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9.春を祈る(前編)
口からこぼれる息が白い。
町境で馬車を降りてからの徒歩で、すっかりと身体は冷えてしまっていた。急に降り始めた雨のせいである。
溜息を呑み込み、アシュレイは黙々と足を速めた。森の入口まで送らせることを拒んだのは自分自身なので、文句を言う宛てがなかったのだ。
ガス灯の頼りない光の下を進み、目的の店の前で立ち止まる。クローズの札が出ていたものの、気にすることなくアシュレイは木製の扉を押した。
「よう、遅かったな。大物だったのか?」
夜半にいきなり現れた自分に驚きもせず、イーサンが目を細める。柔らかい表情に、アシュレイも目元をほころばせた。
「それほどでもなかったんだが」
応じながら、ローブについた水滴を入口で払う。
「討伐地が北の国境だったおかげで、移動に無駄に時間を食った」
ばさりとフードを脱いだところで、読んでいた本を閉じて、イーサンが立ち上がった。その足でタオルを取りに向かい、こちらへと近づいてくる。
「そのローブごと脱いで、乾かしていけよ。風邪引くぞ」
「いや……」
「またテオに泣きながら駆けこまれたくはないからな」
「いくつのときの話だ、それは」
「さぁ、七つだったか、八つだったか。どちらにせよ、あの森を夜にひとりで駆け抜ける程度には、恐ろしかったんだろうさ」
くっくと思い出したふうに笑われ、アシュレイは口を閉ざした。本当に、よく口の回る男だ。
雨を吸って重さを増したローブを脱ぎ、暖炉付近の椅子の背にかける。受け取ったタオルで髪を拭い始めたことを確認すると、イーサンは奥へ引き返してしまった。
しかたなくいつものふたりがけに腰を下ろしたアシュレイだったが、イーサンの置いた本に目が留まった。
――薬草学、か。
「あぁ、それな。エレノアの本なんだよ」
「イーサン」
「ちゃんと拭いたか? ――お、大丈夫そうだな」
くしゃりとアシュレイの金髪を掻き混ぜたイーサンが、厨房から持ってきたらしいカップを机に置く。立ち上がる湯気と慣れた薬草の匂いに、アシュレイはほっと息を吐いた。
「薬草茶か」
「エレノアの得意のブレンドだ。おまえほどではないにしても、よく効くぞ。なにせ、わざわざベイリー先生が頼みに来るくらいだ」
「そうか」
懐かしい恩師の名前に頷き、カップを手元に引き寄せる。指先を温めていると、正面に座ったイーサンがぽつりとした調子で呟いた。
「あいつの薬草学のセンスは、昔からピカイチだったからな。まぁ、魔力のない人間 の嫁におさまっちまったわけだが」
声を出さずに笑い、薬草茶に口をつける。舌に広がる苦みが、想定どおりの調合であることを伝え寄こしていた。
「宮仕えもできた器だったろうに」
どこにでもいる町娘だったエレノアが宮廷の研究職に就いていれば、大出世であったであろう。だが。
「それでも、あいつはおまえのそばにいたかったんだろう」
「だといいが」
苦笑いで応じたイーサンが、ふと黙り込む。それ以上に返す言葉もなく同じように黙ると沈黙が流れた。だが、長い時間ではなかった。
「それで? どうだったんだ、魔獣の討伐は。それほどでもないと言っていたが。大魔法使い を引っ張り出すレベルの大討伐だったんだろう」
「まぁ」
もう一口茶で喉を潤して、淡々と続ける。
「宮廷魔法使い だけでもどうとでもなったと思うが。今は、この国を代表する大魔法使いが不在だからな。その代わりと言ってはなんだが、たまには」
大魔法使いとはこういうものである、と。力を誇示しておくことも、大魔法使いとしての役割のひとつなのだ。大魔法使いの存在は、この国の抑止力。
心底面倒であるものの、大魔法使いの名を冠して十年以上。アシュレイもさすがに理解はしていた。
「お師匠はまだしばらく戻られないのか」
「さぁ。今度はまた違うところに飛ばされるだなんだと言っていたが」
王命ではあるが、ルカはルカで僻地に赴くことを楽しんでいる節がある。任務のあいだに行う希少な薬草探しに精を出しているのだ。その割りを食らっているアシュレイとしては、甚だ迷惑な話である。
「なるほど、なるほど。それで、うちの息子が森で二週間ぽつんとお留守番だったわけだ」
