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53.星を言祝ぐ(後編)
「しかたのないやつだな、おまえは、本当に」
深く耳に馴染んだ声が根負けしたように笑い、背中にアシュレイの腕が回る。幼かった自分をあやす要領で抱きしめてくれたときと同じ、あたたかな温度。
このぬくもりに焦がれていたのだと痛感した心地だった。鼻の奥がツンと熱くなって、肩口に目元を埋める。耳のすぐそばで吐息が震えた。
「だから、泣くなと言ったろう」
本当にしかたのないやつだ、と。自分のことを棚に上げた台詞をアシュレイが繰り返す。おかしいやらなにやらで、テオバルドはさらに強く抱きすくめた。
「もう二度と、こんなことはしないでください」
「テオバルド」
「あなたがいないと、俺は生きていけません」
ほんのわずか、それでもたしかに動揺した気配があった。窺う調子で、彼が声を押し出す。
「そんなことはないだろう」
「あるんです」
頑なにテオバルドは主張した。
「あなたがなんと言おうと、そうなんです」
大師匠が言っていたとおりだとわかった。自分の命が助かったとしても、その代わりにこの人の命が失われるのだとしたら、そんなものは本当に呪 いでしかない。
「だから、あなたは、俺のために、自分自身を大切にしてください」
祈りにも似た必死さで、そう伝える。返事を迷う雰囲気をまとった沈黙が、どうしようもなく長かった。
「テオバルド」
静かな声に顔を上げるよう促され、押しつけていた肩から目元を離す。刷り込みに近いのかもしれないが、この声に逆らうことは自分にはできないのだ。抱きすくめていた腕からも力を抜き、目を合わせる。
緑の瞳に映る自分の顔は強張っていて、なんだか居た堪れない。その頬にアシュレイは指を這わせた。確認するように輪郭をたどり、夜の色と慈しんでくれた髪を撫でる。ひたすらに優しいしぐさだった。
「なによりも大切なおまえに誓おう。おまえに誓って、ずっとここにいる、と」
「師……」
「さすがに少し待ち飽きたのだが、そろそろ私のことを思い出してもらってもよかったかな」
突如として背後で響いた声に、テオバルドはぴしりと固まった。
……忘れてた。
さすがに口にはできないものの、途中からは完全に。固まった自分が気の毒になったのか、背中を軽く一度叩いてから、アシュレイは腕を解いた。
「ルカ」
大師匠を呼ぶ声は嫌そうだったが、忘れていたわけではなかったらしい。慌てるそぶりのひとつもない調子で、アシュレイが続ける。
「ここまで黙って見ていたのなら、最後まで口を噤んでいればいいだろうに」
「おや、アシュレイ。照れ隠しにしても、かわいくない態度だね」
「あなたは、あいかわらず趣味が悪い。ひとの大事な弟子で遊ぶなと何度も言ったはずだが」
「遊んではいない。試したんだ」
「……それは、なお悪いだろう」
うんざりとした呟きに、テオバルドは内心で心底同意した。本当にそう思うし、なにもあのタイミングですることはないだろうと思う。けれど、この人を大事に思っていることは、事実なのだ。わかってしまうと、文句を言う気にはなれなかった。
振り返ったテオバルドに、緑の大魔法使いが笑みを向ける。ほんの少しの静寂。その間のあとで、アシュレイに向かい、彼は淡々と口火を切った。
「さて、きみの大事な弟子から頂戴した恨み言によると、例の試薬の完成はまだ当分先のことになるらしい」
「恨み言もなにも、あなたが無意味に急がせたからだろう。当然の苦言だ」
「完成したとしても、きみのその――あえて呪 いと呼ぼうか、を打ち消す効果があるかどうかはわからない」
口を挟めずにいるテオバルドを一瞥し、すぐにアシュレイに向き直る。瞳を見つめ、緑の大魔法使いは言い聞かせるように言葉を重ねた。
「それでも、きみは選ばないといけない」
予想していなかった台詞に、テオバルドはアシュレイを盗み見た。機嫌を損ねた雰囲気の消えた横顔からは、なにを読み取ることもできない。彼はただ彼の師匠を見つめている。
「先ほどきみは、ずっと一緒にいると彼に言ったが、本当に可能なのか」
アシュレイはなにも言わなかった。
「自分を追い越し成長する姿を見ることもつらかったろうが、これから先、老いることのないきみの隣で、彼はさらに年を重ねていくことになるんだ。イーサンや、エレノアと同じようにね」
「……」
「その現実から逃げるために、ひとりで生きていこうとしていたのではないのか? 少し前に尋ねたときも、きみはなにも答えなかったろう」
誰よりも気持ちはわかると言っているみたいだった。ある一面では事実なのだろうと思う。この人たちは大魔法使いだ。自分とは一線を画した存在。でも。
