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第6話
桃園を荒らされた謝罪の手紙を送ったとき、西王母にはさりげなく呪いについて尋ねてみた。一ヶ月に一度、新月の夜にだけ若者になる獣人少年の話だ。返ってきた手紙は美しい筆跡で綴られていたが、内容は不穏だった。
どこかの好事家が絵に描かせそうだとか、是非譲って欲しいだとか。美童とはひと言も書かなかったが、耳と尻尾を携えているというだけで価値はある。
「考えもしなかった……」
だからこそ、開明君にも知らせることができないでいる。
西王母にして興味津々なのだから、開明君なら目にしたその日に、ぺろりと平らげてしまうやもしれない。食べるが、比喩のひとつとしても。
「道士、こちらへ」
駆け寄ってくる幼い笑顔にほだされ、リアンはほんの少し新月の夜が待ち遠しくなる。
どんな青年に変わるのか。一度ぐらいは見てもいいと思えた。
夕暮れが近づき、道宮の釣り燈籠から淡い光がこぼれ落ちる。闇夜の苦手なジュンシーは早々と就寝の挨拶をして消えた。
ソワムの語る呪いについては、端から信用していない。
弟子から『酔狂』と呼ばれたリアンは、廟の広場の端に置いた、石造りの腰かけへ落ちついた。卓の瓶子を傾け、酒を杯に溜める。
あたりはいっそう暗くなった。
欄干の下方は漆黒に飲まれ、山影も定かではない。代わりに、仰ぎ見ずともきらめく無数の星が金銀砂子と広がっている。大きな椀を伏せたごとき半球の空は群青に深く、風はほどよく心地いい。
星明かりを映した美酒に酔い、次第に好奇心も遠ざかる。だが、息をすれば胸に、仙丹の熱がよみがえった。杯を両手で包んで転がり出た嘆息は、憂いたっぷりに濡れたくちびるを花とほころばせる。長いまつげが夜闇に揺れて、自分を呼ぶ声に気がついた。
なぜか、身体が動かせず、リアンはじっと星の海を見つめた。
視界の端には、近づきつつある提灯の赤い光。
ゆらゆらと揺れるさまは、まるでいつかの紅蓮のようだ。
背筋が震え、無性に泣きたくなった。卓の上で拳を握り、もう一度呼びかけられて、目を閉じる。
若い男の声だ。夢で見る、あの声。
「道士……? ……リアン。聞こえているか、リアン」
なにも答えられなかった。
道宮に出入り口はない。この山に登れる人間もいない。
だから、尋ねてくるのは、神仙か妖しか。
視界の端に揺れる明かりに目を伏せると、だれかがそばにしゃがみ込んだ。
「もう酔ったのか。珍しい」
片膝をついて背を丸めているのは、見たこともない若者だ。息を呑むほどに精悍で、彫り深く、濃いまつげにたくましい身体つきをしている。
だれと問いかけて、リアンは目を丸くした。
「……ソワム」
呼びかけに応じて、緑風のごとき瞳に笑みが浮かぶ。キリリとした眉も間違いなく彼の特徴だ。
「まさか、そんな……」
信じきれずに手を伸ばすと、柔らかな黒髪へ指先がもぐり込む。本来、あるべき場所に素肌の耳はなく、わしゃわしゃと這いあがった頭頂部あたりに毛むくじゃらで三角形の耳が立っている。
「ん……」
若者がくちびるを噛んでうつむく。獣人であることをたしかめたリアンは、なおも耳もこねまわした。少年の形(なり)でも触り心地はよかったが、青年へと成長するといっそう毛並みがいい。
「道士、その程度で……」
「耳、すごいね。尻尾はどうなっている?」
「え?」
怯んだソワムはおずおずと立ちあがった。提灯をさげたまま、身体をひねる。着ているのはリアンのおさがりだ。ソワムの手が上衣をたくしめくると、改造した中衣からふんわりとした房が垂れていた。
「見事な」
リアンの手が包むと、銀光りする黒い毛並みがうねった。手の甲をかすめた感触のなめらかさにため息がこぼれ、つい興に乗って追いかける。両手で掴むと、またするりと逃げていく。
「意地悪をしないで、触らせておくれ。そうか、耳も尾もこんなに成長するのか」
「……道士、慣れぬから」
じりじりと逃げていくソワムの尻尾を、思わずぎゅっと力任せに掴んだ。
「んんっ……」
ほんのわずかに色めいた息づかいが詰まったが、リアンはなにも気づかない。さわさわと撫でまくり、頬を寄せようとして額を押しのけられた。
「道士! 見ての通りの若い身体だ。もてあそばれては、できる我慢もできなくなる! ただでさえ……」
「ん?」
額を押されてのけぞったまま、ほろ酔いのリアンは無垢な瞳を向ける。
「ん?」
ソワムの眉根にぎりぎりと深いしわが寄り、重いため息がふたりのあいだへ転がり落ちた。その場の勝敗はぴたりと決まり、ソワムは黙ったままで尻尾を引きあげた。
額を押しのけた無礼を詫びようと片膝ついたが、しゅんとしたリアンに見つめられて困惑する。片方の姿形が大人へ変化しただけで、いままでの関係がまるで保てない。
「道士……。動物の尾がお好きか」
ソワムは真面目に問いかける。リアンも大人に対する口調で答えた。
「毛並みのよいものは好ましい」
「……呪いについては、信じてもらえたろうか」
「さぁ、どうだろう」
尻尾を引きあげられた鬱屈をあからさまにして、リアンは卓へと頬杖をついた。花のかんばせをほの赤く染め、杯に残った美酒をあおる。
「ますます妖しとしか考えられぬ」
「それでもいいから、手を貸してくれ」
「と、いうと?」
「この際、呪われたままでもかまわない。……ここにいられるなら」
帰る場所を失っているのだろう。生い立ちについてなにも話さないのが証拠に思え、リアンはついと瞳を細めた。弟子がひとり増えたところで困ることはない。
ソワムはすでに仙丹を身に秘めた男だ。
「では、試験をひとつ。なにか芸をしてごらん。師匠を楽しませてこそ、山の生活は成り立つというもの」
「……うさんくさいな」
大人の形をしたソワムはぼやくようにつぶやいた。間違いなく本音だ。
「さもあらん。さぁ、やるか、やらないか」
瓶子の酒で杯を満たし、リアンは酔い任せの視線を若者へ向けた。
心がざわめき、あの仙丹の熱に触れたくなる。それを押さえるには、からかい遠ざけておくのがよい。
しばらくすれば欲求も収まるはずだ。
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