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56.幸せはきみのかたちをしている(後編)
「すみません、からかいがすぎました。その、……あなたが、そんなふうに考えてくれているとは思っていなかったので」
「おまえは人をなんだと思っているんだ」
聖人でもあるまいし、性欲がないはずがないだろう。たしかに、そういったことに興味はないと言った覚えはあるが、それは、思い合った相手がいなかったからだ。
引っ込みがつかず、呆れた言い方を選んだアシュレイに、テオバルドが宥めるような口づけを落とす。
「大好きな私の師匠です」
唇に触れる柔らかな熱と甘える言葉ひとつで、つかなかったはずの引っ込みがついてしまうのだから、つくづく自分はテオバルドに甘くできている。
しかたがないと表情をゆるめれば、愛撫がゆるりと再開された。慈しむようなキスを至るところに降らせながら、なにも知らなかった身体をテオバルドの指が暴いていく。
ただ触られているだけにもかかわらず、こぼれそうになった声に戸惑う。けれど、我慢しないでください、とテオバルドが言うので、無駄に抗うことをやめた。テオバルドの願うことは、すべて叶えてやりたかったのだ。
その代わりのように、改めてテオバルドのシャツに手をかける。布一枚の隔たりさえ惜しい気分だった。幼いころとは違う、しなやかな筋肉のついた身体。眺めすぎたのか、テオバルドがくすぐったそうな笑みを刻んだ。
そのまま軽くアシュレイの口元に口づけ、小瓶の蓋を抜く。追って動いたアシュレイの視線は、テオバルドの手に垂らされる香油から離せなくなってしまった。ふっとテオバルドがほほえむ。
「使います」
いいですか、と囁く声の熱さに、アシュレイはどうにか首を縦に振った。
そうするつもりでいたことなのに、テオバルドと目が合うたびに心臓がうるさくてしかたがない。いったい、どうしてしまったというのだろう。
緊張していると捉えたのか、瞳に苦笑を浮かべたテオバルドが目じりに唇を寄せ、次いで唇を重ねた。開いた口の中に舌が入り込む。
「っ、ん……」
必死に応えているうちに、夜目の利くはずの視界が次第にぼやけ始めた。思考もじわりと溶け出して、なんだかぼんやりとしている。それでも、止めようという気は起きなかった。
「テオバルド」
ふわりとした心地で名を呼べば、整った顔が甘ったるくゆるむ。満たされた気分でアシュレイは口づけを繰り返した。その合間に下穿きを脱がされ、ぬかるんだ指がうしろに触れる。違和感はあったものの、黙ってやりすごすことをアシュレイは選んだ。
すべてはじめてだったが、テオバルドが気を遣いながら進めていることは、あたりまえにわかる。その気持ちに応えたかったのだ。
「あ――っ」
堪え損ねた声に、内側を探っていた指の動きが止まる。確認するようにテオバルドに顔色を窺われ、アシュレイは小さく息を吐いた。
痛みがないとは言わないが、していることを考えるとあたりまえと思う範囲だ。そうであるにもかかわらず、苦痛の予兆を見つけるたびに、テオバルドは律義に立ち止まろうとする。
かわいいが、堂々巡りになるだけだ。呼吸を整え、アシュレイは汗ばんだ頬に手を伸ばした。
「問題ない」
「……ですが」
気遣う心と欲求で揺れる瞳が愛おしく、自然と口元に笑みが浮かぶ。まったく、本当に、なんでこうもかわいいのだろう。
「おまえであれば、それで」
すべてを与えてもいいと、ずっと前から決めていた。そう告げると、ふっとテオバルドが黙り込んだ。ありすぎるくらいに見覚えのある、なにかを堪えている表情。
「テオバルド?」
「…………から、そういうことばっかり」
「なんだ?」
「なんでもないです」
聞き取ることが叶わず瞳を瞬かせたアシュレイに、テオバルドが息を吐いた。声音をやわらげ、そっと言い直す。
「なんでもありません」
「だが」
「師匠」
それ以上の反論を塞ぐ口づけだったが、甘んじてアシュレイは受け入れた。
この状態で揉めたいわけもなく、テオバルドも同じだろうと思ったからだ。思惑ごと火照った吐息が混ざり合い、これ以上ないほど近くで、星を持つ瞳がほほえむ。
「続けても?」
ほとんど無意識で頷くと、再び指が内側を暴き始めた。増えた指が抜き差しを繰り返し、広げていこうとする。ここから先に進もうとする準備だと、まざまざとわかる動き。どうしようもなく腹が熱い。
「ふっ、……っ、ん……あ……っ」
違和感ばかりだった感覚に違うものが混ざり始めたことは、あふれるで声音で明白だった。慣れない感覚に、思わず肩に手を伸ばす。けれど、テオバルドはもうやめなかった。