「師匠」
堪えきれず、テオバルドは呼びかけた。これ以上、黙って見ていることができなかったのだ。握りしめた手の冷たさに驚いて、ぎゅっと指先に力を込める。
「俺はなにもかまいません」
アシュレイは、あまり喜怒哀楽を示さない。自分を見つめる瞳からも、ほとんど感情を読み取ることはできないままだ。だから、この人は緊張なんてしない、するわけがないのだ、と。今の今までテオバルドは思い込んでいた。
――そんなわけ、なかったんだよな。
握った指先の温度が、そんなわけはなかったのだと如実に伝えてくる。恥ずかしかった。
到底敵うことない大魔法使いの師匠でも、この人は自分と同じ人間だ。彼の師匠が言っていたとおりの、思い悩むこともある、ふつうの人間。わかっているつもりでいただけで、自分は本当の意味でまったくなにもわかっていなかった。
「あなたの苦しみを正確に理解することはできませんが、変わらないあなたの姿を気味が悪いなどと思ったことは一度もありません。ただ、あなたがあなたとして生きていてくれたら、本当にそれでいいんです」
「……そうだな」
感情を抑えていた緑の瞳に、そこでようやく柔らかな色が灯る。
「おまえがおまえであれば、それでいいのかもしれないな」
テオバルドを見つめ、アシュレイが頷く。納得している声とわかり、テオバルドは心の底からほっとした。かすかな笑みを残し、緑の大魔法使いに彼が向き直る。
わずかな沈黙を経て部屋に響いたのは、よく知る凛とした声だった。
「師匠。私を育て、ここまで導いてくださったあなたに、今度こそ誓います。ともに年を重ねていくことはできずとも、それでもともに生きていく、と」
「きみは今、幸せか」
「もちろんです。星にも手は届くのだと知りましたから」
テオバルドにわからなかったが、彼の師匠は理解したようだった。いかにも愉快そうに目を細め、よろしい、と頷く。
「アシュリー、きみのその姿はきみの愛情の証明だ。恥じることなく誇りと思って、ともに生きていくといい」
「はい、師匠。ご心配をおかけして申し訳ありません」
「そこは笑って礼を述べるところだろう。本当に、いくつになっても、手間のかかるかわいい弟子だ」
冗談めかした苦笑を刻んだ大魔法使いの視線が、はっきりとこちらを射抜く。
「テオバルド・ノア」
「はい」
緊張した返事をしたテオバルドに、緑の瞳は柔らかな弧を描いた。
厳しさの中にも優しさのにじむ微笑は、彼の弟子で、テオバルドの師匠である人のものと、やはり、よく似ていた。
「私の弟子をよろしく頼んだ。どうか、末永く幸せに」
言祝ぎとは、こういうものを言うんだ、としたり顔で彼が言う。視界の隅に映ったアシュレイの横顔はなんとも言えずバツが悪そうで、ついついテオバルドは吹き出してしまった。
「いくらなんでも、笑いすぎだろう」
心配しているだろうから、イーサンたちにも伝えてこよう。そう言って部屋を出た緑の大魔法使いを見送るやいなや、アシュレイは憮然とした声を出した。すみません、と応じたものの、語尾が震えた自覚はあった。その事実に、彼が気がつかぬはずもない。
「テオバルド」
「……すみません。その、安心したもので、つい」
なにせ、この二日ほど生きた心地がしなかったのだ。そう告げると、今度はアシュレイが黙り込んだ。
「師匠」
ふいと視線まで逸らされてしまい、そっと呼びかける。この人なりに気まずいものはあるらしいが、そんなことは今はどうでもいい。
「師匠」
「だから、なんだ」
「顔を見せてください」
断られないと承知の上で、テオバルドは願った。予想どおり、かたちばかりの溜息ひとつでアシュレイの顔が上がる。
「こんなものを見て、なにが楽しいんだ」
「安心します」
打てば響く速さでテオバルドは明言した。安心するし、ずっと近くで見ていたいと願い続けている。子どものころからの話だ。
伸ばした手で、頬に触れる。彼の頬に触れたのは、はじめてのことだった。
「あなたの瞳も、変わらぬ容姿も、呪 いなどと思ったことは、幼子のころから、俺は一度もありません」
「そうだったな」
「ええ、そうです」
「本当に、おまえは変わり者だった」
呆れと懐かしさが綯い交ぜになった柔らかな笑顔に、テオバルドもほほえみを返した。変わり者であったとしても、なにもかまわない。
「だから、これからも、一番近くで見せてください。あなたのそばで、ずっと」
ともに生きると言ってくれたことが、本当にうれしかったのだ。どんな宝石よりも美しいと感じる緑の瞳に未来を誓い、愛おしく唇に口づける。
「愛しています、あなただけを永遠に。私の師匠」
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