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第1話 なかったことにはならないのよ
起きてしまったことはくよくよしても仕方がない。
過去を振り返ったって、今はひとつも変わらない。
だったら、ぜんぶ、いっそのこと。
「塩谷 くんにさ、これ、返そうと思って」
そう言って渡されたのは、俺の体操着だった。
綺麗に折りたたまれた体操着の右胸のところには、赤い糸で塩谷と刺繍されている。
しかし、自分の体操着を誰かに貸した覚えはないし、今、鞄の中にはいっている。
『塩谷』違いか?とも思ったけど、赤色は俺たちの学年のカラーで、同級生に俺以外の塩谷はいない。3年にも塩谷は居なかったはずだ。1年はどうかわからないけど。そういえば、1年の秋頃、体操着を紛失した。
……もしかして、これがそれ?
「あ、ありがとうございます…?」
お礼は述べたものの、俺は首を傾げた。
180センチはゆうに超えているだろう長身の彼は、俺の反応を見て眉を下げて笑った。
天然のものの茶髪だろうか、全体的に色素が薄そうなのに、顔立ちはしっかりしてて男前だ。
こんな男に体操着を貸したんなら、絶対に忘れないと思う。
俺は目の前の男をみつめた。
いや、でも、どう考えても、この人に俺の体操着は入らんだろ。
自慢じゃないが俺の身長は(四捨五入して)170㎝だ。
「ごめんね。変なことはして無いから、安心して。ずっと、返さなきゃって思ってたんだ」
長身の彼は申し訳なさそうに言った。
そりゃそうだ。変なことしてたら返しに来たりしないだろ。
どうして今になって、というか、どういうわけでずっと持ってたんだ。
俺は考えるのに必死になって応えられずにいた。
そんな俺を見て、また困ったように笑うのだ。
これが紛失から一ヶ月後とかであれば、すぐに返せよとも言えるんだけど、いかんせん、もう1年は経とうとしている。
本当に何で今さら……、新しい体操着も持ってるし。
「えっと、それ」
「俺、ヨーロッパに行ってもがんばるよ。だから塩谷くんも、これ着て頑張ってね」
それが本当に俺の物なのか質問する前に、俺のものらしい体操着を押し付けられ、なんだかよくわからないまま、彼は廊下を走って行った。
つーか、俺はこれを着て何を頑張らないと行けないのだろう。体育か?
そう考えた時、意味不明な言動を残した名前も知らない彼を追いかけたくなった。が、足が速そうだったのでやめた。
だって、ほら、彼の背中はもうあんなに小さく……ていうか、足めっちゃ速っ!
いったい何だったというんだ。
「……よし、無かった事にしよう」
「あれ、まといちゃんがこんな時間までいるの珍しいね」
次に廊下の角から現れたのは、同じクラスのやつだった。こいつの名前は知ってる。
早川ヒカル。
名前の通りキラキラしているやつだ。爽やかでイケメンでオシャレでノリが良い、まるでアイドルのような存在。クラスどころか、学園のなかでも、かなりの人気がある。
そんなやつが俺に話しかけるのだって珍しいのに、下の名前でちゃん付けなんて、いきなりどこまで飛び込んでくるんだ、こいつは。これが学年いちコミュニケーション力があると言われている陽キャなのか。
こういう奴には少し身構えてしまう。正直、苦手だ。
「人をまってたから」
端的にそう答えると、早川は目を輝かせた。
「えっ、もしかして……俺!?っへー!そっかー!まといちゃんも?へー、へー、あっ!それ着てやるの?顔に似合わずアブノーマルがお好みなのかー、あ、いや、褒めてるんだよ!俺そういうの全然平気ってかむしろ好きだし、で、どこいく?俺の部屋?まといちゃんとこ?でもあそこ南雲がいるから…まあ、聞かれるのがイイってんなら、まといちゃんについていくし」
パードゥン?
なんなんだ、早川ヒカルは何を言っているんだ…!
妙なテンションで、爛々ととんでもないことを口にしなかったか。
なにこいつ、こんなんだったか?爽やかでオシャレ!?誰だそんなこと言ったの!?俺か!
混乱して全部はききとれなかったが、ものすごく殴りたい衝動に駆られてしまった。俺はその衝動を抑えるためにも、早川とは目を合わせず、後ずさった。
「……ついて、こられても……。お前を待ってたわけじゃないし……」
「……俺じゃない?俺じゃないんだー。なんだー。ふーん。あ、じゃあさ、3Pでもいいよ!相手誰?もちろんまといちゃんがネゲホォッ」
イケメンの左頬に、平凡な俺なんかがストレートをぶち込んでしまった。廊下の壁に背中からぶち当たり崩れ落ちた早川はピクリともしない。
やってしまった。
平和主義をモットーにしているこの俺がクラスメートを殴ってしまった。しかも学園の人気者を!クラスのアイドルの頬を!
