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54.幸せはきみのかたちをしている(前編)
日が沈んでも冷えることのなくなった風が、ローブのフードを揺らしていく。その風に乗って届いた花の匂いに、アシュレイはそっと緑の瞳を細めた。
グリットンの町の花祭りに顔を出すことは、随分とひさしぶりだった。
テオバルドが魔法学院に入学する年が最後だったので、もう八年顔を出していなかったことになるのだろうか。
――時の流れというものは、本当に早いものだな。
町の景色に大きな変化はないものの、テオバルドと同じ輪で笑っていた子どもが、母親の顔で赤子を抱いているのだ。驚くなというほうが無理な話である。
もっとも、そんなことを口にすれば、「だから、おまえは森に籠もりすぎなんだ」とイーサンあたりに苦言を呈されるに違いないのだが。
「いいのか、おまえは」
広場から少し離れた石段に座っていたアシュレイは、近づいてきたテオバルドにそう声をかけた。
「好きに交流してくればいい。懐かしい顔もあるだろう」
七つのころには自分のもとにいたと言え、テオバルドはこの町で生まれた子どもだ。イーサンの手伝いが終わったのであれば、自分のことなど気にせずに交流を図ればいい。
気遣ったつもりだったのだが、テオバルドはなんとも言えず不満な表情を見せた。子ども扱いと捉えたのかもしれない。
「言っておきますが」
諸々を呑み込んだ様子で、テオバルドは切り出した。
「あのころも、私は、べつに町の子どもと遊びたかったわけではありません」
「そうなのか?」
「そうですよ」
しかたないとばかりに苦笑して、すぐ近くに腰を下ろす。夜の暗がりであっても、はっきりとその顔を見ることはできた。広場で遊んでいた当時のまろやかさが抜け落ちた、青年になったテオバルドの横顔。
十五の年で正しく手放すつもりだったのだが、と自身に呆れる気持ちはあるものの、不思議と少し吹っ切れてもいた。その横顔から目を離し、広場へと視線を移す。にぎわいに耳を傾けていると、ふっとテオバルドが笑った。
「ませた子どもだったので、あなたとずっと一緒にいたかったんですよ」
「……ほとんどずっと一緒だったろう」
「それでもです」
いやにはっきりと断言され、閉口する。単純に反応に困ったのだ。
あの日。「伝えたいことは、その場で言わないと意味がないと悟りました」と妙にすっきりとした顔で宣言をしたテオバルドは、本当に感情をストレートに表現をするようになった。
――たしかに、テオバルドが幼かったころ、「黙っていてはわからない」と言ったが。
言ったが、それは、テオバルドが周囲を気遣い言葉を呑み込む子どもだったからだ。気恥ずかしい言葉ばかりを吐くように育つなど、誰が想像しただろうか。
「それに、今もそうですよ。できる限り、あなたと一緒にいたいと思っています」
黙ったままでいると、問う声に窺う調子が混ざった。
「困りますか」
困っていると答えることなど、できるはずもない。溜息をこぼす代わりに、「好きにすればいい」とアシュレイは応じた。
「昔からおまえがいてもいなくても、俺は好きにしていただろう」
「そうでしたね」
「そうだ」
「ええ、たしかにそうでした」
相槌を打つ声は楽しそうだったが、ろくなことを思い出していまい。ひとしきり笑ったところで、広場で踊る子どもたちのほうへ星の瞳が動いた。
「あなたが花祭りの夜くらいは同年代の子どもと遊べとうるさかったおかげで、いまだに声をかけられるんですよ」
「それがどうかしたのか?」
感じ取った含みに、ちらと隣を見やる。いまだに声をかけられるもなにも、森から下りてくるたびに、町の大人にかまわれていた覚えがあるのだが。
そう言うと、テオバルドはまた少し笑った。
「それだけではないから、困っているんです」
「困る?」
「ええ。町の子どもとしてかわいがってもらうだけならともかく、父の店に顔を出すたびに、中途半端な顔見知りとしてお嬢様方に声をかけられるので」
