ幼い身体の中心をなぞっていく。頭頂部、眉間、鼻先、あご。布を少し開いて、喉元、胸のあいだ、みぞおち、腹、丹田。  ふと指先が熱くなった。 「あぁ、これは」  小さくつぶやき、目を閉じる。  リアンの長いまつげが、白い頬へ影を伸ばして揺れた。  困惑するほどの心地よさに引かれ、少年の腹へと指先がずぶずぶ沈んでいくようだ。気力を吸われているのに、懐かしいようなせつなさに襲われるのが不思議だった。   獣人の国は西の果てにあり、ときどき行商隊が町を訪れる。  特徴的な耳を隠すため、頭にぐるりと巻いた大判の布こそが彼らの商品だ。  絹や木綿を多色で染め、美しい文様を描いたり、刺繍したり。そのほかには、翡翠などに施す細工の技術に優れている。  商売は小売りではなく、大店との取り引きだ。複数人で現れる彼らは長居せずに去っていく。だから、まぼろしの商人のように語られ、品物にもいっそうの箔がつく。 「お師匠さま。薬を煎じてまいりました」  戸の向こうからジュンシーの声がして、リアンはゆっくりと指を引きあげながら応えた。 「入っておいで」  奇岩がそびえ立つ山々のなかでもひときわ高い峰に、赤と緑で彩色された道宮は佇む。  ふもとの里や離れた町からは見えない場所にあるが、熟練者だけが登れる山から望めば、まれに、岩の割れ目に根を張った松が陽差しを照り返すごとくあざやかな屋根の端をちらりと視認できる。  まぼろしのような景色を見た数人が言い伝え、名付けられた名前が『陽風真君(ようふうしんくん)』。しばらくは拝まれていたが、百年も経たないうちに廃れた。 「間に合いましたか」  ジュンシーから椀の載った盆を差し出され、リアンは受け取りながら匂いを嗅ぐ。いくつかの薬草を混ぜて作る、苦みが強烈な気つけの薬だ。 「うん、調合もよさそうだ。……さて、起きるといいけれど」  できる限りの治療はした。あとは当人の運次第。  空き部屋の寝台へ横たわるこどもを見つめ、ジュンシーは不安そうにまつげを震わせた。 「息はまだ……」 「している」  弟子に答えながら、リアンは狼獣人の子を眺めた。 「気を送り込んだから、おそらくは目を覚ますだろう」 「もし、そうでなければ……?」 「里や町におろすのは、みんなが対処に困って不憫だ。飛剣で西の果てまで行こう」 「……わかりました」  ジュンシーはきりりと眉を引きあげた。リアンが持っている盆の上から匙を取り、椀の中身をくるくるとかき混ぜる。葛でとろみがつき、湯気は出ていない。  匙で少量をすくい、少年の口元へ運ぶ。  見守るリアンは首を傾げた。指に感じた熱さを思い出す。  これまでにも迷い人を救ったことはある。  多くは里や町まで運び、そこで治療をした。ひとまずは丹田へ気を送るのだが、だれもが受けつけるわけではない。  弱りきった身体はすでに丹田が枯渇していることのほうが多く、潤すことさえ追いつかない。そうなれば気つけ薬が効いても、魂が抜けたごとくに廃人となってしまう。  しかし、狼獣人の少年は、指先が沈んでいくと錯覚するほど気を吸い込んでいった。  そのようなことも滅多に起こらない。  リアンが地仙となって三百年。一度か二度、あったような気がする程度だ。  ふっと息を吐いた瞬間、そばに伸びていた少年の足が跳ねた。  大きく咳き込んで七転八倒するのを、ジュンシーが覆いかぶさるようにして押さえつける。匙が宙を飛び、床へと転がり落ちた。 「ああっ……ああっ……」  少年のむせび泣きが聞こえ、リアンはすぐに盆を置いた。ばたつく足の届かぬ卓の上だ。代わりに水の入った湯のみを取って、腕を伸ばしてくるジュンシーに渡す。 「いやいや……」  リアンはひとりごちて首を振った。これほど悶える子に湯のみで飲ませるのは無理だろうと気づき、渡しかけた湯のみを引く。  中身を口へ含んで卓へ戻した。  のたうつ身体を押さえるのはジュンシーに任せ、舌を噛みそうな勢いの小さなあごを掴んだ。乱暴でも仕方がない。くちびるへ指を突っ込み、犬歯を押さえて開かせる前に口移しで水を与える。 「ん……っ!」  くちびるに触れた瞬間、気つけ薬の苦さがリアンを襲った。脳天が痺れ、目玉が飛び出すかと思うほどの衝撃が走る。  それでも、少年の口腔内へ水を流し入れる。やがて身体の悶えがゆるまり、ジュンシーが持ってきた湯のみを受け取る余裕も生まれた。  繰り返し水を飲ませてから、リアンも口をゆすぐ。 「……ここ……どこ……」  かすれた声が聞こえ、布に包まれた少年がふたりを見る。  潤んだ瞳は翡翠よりも濃い碧色。濃いまつげが目の縁を囲い、眉はきりりとしている。黒髪にまぎれていた耳がぴょこんと立ちあがった。 「仙女さま……」  布をかきわけ、腕を出す。リアンの袖に触れるよりも先に、ジュンシーの手が伸びた。 「違います」  小さな手をパチンとはたき落とし、ふたりのあいだへ身を割り込ませる。 「お師匠さまはたしかに美しいけれど、女性(にょしょう)ではない。陽風真君。れっきとした地仙でいらっしゃいます。それを仙女などと……」 「ちせん……」  狼獣人の耳がまたふるふるっと震える。 「わたしは、修行中の道士ですよ」  弟子の頭越し、少年へ声をかける。それから弟子の肩に背後から手を置いた。 「彼はこちらの文化にうといはずだ。そう、頭ごなしに怒るのはやめなさい」 「知らなければ無礼を働いていいわけではありません」 「……困った弟子だ」  発言には一理も二理もある。  リアンは微笑み、眩しげにジュンシーを見た。外見は十歳でも、すでに五十年を生きている仙童だ。  彼を預かり、弟子としているリアンは三百年を生きた。  幼くして両親と死に別れ、道士としての修行を始めたのが五歳のとき。  二十代の半ばで仙丹を得たが『飛昇する』ことは叶わず、西王母から不老の桃をいただいて雨ふらしの役目に就いた。  天界へ昇ることはできないが、さまざまな力を持って地に暮らす者。  それが地仙だ。ジュンシーの言う通り、仙人の端くれではある。  弟子から獣人の少年へ、リアンはゆっくりと視線を移した。 「その耳を持っているのだから、西の果てから来たのだね? ……現在の名は『砂楼国(さろうこく)』だったかな。行商の隊列からはぐれて、あのようなところまで?」 「道士。俺はあなたを探して、ここまで来た」  白い布を身体に巻きつけ、少年はちょこんと寝台に座った。両手をついて頭をさげる。 「この身体の、呪いを、解いて欲しい」 「呪い……?」  けげんそうに眉をひそめたのはジュンシーだ。

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