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リナリアを胸に抱いて5

春の終わり、薔薇が最も鮮やかで美しい季節だった。雷はその日も学校をさぼり、初夏に向かう風の爽やかな庭を何となく歩いていた。  明治時代以後、震災や戦火を逃れた建物は、本館以外にもいくつか点在する。何となく敷地の端に向かうのは、雷のお気に入りの場所があるからだった。  本館を過ぎ、木立に囲まれてひっそりと佇む館。  先々代の当主が、妾であったオメガの女性のために作った別館、そこには小さな西洋風の庭がある。本館は人が住みやすいように手を加えられ続けてきたが、そこだけはいかにも時代の浪漫を感じる建物で、今は都の重要文化財の一つに数えられている。通常中には入れない。だが庭は住人である雷には出入り自由だ。  当時の当主はアルファの夫人との間に跡取りを設けた後は、愛する番を囲ってその館に入り浸っていたらしい。 「あははっ」  ふいに軽やかな笑い声が聞こえてきた。雷は思わず木立の隣で足を止めた。今日は別館の特別公開日ではないし、普段は管理担当の者しか足を踏み入れぬ場所だ。  白い薔薇が零れて咲くアーチ。その下に設えられたベンチに兄が誰かと腰掛けていた。  向こうはまだ木立の中にいる雷の姿に気づけていない。 (珍しいな……)  兄は常にエネルギッシュで、王者の如く立ちまわっていたが、それは内面の繊細さを隠すためのポーズだと雷は鋭く見抜いていた。だから彼は人の視線にひどく敏感でとても神経質だ。そんな兄だが、少しも周りを気にしていない。さらに驚くべきは彼の表情だった。  兄は父親似の端整な顔立ちをしていて、父同様いつも眉間に皺を寄せているような顰め面をしていることが多かった。  だが今、制服姿の少年の肩を抱き寄せ、見たこともないような蕩ける笑顔でその相手を見つめていた。 (兄さんの恋人。どんな顔をしているんだろう)  この角度では顔立ちを伺い知れない。ただ大柄な兄と比べたらほっそりと頼りなげな体つきだと分かる。兄に薄い肩を抱かれ、寄り添いながら時折アーチに手を伸ばし、ホロホロと零れる白薔薇の花びらを触り、悪戯しているようだった。  制服の白シャツから覗く腕はほっそりとたおやかに白い。色素の薄い髪と相まって身体から光が零れているような透明感があった。兄は悪戯なその手を掴んで薔薇の花びらごと指を絡めて握っている。  兄が彼に顔を寄せていく。とくんっと雷の胸が強く撃たれた。 (キスしてる……)  長い長い、執拗な口づけ。兄の彼への執愛が痛いほど伝わる。少年が苦しげにふるっと小さく身震いして、掌をついて兄の胸を押し返そうとする。だが兄はお構い無しに少年の背に腕を回し、より強く彼を胸に押し付けるように抱き寄せた。 「朔、さく……」  抱かれた少年が涼やかな声を上げる。感極まったように恋人を呼ぶ声のたとえようのない甘さに、雷は目が眩む思いがした。 (なんて声なんだ)  かつて自分の周りで、このように優美な声で名前を呼んでくれる人はいただろうか。  ちりちりと胸が痛む。それがどうしてなのか、雷には分からない。兄は満たされた笑顔を浮かべて、再び彼に唇を寄せて行った。 「透、愛してる」 「っ!」  臆面なく愛を囁く兄。幸せそうな二人の姿に、雷の胸に言い知れぬざわざわとした感情が過っていく。  薔薇の花びらが二人を祝福するように、はらはらと舞い落ちる。  けして許されぬはずの二人なのに、その光景はあまりにも美しかった。  雷の目頭が熱くなる。これほど心を揺さぶられる光景を見たのは生まれて初めてだった。胸に手をやる。そこに炎の矢を受けたように、雷は苦し気に眉を寄せ木立の後ろに背をやり隠れた。そして一呼吸おいてからその場から文字通り逃げ出したのだ。  息を弾ませ、走る。 (なんだ、あれは……。昔の当主みたいに、本妻とは別に恋人を囲いたいって、そういうことなのか? 時代錯誤だ。相手は納得しているのか……。あんな、あんな風に……、名前を……)   色々なことを次々と思い浮かべてその光景を忘れようとした。しかし忘れようとしたけれど、そのことばかり考えてしまう。  雷の人生で初めて、心に浮かんでしまったある強い願いを、どうしても消し去ることが出来なくなってしまった。 (僕も、あんな風に、想いの丈をこめて名前を呼びたい。呼ばれたい。あんな風に、愛されたい。愛してみたい)

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