「愛しています」
まっすぐにこちらを見下ろし、逃げることを許さない強さで、テオバルドが言う。
「だから、あなたがほしい」
とんでもない免罪符だとわかるのに、拒絶する理由を見つけることができなかった。制止を求めそうになった指の行先を変え、広くなった背中に手のひらを這わす。
「テオバルド」
乱れそうになる吐息を抑え、大切な名前を呼ぶ。自分の世界そのものと思った、なににも代えがたい、たったひとつ。
「テオ」
愛していると声帯すべてで告げているような声になった。だが、きっとそうなのだ。
笑みをかたどった唇が一度そっと合わさり、膝を押し広げていく。ゆっくりと、けれど、確実に。硬く熱いものが入り込んでくる圧迫感に、目の前が白くなる。
「――っ、は……、っう…」
「師匠、……師匠」
浅くなる呼吸を落ち着かせようとする呼びかけに、アシュレイは必死に息を継いだ。身体から力を抜こうと思っているのに、うまくできない。
喘ぐような吐息を吐き、そっと目を開く。顔を見たかったのだ。にじんだ視界の真ん中に愛おしい瞳が映り、テオバルドの顎を伝った汗が落ちる。
「あ……」
目が合ったと認識した瞬間。きゅっと眉根を寄せていたテオバルドが、それでもどうにかほほえもうとするので、なんだかもうたまらなくなってしまった。背中に回した腕に力が籠もる。すべてを自分のものにしたいという、テオバルド以外に抱くことのない衝動。
本能のまま唇を重ね、アシュレイは舌を絡めた。応えるようにテオバルドの舌が動き、口づけがいっそう深くなる。
「んっ…、ふ……」
唾液がこぼれ、熱い吐息があふれた。角度を変え、貪るような口づけを繰り返しながら、テオバルドのものが少しずつ奥に入ってくる。圧迫感や痛みを上回る圧倒的な充足感に、アシュレイはふっと息を吐いた。
受け入れた腹が熱く、重い。ぼんやりとした思考で見上げると、テオバルドが「師匠」と自分を呼んだ。
「わかりますか」
あまくとろけた声に問われ、緑の瞳を瞬かせる。意図がわからなかったのだ。ほほえんだテオバルドが、かたちをたどるように腹をなぞる。
「あなたのなかに、入っています」
「……そうか」
うれしそうで、それでいて、どこかほっとした雰囲気に、アシュレイは吐息で笑った。同じようなことを考えていたらしいとわかったからだ。背中から手を離し、そっと腹に触れる。
その指先を、テオバルドが絡め取った。シーツに押しつけ、ひとつキスを落とすと、そのまま腰を動かし始める。
「なんだか、すごく、うれしいです」
自分はいったい、どんな顔をしていたのだろうか。じれったいほどの丁寧さでひらきつつ、テオバルドがそんなことを言う。
揺さぶられるたびに声がこぼれ、知らなかった感覚で内側が塗りたくられていく。快楽に染まりながらも、アシュレイは首を振った。
愛おしい、うれしい。熱にとろんだ頭を占めるのは、そんな単語ばかりだ。
「っ、……おまえと、こうしていられることが、うれしい」
吐息の合間に告げれば、テオバルドの瞳が愛おしそうにゆるむ。同時に、結んでいた指先に籠もる力が強くなった。
「私も、同じです」
「……ん、ぁ……っあ、あ」
「あなたに、ずっと触れたかった」
じんじんと熱の疼くところを擦られ、ひくっと喉が鳴る。よじろうとした身体の奥を暴きながら、だから、とテオバルドは続けた。
「私以外の前で、そんな顔をしないでください」
「ん、――っ、……」
「そんなことも、言わないでください」
なにを言っているのかよくわからないまま、それでも、はっきりと頷く。テオバルドの声が真剣だったからだ。それに応じない理由は、アシュレイにはない。ふっと幸福そうにほほえんだテオバルドの指先が、アシュレイの頬をなぞる。
「あなたが知るのは、生涯俺だけでいい」
なんて、傲慢でかわいいことを言うようになったのだろう。瞬時、呆れた。
けれど、それ以上に、聞き分けが良く、我儘のひとつも言わなかった子どもが、自分に乞うているのだと思うと、かわいくてしかたがなかった。
星の瞳を見上げ、アシュレイは頷いた。そうして、もうひとつ。躊躇いを呑み込み、言葉にする。
「おまえも、……そう、しろ」
言葉になった途端、なぜか涙がにじみそうになった。
空いた両手を首のうしろに回し、引き寄せる。不用意に触れば折れてしまいそうだった幼い子どものものではない、正しく年を重ねた大人の男のもの。
そのすべてが愛おしかった。自分だけのものになるはずがないと思い込んでいた、この世界で一番大切なもの。
