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55.幸せはきみのかたちをしている(中編)
夜が深まり、広場のにぎわいが高まり始めると、意中の相手に花を渡そうとする光景が目につくようになった。夜目の利く視界が捉えた姿のひとつに、そっと目元を笑ませる。
背に花を隠し持った、そわそわとした幼い横顔。それがどうにも懐かしかったのだ。
「おまえも昔、ギプソフィラをくれたことがあったな」
「……学名で言うところが、いかにもあなたらしいと思いましたよ」
子どもの時分の話は気恥ずかしいのか、応じる声音は嫌そうだった。だが、アシュレイの耳にはそれすらもかわいく響く。こちらの顔に浮かんだ機嫌の良い笑みに、諦めたふうにテオバルドも相好を崩した。
柔らかな沈黙が心地良く、そっと身体から力を抜く。ひとり静かに見守る時間で十二分に満足していたというのに、さらなる幸福を知ってしまった。
これでは、もう、ずっと一緒がいいと言ったテオバルドの台詞を笑うこともできない。年甲斐のない思考に苦笑いが浮かびかけた瞬間、石段に置いていた手にテオバルドの指が触れた。
「テオバルド?」
隣を見上げれば、幼いころから変わらぬ星の瞳がほほえむ。触れた指先から走った熱に、本当に年甲斐もなにもないと少し呆れた。だが、自分の人生において一番に愛おしい相手なのだ。当然の反応であるのかもしれない。
「あなたが押し花にしてくれていたことを、知っています」
気恥ずかしさの抜けた穏やかな声に、アシュレイは小さく笑った。知っていたらしい。
懐かしい記憶だった。大きくなり、テオバルドの世界が広がれば、花を貰うこともない。そう承知していたから、長く保存したいと考えたのだ。
「今どうなっているのかは知りませんが、長く大事にしようと考えてくれたあなたの気持ちがうれしかった」
「今もあるが」
「え?」
きょとんと目を丸くした表情の幼さに、ふっと笑みをこぼす。幼い子どものままと思っているわけではないものの、それはそれとして、やはりかわいいのだ。
「俺の部屋の本棚の、一番上の左から二冊目。それの六十七ページ。嘘だと思うのなら、見にくればいい」
「誘っているのですか?」
「そうかもしれないな」
冗談めかす台詞に乗ることを、アシュレイは選ばなかった。躊躇うように揺れる瞳を、じっと見つめ返す。
子どもではないので、もうこの家には泊まりません。そんなふうに言い捨て頑なな背中を見せた日と関係は変わったはずなのに、テオバルドは森に長居することを良しとしない。
挙句の果てに、死にかけた人間が無理をするなと渋い顔をするばかりだ。気を遣われているらしいとわかるが、そんなことを求めているわけではない。
「教えてくれ、テオバルド」
おまえのすべてを見てみたい、とアシュレイは言った。知りたかったのだ。自分の知らないすべてを。自分のものにしたかった。
言葉に迷っている様子のテオバルドの頬に手を伸ばす。幼子特有の柔らかさの消えた、すっきりとした輪郭。本当に大きくなった。だが、一心に自分を映す星の瞳も、夜色の髪も、人の心配ばかりの優しい心根も。なにひとつ変わらない。
「おまえは、俺の世界そのものだ」
そんなものを手放すことなど、できるはずもなかったのだ。頬に触れていた手の甲に、テオバルドの手のひらがそっと被さる。
「師匠」
幸福の象徴と思っていた、一番に胸に響く声。その声が、見に行ってもいいですか、と物わかりの良いかわいいことを言ったので、満足した気分でアシュレイは頷いた。
広場の喧騒から離れた森の家は、今夜も変わらず静かな空気で満ちている。
アシュレイの肌に馴染む、心地の良い穏やかさ。自室のオイルランプを灯していると、背後で小さく笑う気配がした。
「この部屋に入るのはひさしぶりなので、なんだか少し緊張します」
半分ほど本音の混じった調子に、テオバルドを振り返り、首を傾げる。
「そんなことはないだろう。俺が空けていたあいだも、手を入れていたと言っていなかったか」
「多少は入れましたが。ほかのところはともかく、師匠の私室で余計なことはできませんよ」
苦笑気味に告げられた台詞に、そういうものかと納得する。いかにも根の真面目なテオバルドらしい返答だったからだ。だが、今は少し不釣り合いではないだろうか。
改めてテオバルドを見上げ、アシュレイも苦笑を返した。
「余計なことは気にしなくていい」
「余計なことでしたか」
「いまさらということだ。たしかに、おまえは俺の弟子だが、それだけでもないだろう」
深緑のローブを脱ぎ落し、テオバルドに手を伸ばす。
自分がかつて与えたものとは異なる、宮廷魔法使いの証である濃紺のローブ。才能と努力の賜物だが、脱いでしまえば、お互いただの人間だ。
大魔法使いでも、師匠でもない、アシュレイ個人の意思として、テオバルドがほしい。そんな願望を抱いたこともはじめてのことだった。
自然と湧いた衝動でおとがいを傾ければ、伸びてきた指が頬に触れる。ぎこちないほどに、丁寧な触れ方だった。瞳に灯る情欲との差異が愛おしく、笑みがこぼれそうになる。その笑みごとテオバルドに塞がれ、くすぐったい心地で目を閉じた。