こんなところ誰かに見られたら確実に制裁が下される。幸い、ここには人気がなく、俺はその場から全力で疾走した。
大丈夫、他人には見られていない。
「無かったことにしよう」
朝はかならずやって来る。
目を閉じて、次に目を開けばあっと言う間に朝が来る。俺が唯一使える魔法だ。
昨日は現実逃避の眠気に襲われ、夜8時に床についた。そのせいで朝5時には起床して、することもないから朝7時には登校した。
こんなに朝早く登校するのは初めてだったりする。
まだ誰もいないかと思いきや、朝練のためジャージに包まれた学生たちが、寮から校舎までの至る所で汗を流していた。
青春だ。青春は、はたから眺めるのが一番いい。
体育館の前で一列になってスクワットをしているバレー部らしい集団を遠くから生暖かい目で眺め、昇降口を目指していると、その中の一人が、急に俺をめがけて走って来た。
本能的に逃げだしたくなったけど、もしかしたら俺のはるか後ろの方に走って行くかもしれないと思って、そのまま歩くことにした。しかし、どうやら、バレー部の彼は俺に用があるらしい。その硬く大きな手で肩を掴まれた。
短髪で猫目の彼は、息を切らし、汗を流しながら、俺を睨みあげた。
「ちょっとまって」
「え」
待っても何も、すごい力で肩を掴まれてるから、俺は待つしかないのだ。
「ちょっとまってて、絶対、そこから動くなよ」
なんで、と聞く前に、バレー部くんは走り出してしまった。
「おい!ちょっと」
俺が叫ぶと、彼は首だけ振り返って、
「動くなよ!」
と念を押してきた。
その姿はすぐに見えなくなり、唖然としてしまったが、再び昇降口に向かって歩き出した。いっぽ、にほ、さんぽ進んで立ち止まる。そして、いっぽ、にほ、さんぽ戻って立ち止まる。まだまだ授業は始まらないんだし、やることもないから待っててやることにした。
およそ10分後、彼は折り畳み傘を片手に戻ってきた。その折り畳み傘には見覚えがあった。
「それ」
「これ、貸して貰ったやつ。ようやく見つけた」
「別に返さなくてもよかったのに」
そんな、ボロボロの傘。
たしか、去年の夏休みだ。
じゃんけんに負けてオープンキャンパスのボランティアに駆り出された。その日の天気予報は晴れのち雨。玄関に置いてあったボロボロの小さい折り畳み傘を持って登校した。
しかし、雲行きが怪しくなるにつれ、風も強くなり横なぶりの雨になりそうだったので、雨が降り出す前に大きなビニール傘を買って、折り畳み傘はどこかに捨てようと思っていたんだ。
んで、オープンキャンパスに来ていた中学生に、あげた。
「『これつかって』て投げつけられたから、あの時は礼も言えなかった。これ、ありがとうございました」
「礼なんて良いんだよ!それより、あの時の中学生がキミかー!大きくなったね!」
俺が折り畳み傘を投げつけたのは、もっと小柄で可愛らしい男子だったと思っていたが、これが成長期というやつなのか。恐ろしい。
「先輩は、なんていうか、小さくなりましたね」
背が大きくなると態度まででかくなるんだろうか。いや、彼は多分、嫌味で言っているわけではなく、本当にそう感じているんだろう。そっちの方が悲しくなるけど。
「キミが大きくナリスギタンダヨハハハ」
「先輩、名前教えてくれませんか?」
「塩谷 まとい。2年A組」
「俺は、中島 俊 です。携帯番号も」
「あー、携帯もってないんだ。パソコンのメアドでいい?」
俺は、カバンのなかからノートと鉛筆を取り出し、パソコンのメアドを書くとその部分を千切って中島くんに渡した。
「ありがとうございます。じゃ、俺朝練もどります」
中島くんは、紙切れをジャージのポッケに入れると、ダッシュで戻っていった。
その後ろ姿を、俺はにやけ顏で見送る。
後輩ができた。
俺は部活に入っていないので、学園の中の上下関係はほぼないに等しい。別に先輩と仲良くなりたいと思ったことはないが、後輩から慕われる同級生を見て羨ましいとは思っていた。
そんな俺にも後輩ができた。これはなかなか嬉しいものだ。
「昨日の夕方、2年A組の早川ヒカルくんが何者かに殴られたようです」
教頭先生は神妙な面持ちで言った。
ざわつく生徒たち。その中で俺はひとり、大量の汗をかいていた。
