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第4話
新月と聞いたジュンシーは、気もそぞろになって視線をさまよわせた。月の光が途絶え、星明かりだけの夜をこわがる性分だ。
「あと三日だ」
リアンが言うと、奥歯を噛みしめたソワムは笑顔を消した。
「……信じてもらわねば」
丸い頬の愛らしさとは正反対の凜々しい眉が、きりりと吊りあがった。
真剣な決意が伝わってくると、年少者に対する慈しみの気持ちが見る者の胸にぐっと溢れる。リアンのそばに控えるジュンシーでさえ、数日を一緒に過ごすうち、ソワムをただの厄介者とは思わなくなっていた。
言葉や口調こそ大人びて横柄だが、幼さに甘えるところがない。朝も早くに起きて道宮の掃除を手伝い、廟へ供えるための炊事もすぐに覚えた。空いた時間にはこうして身体を動かしている。
まるで自分と同じ仙童のようだと、ジュンシーも首を傾げた。リアンも不思議に思う。
そもそも仙丹を持って生まれ、順当に修行を済ませれば神仙へと昇格していくのが仙童だ。生まれはさまざまだが、ジュンシーの場合、父親が天仙で母親が人間であった。
内丹を鍛えて地仙となったリアンとは出自からして違う。
そして、ソワムだ。西の果てに住む獣人族の子に、荒々しいながら内丹があるとは想像もしなかった。
思案するリアンは、さりげなく視線を送る。
幼い身体に眠っている、内丹のあまやかな熱さを思い出す。
あの沼地のような泉の感触を知ってから、リアンは夢を見るようになった。
初めは、懐かしいばかりの西王母とのやりとりで、桃園を荒らされてしまったことの申し訳なさが夢に現れたのだろうと思った。謝りの手紙を書いた日でもあったからだ。しかし、翌日から夢は変化した。
過去とは呼べない初見の景色だ。目が覚めると枕が濡れていて、自分が泣いていたことに気づかされる。そして指先には、あの泉の熱さが残っているのだ。
紅蓮の炎と胡弓の調べ。
断末魔の叫びが遠のき、だれかに強く手を握られた。
「お師匠さま?」
心配そうなジュンシーの声で我に返る。
「あぁ、すまない。呪いのことを考えていた。それはそうと、今日は町へでかけよう」
「ソワムもですか?」
「御剣の術も、使わねば上達しまい。ソワムはわたしの剣へ伴うから、耳と尻尾を隠してやっておくれ」
「……え? ぼ、ぼくは、自分の剣で? お師匠さまの剣には、乗せてくださらないのですか?」
あわてふためく弟子に向かい、リアンは仰々しくうなずいた。
「三人も乗れば、谷間へ落ちてしまいかねない。さぁ、わたしはひと仕事しよう」
そう言って、ふたつの小舎のあいだを抜ける。
岩壁から突き出すように作られた観月台は板敷きで、欄干の朱色があざやかだ。眼下には雲海が広がり、見渡すあちらこちらに奇岩の峰が覗いている。
乾坤袋を開いて出した胡弓を手に、結跏趺坐(けっかふざ)で腰を落ちつけた。弓を構えた刹那、夢のかけらが舞い戻った。
赤々と燃える火。崩れ落ちてくる天井。
途切れた音曲。
あの分厚い手のひら。磨きあげた宝玉のような翡翠色の瞳。
次こそは、と。声にならない言葉を聞いた。
リアンは目を閉じて馬毛の弓を引く。夢で聞くのとまったく同じ旋律は、あたりの空気をやわらかく揺らして広がった。
仙人が必携の宝具。リアンのそれは胡弓である。引けば遠く思う場所で雲が生まれ、雨がしとやかに降りはじめる。
慈雨のこまやかさを重宝したのは西王母であった。桃園のためにと天へ請われたが、固辞したのはリアンだ。不老不死の桃さえ拒み、せめて不老のみを、と願い出た。
あれは約三百年前のことだ。
夢のなか。リアンはまたしても、西王母の求めを拒んでいた。
『この音曲は、あの人のもの。音に呼ばれて巡り会うその日まで、転生(てんしょう)の輪をはずれるわけには、まいりません』
遠く離れた桃園へ霧雨を降らせながら、白皙の頬に熱いひとしずくがこぼれ落ちる。
三百年の月日は長かった。遠い前世の記憶とわかっていても、なにのため、だれのための希望なのか、真実は五里霧中と消え失せていた。
澄みわたる青空のもと。
さぁ、出かけようと剣を浮かせた瞬間から、頭に布を巻いたソワムの挙動が不審になった。からかいを投げてもおかしくないジュンシーも、自分の剣にこわごわ足をかけている。
引けた腰を微笑ましく眺め、リアンは視線を戻す。
「どうしたの」
両手を差し伸べながら声をかけると、弱気になっていたソワムの眉尻がきりりとあがった。幼い強がりが垣間見え、ついついからかってしまいたくなる。
「高いところがこわいなら、さぁ、抱いてやろう」
袖の下に両手を入れて、ひょいと抱きあげる。ずっしり重いが、子狼を抱いていると思えば苦にはならない。
日を重ねて洗った短い髪はツヤツヤと波打ち、リアンの白い頬をくすぐる。
「だから! そのようなことは!」
少年はジタバタと手足を振りまわす。
寝ていた耳がぴょこんと跳ねて、頬に赤みが差してきた。リアンはそのまま床を蹴った。
身体はふわりと浮きあがり、水平の姿勢で待つ刀身へ乗る。靴の裏がかすかに触れているだけだ。
「こども扱いは……やめてくれ……」
「御剣に慣れてから言うことだ。ジュンシー、ゆっくりとついておいで」
ソワムを大袖で抱きくるんだリアンの身体がいっそう高く浮きあがる。
「はいぃ~」
自信なさげなジュンシーの声が遠ざかり、代わりにソワムが悲鳴をあげた。小さな小さなつむじ風のような声だ。
「あわわわ」
声は急速にしぼみ、両手両足がぎゅっとしがみついてくる。ふさふさした尻尾も、尻を支えるリアンの手に巻きついて離れない。
「道士、離すなよ。絶対に離すな。……離すふりも!」
「では、もっとしがみついていなさい」
強がりに笑いを誘われ、身体をいっそう強く抱いてやる。
ソワムの腕が首へ絡むと、やわらかな髪が耳元に触れた。ふたりのまわりにはそよそよと音もない風が吹くばかりだ。
けれど景色は流れ去った。奇岩の連なる狭谷を抜け、青々とした松の香を感じながら風に乗る。弟子が気がかりなリアンはできる限りに速度を落としたが、足下に広がる景色は卒倒ものだ。息をひそめてしがみつくソワムが気づかぬよう、首根っこに指を這わせて下を見せない。
「これで成人した若者とは……」
リアンのつぶやきを聞きつけても、威勢のいい切り返しはなかった。
「慣れないせいだ」
遅れて返された弱々しい声には、抱かれていることへの遠慮も滲む。申し訳なさそうでいて、どこか悔しげな声色に、こどもらしからぬ、肥大した自尊心も見え隠れする。
それがソワムの不思議なところだ。
やがてよろめきながら飛ぶジュンシーが追いついた。ソワムをちらりと見たが、意地の悪いことは口にせず、すでに疲労困憊の表情で微笑する。
「ソワムはだいじょうぶでしょうか。この高さは、大人でも失神します」
「平気だろう。腕の力も抜けていない」
答えながら、リアンは息切れを感じた。ソワムよりも体重のあるジュンシーを乗せても、ここまで疲れることはなかったが、今日に限って気が弱る。
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