言わんとすることは理解したが、声をかけられる理由は「中途半端な顔見知りだから」というだけではないだろう。ぽつりとアシュレイは呟いた。
「イーサンは、息子 はよくモテるとうれしそうにしていたが」
「頼みますから、父の戯言を信じないでください」
苦虫を噛んだ顔で、テオバルドが首を振る。
「こちらがどれだけ波風を立てずに断ることに苦慮していると思っているのですか、あなたは」
「そうは見えなかったが」
「……五年近く似たやりとりを繰り返していたら、うまくもなります」
それなりに遊んでいるとも聞いたが、という追い打ちはかけなかったものの、正確に伝わったらしい。テオバルドが試すような視線を寄こした。
「それとも、もっと大々的に公言しても? 私が愛しているのはあなただけだと」
「やめてくれ」
そんなことをしたところで、余計な苦労を増やすだけだ。森に籠もっている自分には関係のない話だが、宮廷に勤め、人と関わりの多いテオバルドはそうもいくまい。
アシュレイが黙ると、テオバルドもそれ以上は口を開かなかった。溜息を呑み込み、広場へと意識を向け直す。昔も、アシュレイはこの石段から広場を眺めていた。
テオバルドは遊びたかったわけではないと言っていたが、町の子どもと過ごすテオバルドを見守る時間は、アシュレイにとってほほえましいものだったのだ。
そうして、それは、今も。広場から響く声をさほどうるさいと感じないのだから、我ながら随分と丸くなっている。
「師匠」
腰を上げかけたところを呼び止められ、そちらに視線を向ける。
「忘れていました。母からです」
酒を取りに行こうとしたことを見透かしたふうにほほえむ顔に、アシュレイは沈黙を決め込んだ。差し出されたカップからは、これ見よがしなほどの薬草の匂いが立ち上っている。テオバルドのものと思いたかったが、やはり違ったらしい。
笑顔に押し負けるかたちで、渋々とカップに手を伸ばす。泣き顔を目の当たりにしてからというもの、どうにもエレノアに頭が上がらないのだ。
「俺はおまえの前で酒のひとつも呑めないのか」
「良い機会と思って断酒されたらどうですか。身体の内側まで若いとも限らないでしょう」
恨み言をさらりと流したテオバルドが、淡々と続ける。
「それに、一時的なものと高を括っていた魔力の減少、まだ回復していないんでしょう」
横目で確認したテオバルドの表情は、穏やかだった。薬草茶に口をつけて、問いかける。目覚めたあとのアシュレイの魔力の減少を、対価として適当とルカは評した。
一時的なものだろうとテオバルドに説明をしたのは自分だが、それ以上のことはなにも伝えていなかったというのに。
「誰に聞いた」
「誰に聞いたもなにも、一部界隈で大騒動ですよ」
「……」
「あたりまえでしょう。大魔法使い の魔力の保有量が減ったなど、一個人の問題ではなく、国の問題になります」
「安心しろと言っておけ。多少減ったところで、宮廷魔法使い よりいくらも多い」
「……ええ、よくよく存じております」
やたらと慇懃に相槌を打ったテオバルドが、一拍置いて苦笑にも似た笑みを刻んだ。
「私もそれなり以上に多いと自負していますが。明確に自分より多いと認知した相手は、あなたとあなたのお師匠だけですよ」
「あたりまえだろう」
にじんだ屈託を無視して、事実を告げる。
「大魔法使いとは、そういうものを言うんだ」
魔法使いのエリートと称される宮廷魔法使いとも一線を画す存在。そうであればこそ、大切な者を守ることができる。アシュレイにとって、大事な力だ。
……しかし、必要以上に苦いな、これは。
ブレンドの意図はわかるものの、苦みのきついものを過分に投入しているのは嫌がらせでしかない。しかたなく量を減らしていると、そうなんでしょうね、とテオバルドが認めた。
「同じ人間であることに変わりはありませんが、そうなのだろうと思います。だからこそ、私も努力を重ねないとならないわけですが」
幼いころにも聞いた覚えのある宣誓に、かすかな笑みを浮かべる。同じように表情をゆるめたテオバルドだったが、ふとこんなことを言った。
「それにしても、大魔法使いさまの一声というものは、恐ろしいものですね」