「なにかあれば、俺にはわかる」
そうでなければ、置き去りなどできるはずもない。事実として伝えたアシュレイに、少しの間を挟んでイーサンは破顔した。
「おまえは本当に丸くなったなぁ」
「……」
「まぁ、あいつも十四だ。次の夏には我らが母校に入学するわけで、留守番くらいできるようにならないことには、どうにもならんか」
「本人は、若干、行くのを渋っているふうだが」
バツの悪さを誤魔化すように森での様子を明かせば、「甘やかしすぎたな」とまたイーサンが笑う。
「この町を離れたくないだけだろう」
王立魔法学院に入学すると、三年間学院の敷地内で過ごすことになる。よほどのことがない限り、外出が許可されることはない。
今のように、父と母と月に一度会うことのできる環境でなくなるのだ。多少の寂しさを覚えても、致し方ないことだろう。淡々と応じて、カップを持ち上げる。
「しかし、それにしても不思議なものだな。魔力は遺伝ではないというが、俺の魔力はとうに枯れているというのに、まさか息子があれほどの魔力を持って生まれてくるとは」
しみじみとした口調に、口元を笑ませることでアシュレイは答えとした。
たしかに、テオバルドは逸材だ。持って生まれた才もだが、なによりも、まっすぐに学ぼうとする素直な心根が。自分を凌駕する魔法使いになるかもしれない。
「……なんだ?」
じっとした視線に、小さく首を傾げる。問いかけると、イーサンははっとしたふうに苦笑を取り繕った。
「いや、おまえの顔を真正面からじっくり見るのも、随分ひさしぶりだと思ってな」
少し懐かしくなった、と続いた台詞に、しかたなく苦笑を返す。懐かしい顔に違いないと呆れたからだ。なにせ、もう十年以上変わっていない顔である。
自分の見た目の成長はある時に止まり、そういうふうになったのだ。だから、こういった状況でない限り、アシュレイがフードを外すことはない。
「昔は俺の特権だったというのに」
「それこそ何年前の話だ、イーサン」
「さぁな。十年、いや、もう二十年近く前になるのか」
王立魔法学院に在籍した当時を思い出したのか、眼鏡の奥の瞳が柔らかな色を帯びる。
イーサンの言うとおり、もう二十年近く前の話だ。アシュレイは、あの学び舎でイーサンと出逢い、かけがえのない時間を過ごした。あのころのイーサンは、自分には及ばずとも十分な魔力があった。
「なぁ、アシュ」
伸びてきた大きな手が、跳ねた金髪をそっと撫でつける。アシュレイが嫌がらないと承知しているのだ。
「おまえの変わらない童顔も、緑の瞳も。どれも変わらず、俺は好きだぞ」
呪われた自分のすべてを無条件に肯定する台詞に、ふっと吐息をもらす。
「テオバルドとそっくりだな」
「おい、おい。そこはテオバルドが俺に似ていると言うところだろう」
冗談めかしたふうに笑ったイーサンが、アシュレイから手を離した。その手を顎に当て、ひとりごちるように呟く。
「でも、そうか。おまえの中では、もうテオバルドのほうが大きいんだな」
予想していなかった言葉に驚いたものの、すぐにアシュレイは得心した。きっと、そうだ。そうなってしまっている。
「……そうかもしれないな」
認めたアシュレイに、はは、とイーサンが笑う。
「そうもあっさり認められると、少し妬けるぞ」
「馬鹿を言うな」
アシュレイも笑った。
「おまえには、エレノアがいるだろう」
魔法学院にいたころから、エレノアはイーサンに夢中だった。
――アシュレイ。お願い、アシュレイ。この人を死なせないで!
あぁ、絶対に死なせるものか。おまえに頼まれなくとも、俺が俺の意思で、俺の命をかけてでも絶対に死なせない。
禁術に手を出すことに躊躇いはなかった。自分ならできるという自信もあった。
なにを対価に持っていかれるのかということは承知していなかったが、なにを対価に取られてもいいと思っていた。イーサンの命と同等のものなどないと思っていたからだ。
だから、今もアシュレイはなにひとつ後悔はしていない。フードをずっと被っていることくらい、なんのわけもないことだ。
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