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第5話
くらりとめまいがして、気づかれないように丹田へ気を巡らせた。剣が少しでも傾こうものなら、抱えているソワムも、並走しているジュンシーも動揺する。
動揺は気を削ぐ元だ。だれが転落しても、数十年は御剣の術を嫌がるだろう。大いに修行の妨げとなる。
「あぁ、山の向こうが見える」
ソワムの感嘆が聞こえ、絡んだ腕や息づかいの温度があがった。
同時にリアンは熱さを覚えた。衣服越しに内丹の気を感じる。なぜか波長がよく合った。
「なにが見える」
ささやくように問いかけると、湖だろうとソワムは言った。
「きらめいている。まるで海のようだ」
「海を見たことがあるのか」
「いや、ない」
やけにはっきり否定して、そんな自分のことを笑う。
行く先に町が見え、今度は肩越し、ジュンシーへ声をかける。
三人は町はずれの木陰にひっそりと降り立ち、市場へと足を向けた。
地上の季節は初夏である。広場に作られた池には可憐な睡蓮が咲き、手作りの玩具を手にしたこどもがぐるぐるとあたりを駆け巡った。
通りにはいくつもの店が出て、呼び込みの声もにぎやかに響く。
「道士さまとお見受けします」
老婆を伴った若い女が道を塞いだ。腰低く頭を垂れる。
ジュンシーがすかさずソワムをさがらせた。兄弟子に従うかのようにおとなしく従い、倣って袖へ手を入れて控える。
「いかにも。なに用かな」
リアンが微笑むと、若い女はたっぷり呆けた。腰の曲がった老婆は目がよく見えぬようで、視線はあらぬほうを向いている。
まばたきを繰り返した若い女は、急に我に返った。
「そ、そうでした……。見ておわかりの通り、祖母の目が悪くて困っております。護符をいただきたいのですが」
「よろしい。具合が悪くなったのは、いつ頃から……。最近のことかな」
「はい。はい」
うなずいたのは老婆だ。
「どんどん目がかすむようになって難儀しております。とはいえ、年も年。せめて護符を拝みたく……」
「……相わかった」
うなずき右手を横へ出す。万事心得たジュンシーが筆を置いた。受け取り、左手を袖のなかへ引く。一枚の護符を取り出した。
さらりと走らせた筆をジュンシーへ返し、人差し指と中指を揃えて、護符を上から下へと撫でる。
リアンとジュンシーの目には、文字が青く発光したのが見えた。すぐに収まる。
それを若い女へ差し出すと、いくばくかの通貨を渡された。相場はあってないようなものだ。金に不自由しているからこそ、こうして流しの道士を捕まえもする。
「ジュンジュン。枸杞子を」
「はい、お師匠さま」
幼い呼び名に拗ねることもなく、素直に袖を探る。小さな袋を取り出した。リアンが中身をたしかめ、護符を老婆へ渡したばかりの若い女に握らせる。
「これは枸杞子だ。家族で食べなさい」
「でも、代金の持ち合わせが……」
「また会えたときに余裕があれば、ということにしましょう」
リアンが両手を合わせると、若い女と老婆は何度もお辞儀をしてから去った。
「護符があれば治るというものでもないのか」
成りゆきを見守っていたソワムの問いには、ジュンシーが答えた。
「その気になれば、いくらでも方法はある。でも、安易におこなえば秩序が乱れる元だ」
ソワムは納得した様子でうなずき、三人は今度こそ大通りへ入った。
にぎやかな市をそぞろ歩きしながら、少年たちはあちらへこちらへ視線を移す。ふたりの後ろについたリアンはのどかな初夏の陽差しに手のひらを向けた。
大袖が揺れて、下衣の紅が上衣に透け、たおやかな桃の花に似た薄紅が映える。
眉目秀麗を絵に描いた佳人のごとき美貌も、せわしなく行き交う通行人の目には入らない。求める者のみが存在に気づく。
「人には人の秩序と営みがある。神仙には、神仙の……」
ジュンシーが言うと、ソワムが返す。
「そこは相容れないのか」
「と、いうわけでもない……。神仙と人間が恋に落ちて子を成すこともある」
「命の長さが違うだろう」
「うん、それは違う。……仕方がない」
「……方法は? あるんだろう?」
ふいに振り返った視線に射抜かれ、リアンは呆けた表情で少年を見た。姿はやはり幼いが、会話だけ聞いていれば大人顔負けに利発だ。
そして、リアンを見つめる真摯な瞳も、世のことわりをいまだ知らぬ少年ではない。
ぞくっと震えがきて、妙な胸騒ぎに襲われる。
長い絹糸のような髪がリアンの細い肩を流れた。
「神仙と人間とが心を通じ合わせたとき、どうすれば長く一緒にいられるんだ」
硬い表情に思い詰めたような色を浮かべ、ソワムは真剣な質問を繰り返す。
「それは……。人間が練丹の修行に入るか、西王母の桃をいただくか」
リアンの答えに、ソワムが胸の前で両腕を組んだ。
「練丹とは?」
今度はジュンシーが答えた。
「内丹と呼ばれる気力の元を生み出すことだよ。これがなければ仙人の端くれにもなれない。この下腹のあたりに丹田と呼ばれる場所があって、そこに気を溜めていくんだ」
「俺には、ないか」
「……ぼくはまだ人のことまでわからない」
断言を避けたのは判別の難しい問題だからだ。そしてソワムが獣人族であることも一因だろう。
「でも、よく食べるから、ソワムはただの人間だろう。仙人になれば食事の必要はなくなる。酒と少しの果実で済むんだから」
「肉も食べたいな……」
屋台のあいだに見える宿屋から、焼いた肉の香ばしい匂いが漂ってくる。一階は料理を出す店だ。
「あぁ、そうか」
ジュンシーがうなずいた。
「お師匠さま。鶏を買って帰りましょうか。蓮根汁を作ります」
「それはいい。ジュンジュンもまだ成長盛りだしね」
「……外でその呼び名は控えてください」
「おや、気づかずに聞き流すこともあるくせに」
肩をすくめて答え、ソワムを手招きで呼んだ。
「疲れただろう。山査子の甘露煮を食べようか」
ちょうど真横に屋台が出ている。串に刺さった赤い実が見えていた。
「……道士、疲れが出たか」
ふと、少年の声が沈んだ。不安げな気配はなく、思慮深さの表れのように思える口調で、ゆったりとした視線を向けられる。
「ふたりの生活の邪魔をして申し訳ない。三日後は新月だ。俺をそのときの姿に留めてくれたら、あの道宮へ寄進もする」
「寄進……」
出所を尋ねるより先、ソワムは身を翻した。先を歩くジュンシーを呼び戻し、山査子を買って休む算段をつける。
幼い背格好の少年を眺め、リアンは唸るように小首を傾げた。
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