十五年前の春、イーサンに連れられてやってきた、星を持つ小さな子ども。
森に引き籠もるばかりだった自分が変わったのは、すべてテオバルドと出逢ったからだ。テオバルドでなければ、駄目だった。
今なら、自信を持って言うことができる。
テオバルドが生きてここにいることが、幸福そのものなのだ、と。
「もちろんです、師匠」
ほんのわずか、驚いたふうな間を挟み、テオバルドは頷いた。幼いころから幾度も聞いた素直な返事に、また胸が熱くなる。再び始まった律動に、ん、とやたらと甘い声がもれた。
「師匠」
同じくらいの甘さをはらんだ声には、疑いようのない愛おしさが詰まっている。満ち足りた心地で、アシュレイは抱き寄せた首筋に額をすり寄せた。
こぼれる声の合間に、その匂いをいっぱいに吸い込んだ、次の瞬間。奥まで一気に突かれ、衝撃で喉が引きつった。
「―――っ! ぁ、……」
ちかちかと目の裏が白く光り、ぶわりと汗がにじんだ。それでもどうにか必死に息をしようとしているのに、大きな手が腰を掴んで、そのまま打ち付けてくる。
「――あ、っあ、……、テオバル、ド、テオ……ッ」
すさまじい快感が走って、アシュレイはたまらず名前を叫んだ。
衝撃で萎えかけていたものも、また腹のあいだで勃ち上がっている。疑いようもなく、感じているのだ。熱の疼くところを先端で潰されると、背筋がぞくりと痺れる。
どうしていいのかもわからず、ただただ浅い呼吸を繰り返す。縋ることさえ叶わなくなった指がテオバルドから離れ、シーツに腕が落ちた。
「っ……」
熱い息をこぼし、必死にテオバルドを見上げる。認識した瞳に、ずくりと腹が重くなった気がした。貪ろうとする、男の顔。もう一度強く貫かれ、思わずぎゅっと目を閉じる。
「師匠……っ」
自分を呼ぶ声の温度に、耳まで快感に浸ったみたいだった。
深いところを突かれ、引き抜かれるたびに、あられもない声があふれていく。なぜ、こんなにも気持ちが良いと感じるのか。自分でもまったくわからなかった。けれど、ただ、気持ちが良い。
――あぁ、違う。テオバルドだからか。
テオバルドだからだ。幾度目になるのかわからない「顔を見たい」という欲求に、アシュレイは瞬いた。ぼやけた視界に、なによりも愛おしい顔が映る。
「……師匠」
望んでいたとおりの自分を一心に見つめる星の瞳に、無意識に笑みがこぼれた。
「見ていてください、そのまま」
「ん、っ」
「あなたの緑の瞳が好きなんです、昔から、ずっと」
そんなことを言うのは、おまえだけでいい。
声にならない声で呟き、アシュレイはそっと手を伸ばした。
愛おしい相手と迎える絶頂は、たまらなく幸福なものだった。もう一生、手放すことはできない、と。身体の底から思い知ってしまうほどに。
「あいかわらず、ここでまともなものをつくっていらっしゃいませんね」
日が昇り、寝所を出るやいなや――正確に言うと、昨夜は気づかなかったらしい居間の惨状を目の当たりにしてからであるのだが――、テオバルドは小言を言い始めた。
没頭していた案件があったので、部屋が荒れていた自覚はある。だが、しかし。
気に入りのソファーに腰かけたまま、アシュレイはうんざりと溜息を吐いた。その反応も素知らぬ顔で、テオバルドはストーブのあたりの片づけにかかっている。よほど気になったらしい。
ひさしぶりのまとまった休暇というのであれば、ゆっくりと過ごせばいいだろうに、そういう思考にならないのだろうか。
「おまえはこの家で小言しか言えないのか」
「小言ばかり言いたくなる生活をあなたが送っているから、こうなっているんです」
小さい身体でぷりぷりと大人ぶった説教をするテオバルドはかわいかったが、もう一端の大人なのだから、それらしく時と場合を考慮してもいいだろう。もう一度溜息を吐いて、てきぱきと働く背中を眺める。
……まぁ、今もかわいくないわけではないが。
そもそもとして、テオバルドをかわいくないと思ったことは、ほとんど一度もアシュレイはないのだ。しかたがないと声をかける。
「腹になにか入れたいなら、実家の店に行けばいいだろう。連れて行ってやってもいいが」
「嫌です。今日は行きたくありません」
「なにが嫌なんだ」
わからないことを言うやつだな、と呟くと、テオバルドがわざわざ手を止めて振り返った。気のせいか、恨みがましい顔をしている。
「あなたに言われたくはありません。それに、いつも引き籠もっていらっしゃるのですから、今日一日引き籠もったところで、なにも問題はないでしょう」
「……まぁ、問題はないが」