全校生徒の朝会は、毎週月曜日に行われる。しかし今日は木曜日だ。緊急で、とのことで俺たちは体育館に集められた。何事かと思っていたら、犯人(俺)探しだった。後輩ができたなんて言ってニコニコしている場合ではなかった。
ちなみに早川は2Aの列、身長順に二列に並んでいるので俺より後ろにいる。犯人探しも何も、早川は知っているはずだ。もしかして、殴った衝撃で記憶まで吹き飛んでしまったのだろうか。俺は恐る恐る後ろを振り向いた。
しかし、早川ヒカルは俺と目があうと首を傾げた。マジで記憶が飛んでいるのだろうか。左ほほには大きなガーゼが貼られている。くそ、イケメンはガーゼ貼っててもイケメンだぜ。
「非常に残念なことです。目撃情報などありましたら、担任の先生に伝えてください。ご協力、よろしくお願いします」
そう言って、教頭先生が頭を下げた。
絶対に嫌だ。
朝会が終わりクラスに戻った後、教室の中は早川撲殺事件(死んでない)の話で持ちきりだった。人気者の早川を殴るなんて、しかも顔を!許せねー!ということで、何が何でも犯人を探し出そうと、クラスが一致団結した。やめてくれ。犯人の事はそっとしておいてくれ。
「本当に犯人の顔見てないの?」
そんな中、早川に気があるという噂の山本くんが、早川の腕に絡みつきながら聴いた。俺はビクビクしながら、聴き耳をたてる。いざとなれば逃げられるように、椅子から少し腰をうかせた。
「記憶が混濁してて……犯人が捕まんないと、みんなも不安だよねー」
「ううん、僕らのことなんかより、早川くんの事が心配なんだ…!本当にひどいよね。早川くんがモデルの仕事してるの知ってて顔を殴るなんて最低だよ」
「しばらくモデルの仕事はお休みかなー。ヤバイなー。俺、学費や生活費、自分で稼いでたからさ」
「え!?そうなの!?早川くん、自分で払ってたの?」
思わず聞いてしまった。
山本くんやその他のクラスメートが俺に目を向ける。やべぇ。しかし、その視線もすぐに早川の元へと戻った。
「そーだよ。うちビンボーなの」
「そうだったんだ…。本当に許せないよ。僕、絶対犯人を見つけ出すよ!そして、社会から抹殺する。何か手がかりになるような事は覚えてない?殴られる前、誰かと話したとか…」
「誰かと話してた気がするんだけどな〜…誰だったかな……。あ!思い出した」
「え!!誰!?そいつが犯人じゃ……」
「早川くん!!!!!俺も、すごく重要な事を思い出したんだけど!!!!でも勘違いかもしれないんだ!!!!!ここで言うと、みんなを混乱させちゃうから、ちょっと一緒に来てもらっても良いかな!!!!!!」
俺は、早川の山本が抱きしめていない方の腕を掴んだ。お願いだ!こんなところで俺と話したなどと言わないでくれ!犯人が俺だとバレると、俺は山本くんに殺される!山本くんだけじゃない、クラス中、学校中の生徒から、嬲られる!ていうか、警察に連れて行かれる!少年院送りだ。そして母親に殺される。
「そーだね、不確かな情報だとアレだもんね。いいよ、ちょっと教室出て話そう」
早川は、山本くんの頭をポンポンと撫でると、山本くんを腕から引き剥がした。
「早川…!!!じゃあ、いこう!!!」
俺は、早川の腕をガッシリと掴んで、早歩きで教室を出て行った。
早川を連れて来たのは、社会科準備室。たくさんの地図と古い書籍が収められている倉庫みたいな部屋だ。滅多に人が来る事はない。先月、鍵が壊れている事に気付き、勝手に暇潰しの部屋にしていた。
「本当にすみませんでした!!!こんなんで、許してもらえないかもしれない。だけど、本当に反省してるんだ。俺のこと、殴ってくれ!」
恥も外聞もない。俺は土下座した。
人を殴っておいて、無かったことにしようなど、許されることではなかったのだ。
それに、早川が自分で、その顔で、学費や生活費を稼いでいたなんて、知らなかった。
「顔あげてよ。ほんとーは全部覚えてたんだけどねぇ」
俺は早川を見上げた。早川は、俺の目の前に座り込むと、両手で俺の頬を挟み込んだ。
「『許しくれるなら、なんでもする!』ってのが聴きたかったんだけど、まといちゃんは男前だね!うん!いいね!やっぱ、こっちの方がもえるよね」
気づくと俺と早川は超至近距離で見つめ合っていた。ていうか、唇と唇が接触していた。
唇が触れるなんてモンじゃない。早川の舌が、俺の中に入り込んで、動き回る。
「んっ、ふぅ」
息をするのが難しくて、泣けてきた。