苦笑まじりのそれに、わずかに首を傾げる。
「なにひとつ処罰は下りませんでした」
「あぁ」
察して、アシュレイは頷いた。北の遠征に帯同した薬草学研究所の面々の言動については不問とする。国のための研究に、よりいっそう励むように。
その通達をもって、正式にお咎めなしとなったのが、数週間前の話である。
大怪我を負った者がいなかったことも一因だったと聞くが、国を思うがための無謀だったことが最大限に考慮された結果だろう。
無論、テオバルドが言ったように、大魔法使い の口添えの効果もあったのだろうが。苦みのきつい薬草茶を飲み切り、世間話のそぶりでアシュレイは口火を切った。
「俺のときもそうだったからな」
「……大魔法使いになられたときの話ですか」
テオバルドは少し驚いたようだった。だが、当然の反応だろう。なにせ、誰かにするつもりなどなかった話だ。
「そうだ。まぁ、怒りようは、このあいだの比でなかったが」
あれもなかなかに嫌味だったが、二十云年前は本当にとんでもなかったのだ。
笑ったアシュレイに反し、テオバルドはどこか困ったふうに眉を下げただけだった。その視線がゆっくりと広場のほうへ動く。
「あなたのことを、大切に思っていらっしゃるんでしょう」
見ればわかります、と分別のある顔でテオバルドは言ってのけた。その視線の先には、イーサンとエレノアの姿がある。アシュレイは、そっと目を伏せた。
「悔やんだことはないが、正しい使い方でなかったことは事実だ。それでも許されたのだ。その贖罪というほどのつもりはなかったが、せめて以降は正しくあろうと思っていた」
「父と母のことですか」
そのつもりだったのだが、という言外を、テオバルドは正確に汲み取った。
「ですが、父も、母も、あなたを非難しなかったでしょう」
「それはそうだが」
非難されないほうが胸に刺さることもある。もっとも、あのふたりはそういうつもりで非難しなかったわけではないだろうが。
イーサンとエレノアに伝えることを決めたのは、弟子を預かった師匠としてのけじめのつもりだった。恨み言を貰うつもりで単身で赴いたというのに、本当に、あの夫婦は人が良い。やりとりを思い出し、アシュレイは小さく笑った。
「エレノアには、一発平手をもらったが」
「避けなかったのですか?」
「心配で一睡もできなかった夜の分と言われると、どうにもな」
なんとも言えない間のあとで、テオバルドも打ち明けた。
「私は父に殴られそうになりましたが」
「イーサンにか?」
それこそ、はじめて聞く話である。ぱしりと瞳を瞬かせたアシュレイに、両親のいる方向を見つめたまま、テオバルドは続けた。
「ええ、そうです。あなたに殴られる理由がありますかの一言で、それもそうかと引っ込められましたが」
「なくはないだろう」
覚えた気まずさに、声がほどける。
「おまえの子どもを見たかったはずだ」
親であれば、ごく当然に願うことで、責められることではない。アシュレイ自身も、弟子であるテオバルドに対し、ほんの少し前まで願っていたことだ。
「魔力は遺伝しないが、それでも、おまえの子どもなら」
きっと、良い魔法使いにもなったろうに、という台詞は、どうにか呑み込んだ。だが、あまり意味は成していなかったらしい。
声を立てず、テオバルドが笑う。すっかりと大人になったそれで。
「婚姻し、子をもうけることだけが未来を繋ぐ方法ではないでしょう。私は父と母の子どもですが、あなたに育てられた子どもでもあります」
「……」
「この国のためというのなら、私も善き魔法使いを育てます。あなたのように」
あるいは、とテオバルドは言った。
「ベイリー先生も、そうだったのでしょうか」
「どうだろうな」
テオバルドを見ぬまま、アシュレイは静かに答えた。だが、テオバルドの言うとおりであったのかもしれない。
アシュレイとテオバルドの恩師であるザラ・ベイリーは、数えきれないほどの後進を育て慈しんだ、この国が誇る優秀な魔法使いだ。
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