テオバルドが慇懃なまでの敬語を使うときは、腹に一物を抱えているときだ。今度はなにを考えているのかと呆れる気持ちもなくはないが、放っておけば、素直に吐くと知っている。
テオバルドが言葉にしたいタイミングで聞いてやればいいことだ。割り切って、それ以上を呑み込めば、不承不承のていでテオバルドもアシュレイに背を向けた。
再び響き始めた片づけの音に、切りの良いところまでやりたいのだろうと踏んで、傍らに積んでいた書物へ手を伸ばす。
ぱらりと続きのページを繰る。テオバルドが開けた窓から入る風は、嗅ぎ慣れた薬草の匂いをまとっていた。あと五日もすれば、エレノアがやってくることだろう。
――そういえば、調合を試させろだのなんだのと言っていたな。
どういった心境の変化なのかは知らないが、最近のエレノアはそんなことを言うようになった。家の中まで入り込み、あれやこれやと話をして、適当に町に帰っていく。
イーサンに聞いたところによると、今までとは違う分野の研究にも精を出しているらしい。おまけに、イーサンにも相談をするようになったのだとか。
もう一度勉強をするのは大変だと苦笑しながらも、イーサンはどこかうれしそうだった。
――あいつも、昔は薬草学の研究を好んでいたからな。
その研究を通じて、イーサンはエレノアと親しくなったのだ。力が潰えても、知識がなくなることはない。浮かんだ記憶の断片はそのままに、また一枚、ページを捲る。胸にあるのは、ただ純粋な懐かしさだけだ。
一度なくなったものが、あることにはなることはない。一部消失した自分の魔力が戻ることもなければ、この姿が変わることもない。だが、残されたもので折り合いをつけていくことはできる。生きていくということは、そういうことなのだろう。
本から顔を上げると、大きくなったテオバルドの背中が視界に入った。しばらく動作を追って、そっと緑の瞳を細める。
自分のためにテオバルドがちょこまかと動くところを見ることも、アシュレイは昔から好きなのだ。
近くの椅子を引く気配で、書物から目を離す。すぐそばに座ったテオバルドの横顔は、まだどこか物言いたげで、アシュレイはしかたなく苦笑を堪えた。
「もういいのか」
「昔から、あなたは放っておけば、ろくな食事もしないし、眠りもしない」
答えになっていないことを返され、目を瞬かせる。その反応にかまうことなく、テオバルドは淡々と言い募った。
「だから、あなたは私がいないと駄目なんです」
「……おまえがいないあいだも、それなりの生活は維持できていたが」
「知っています」
話についていきかねて首をひねったアシュレイに、むすりとした返事をする。大人になり常備するようになった分別のあるそれではない、子どものような頑なない態度。
これも一種の幼児返りというやつなのだろうか。本人が知れば大いに拗ねかねない考察を深めていると、テオバルドが顔つきを改めた。丸テーブルには、ぎゅっと握られた拳がある。
緊張しているときにテオバルドがするしぐさだと、アシュレイは知っている。
「それでも、私がいないと駄目だと言ってください。あなたの隣に帰る理由がほしい」
幼いころから変わらない、まっすぐな意思を灯す星の瞳。その瞳を見つめ、アシュレイは明確な答えを返した。
「愛している」
あれほど言ったつもりだったのに、なにをそこまで自信のないことを言うのだろうか。それとも、寝所の台詞は戯言と思う性質なのか。
どちらであるのかは定かでなかったものの、どちらであったとしても、しっかりと思い知らせてやらねばならない。それが、愛する者の責任というものだ。
「それで十分な理由と、俺は思うが」
拳から力が抜けたことが、テオバルドの表情でわかった。ほっとゆるんだ、柔らかな瞳。変化を見とめ、アシュレイは穏やかに言葉を継いだ。
「好きなときに戻ってくればいい。おまえに誓って、いつでもここで待っている」
フレグラントル王国、王都近くの緑美しい町グリットン。その外れの森には、偉大な大魔法使いが住んでいる。
人嫌いの変人であると噂をされていたことも、今は昔。小さな弟子を取り、町に姿を見せるようになった大魔法使いは、弟子が大きくなったあとも、変わらず姿を見せ続けていた。
気の置けない友人と語らい、ごくまれに町の住民の相談にも乗りながら。森の家を訪れる愛する者を、愛を持って迎えることを楽しみに。
大魔法使いとしての責務も、たまには王都で果たしつつ、今日も幸せに暮らしている。
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