過去にも幾度か交わした、触れるだけの口づけ。指先と同じく丁寧だったそれが、次第に深くなっていく。与えられる熱に、アシュレイは無意識に吐息をこぼした。
テオバルドに口内をなぶられ、舌を吸われると、呼吸をするだけで精いっぱいになってしまう。すべてがはじめてで、身体が知識に追いつかないのだ。
「ん……っ」
脳に走った痺れに、目の前のシャツをぎゅっと握る。濡れた唇が離れ、空気を取り込もうとした瞬間。身体をかき抱かれて、ふわりと足元が浮いた。
「っ、テオバルド……」
「師匠」
仰向けにベッドに押し倒され、のしかかる顔を見上げる。呼び止めようとした言葉に被さった声の熱っぽさに、アシュレイは思わず口を閉ざした。テオバルドの指が、唇に触れる。
「愛しています、私の師匠」
緑の瞳を瞬かせ、言葉を反芻する。簡単なはずの言葉が、なぜかすぐに理解できなかったのだ。星の瞳は、ただ柔らかにアシュレイを見下ろしている。
――愛している、か。
早急な展開に覚えていた戸惑いが、じわじわと幸福感に成り代わっていく。同じだけのものを返したくて、アシュレイは頬に手を伸ばした。
「俺もだ」
まっすぐに瞳を見つめ、想いを告げる。
「この世界にあるものすべての中で、おまえを一番に愛している」
事実だった。アシュレイにとって、テオバルドはそういう存在なのだ。
テオバルドの瞳が愛おしそうにゆるみ、唇に触れていた指が輪郭をたどる。
顔にかかる金糸を払い、生え際に、目じりに、頬に。順に落とされる口づけのあまりの優しさに、吐息に笑みが混じった。
「師匠」
大好きです、とどこか幼い調子でテオバルドが言う。募った愛おしさで、どうにかなってしまいそうだった。
身体を交えるという行為に特段の興味を持つことなく、アシュレイは生きてきた。けれど、それは、これほどまでに愛の深い行為と知らなかったからなのかもしれない。
「あなたにもっと触れたい。いいですか」
唇に口づけたテオバルドが、そんな台詞を囁く。だが、許可を請うているのは口調だけだ。そのまま器用にシャツをはだけさせていくので、いったいどこで覚えてきたのかと、おかしいような気持ちになる。呆れに似た感情も動いたものの、肌に触れる手のひらが心地良かったので、アシュレイは問わないことにした。
「……ふ、っ」
キスを交えながら、身体をまさぐる手がくすぐったい。反らした首筋を吸われ、またひとつ声がこぼれた。
息を吐き、テオバルドを見上げる。ほほえむ顔がかわいくて、さらに胸が熱くなった。
触れたいという欲求が疼き、テオバルドのシャツに手をかける。ボタンをひとつ外そうとしたアシュレイだったが、ふと胸板を押し戻した。
「テオバルド」
「はい」
ごく当然と手を止めたテオバルドの下から、書き机へ手を伸ばす。手の届く範囲に置いたものの存在を思い出したのだ。
「……あの、師匠」
不精を見かねたのか、阿るような声を出されてしまった。
「その、なにか言っていただければ、代わりに取りますが」
「いや」
首を振り、指先に触れた小瓶を差し出す。受け取ったテオバルドが予想外にきょとんとした顔を見せたので、アシュレイもつられて首を傾げた。
「香油だ」
明言したにもかかわらず、テオバルドはまじまじと小瓶を見つめている。慣れているというわりに、よくわからないやつだ。アシュレイはいっそう首をひねった。
「なにを驚いている。こういうものが必要なんだろう?」
「……知っていたのですか?」
「調べたに決まっている。なにをするにおいても正しい知識は必要だからな」
と言ったところで、あらぬ誤解を抱いている可能性に思い至った。
「イーサンからおまえを預かったときも、子どもの生態について書物で調べたが」
「その話は聞きたくありません」
猛然と否定され、口を閉ざす。たしかに、七つのころの話を持ち出す状況ではなかったかもしれない。本筋に戻す。
「要は痛みを緩和することが重要なわけだろう。あとは感覚を多少底上げしてやれば――」
「ちょっと」
「なんだ?」
「頼みますから、ちょっと待ってください」
頭の痛そうな顔で乞われてしまったので、しかたなく口を噤む。答えを待っていると、テオバルドがぐしゃりと夜色の髪を掻き混ぜた。
「テオバルド?」
呼びかけに、テオバルドはひとつ息を吐いた。表情を隠していた前髪を掻きやり、こちらを見下ろしてくる瞳が、なんだかやけに男臭い。
七つのころから知っている子どもの知らなかった表情に、心臓が大きな音を立てる。アシュレイを見つめたまま、テオバルドはゆっくりと口を開いた。
「あなたがつくったのですか?」
「そうだが」
戸惑いながらも、そう頷く。
「私との行為を想定しながら」
「……そうだが」
テオバルドが妙な言い方をするせいで、気恥ずかしくなってしまった。募った居た堪れなさで視線を外せば、堪えきれなかったようにテオバルドが笑う。
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