早川の身体を押し返そうとするのに、全然動かない。しかも、なんか、ちょっと、身体の中がぞわぞわして、苦しいだけじゃなくなってきた。
ーーヤバイっ。
「んんーーーっはあ、おま、何すんだ!オェ、くそっ」
「あ、もしかして初めて?涙目。かわいいねぇ!ね、俺、ほっぺまじ超痛いんだ。ほんとこれ、通報ものだよね!ね!わかるよね?俺、まといちゃんともっといやらしいことしたいなー!て言っても、まといちゃんは、そんなことするぐらいなら、自首しちゃうんでしょ?ということで、やっぱ、実力行使か」
そう言って早川は座り込んでいる俺を押し倒した。しかし、押し倒されたと言っても、両腕を押さえつけられているだけなので、足は動かせるし、首や頭も動かせる。
俺は両足で床をどすどす踏みつけた。下の教室に誰かいれば、何事かと思い駆けつけてくれるだろう。
「そーいうの、反則!もっと怯えたりしなよ!」
「うるせ!いますぐどかなきゃ叫ぶぜ!」
「わかったよ。どくよ」
俺の腕を掴む力が緩んだので、俺は起き上がろうとした。ら。
「はは!油断した?」
今度はうつ伏せに転がされて、上からのしかかられた。足も手も完全に押さえ込まれて、動かすことができない。完全に油断した。
背中に早川の体温を感じる。なんておぞましい。
「ひゃ、おまえ、耳舐めんな」
「感じない?」
「感じねーよ!」
「じゃあここは?」
「ん、感じ、ねーって」
早川は俺の首筋を舐めあげた。
そんなことされるの、人生で絶対ないと思ってた。気持ち悪いはずなのに、さっきみたいに、ぞわぞわして、変な気持ちになる。
「感じてるよね!」
嬉しそうな早川の声がして、また首筋を舐められた。絶対感じてない。感じてなるものか。
「や、やめろよ。まじで」
「んー、ヒカルってよんでくれたら、やめてあげるよ」
「ヒカル」
「あは!従順やば!」
「おい、やめる、ん、だろ!」
「やめるやめる!『ヒカル、俺、感じちゃうよお』って言ってくれたら!」
「くそが!!」
「いいのかな〜!まといちゃんの首筋、えっちなキスマークついちゃうよ〜?」
「くそ!ヒカル、おおれ、かんじちゃうよ」
「もいっかい」
「ひ、ヒカル!オレ、かんじちゃうよっ!」
「おかわり!」
「ヒカル、オレ、ほんとに感じちゃう」
やけくそだ。早くここから逃げなければならない。俺は早川の要望に応えた。
すると、背中の重みがなくなり、身体が自由になった。その場から匍匐前進で移動しながら膝をつき起き上がった。
振り向くと、早川ヒカルは、自分のベルトを外そうとしていた。
「おい!!!何してんだ変態!!!」
「へ?いや、あ、つい。まといちゃんがさ、えっろいからさ〜いけないんだよ」
早川は両手をわさわさと動かしながら近づいてきた。
気持ち悪っ!!俺は後ろにさがろうとしたが、さがれなかった。
しまった!
とにかく早川の下から逃げたくて、部屋の奥に来てしまった。俺の後ろには窓しかない。
そして早川の後ろに扉がある。この部屋から出るには、早川を超えなければ出られない。
そうこうしているうちに、近づいてきた早川に両手首を掴まれ、力づくでバンザイさせられた。
くそ、こんな変態男に良いようにされてたまるか……!!
「ね、ねえ、ヒカル。俺、初めては、プリンスホテルの海が見えるスイートルームが良いな……!」
「初めては、海が見えるスイートルーム……」
「うん!ま、窓全開で!!」
変態は俺か!!もうやだ。いますぐ死にたい。でも今死んだら初めては海が見えるスイートルーム、窓全開でが最期の言葉になる。
「いいねえ!!!!まといちゃんは顔に似合わず、いつも発想がアブノーマルだね!あ、褒めてるんだよ!で!!いつにする?今週の金曜日?それとも土曜日?日曜日?あ、3連泊にする?金、土、日で!ほら、初めからすんなり入るわけじゃないんだからさ、目標は日曜日に完全結合ってことで、金、土は朝から晩までいろいろつかって慣らしてあグホォッ」
顔はダメだと学んだ。
手は掴まれていたが、足は自由だったんだよ。
倒れて股間を抑える早川を尻目に俺は社会科準備室を出て行った。
この社会科準備室。実は向かい側の校舎、一つ上の階のある教室からは丸見えなのだ。
それを後で知ることになる。
どうやら、無かったことにはできないらしい。
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