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52.星を言祝ぐ(中編)
「テオバルド」
しっかりと目を合わせ、緑の大魔法使いが断言する。
「きみはたしかに私の弟子の大事だ」
「え……」
「だから、意味があるんだ。この呪 いは、この子自身が自分のために戻りたいと願わない限りは解けないよ」
自分の意志で戻りたいと願わない限り、解けない呪 い。
そんなものがこの世に存在するのだろうか。テオバルドにはまったく理解ができなかった。
だが、もし。もし、ベッドに眠る彼の身体がからっぽなのだとしたら、彼の魂はこのやりとりをどこからか見ているのかもしれない。
そうであれば、緑の大魔法使いの突拍子のない説明にも少しばかり納得が行く。藁に縋る思いで、テオバルドは言い聞かせた。だが、それで本当にいいのだろうか。
踏み出せずにいるテオバルドに、苦笑ひとつで緑の大魔法使いは付け足した。
「根拠はなんだときみは言ったが、これが答えだ。今のこの子に一番に響くのも、届くのも、きみの声なんだろう」
「私の声、ですか」
「御伽噺を紡いだ偉人に敬意を表して口づけとは言ったが、きみの思いの丈をぶつけるだけでもかまわない。要は、響きさえすればいいわけだからね」
「響く……」
テオバルドは言葉尻を繰り返した。そうであればどんなにいいだろうと思う。なんでもすると言った気持ちに嘘もない。
――でも、そんなの、この人や、母さんや、父さんで、十分だったんじゃ……。
自分の帰りを待つ必要など、なかったのではないだろうか。
往生際の悪い屈託に、緑の大魔法使いは正しく気がついたようだった。
テオバルドを見て、そっと瞳を笑ませる。顔かたちはまったく似ていないのに、不思議と既視感のある笑い方だった。
「つまるところ、きみはこれに勝手な加護を授けられたわけだ。恨み言のひとつやふたつあって当然。私のことは気にせず、好きになんでも言えばいい」
「恨み言ですか」
そんなこと、思いつきもしなかったな。ぎこちない苦笑を刻んで、ベッドを見下ろす。たどり着くまでのあいだ、自分の胸にあったのは、焦燥と後悔ばかりだった。
無事を祈る一方で、大人ぶった分別で呑み込まず、正直に伝えておくべきだったと悔やんだ。
七つの春に出逢った当時からなにひとつ変わらない、幼ささえにじむ面立ち。淡い金色の髪も、こぼれる宝石のような緑の瞳も、自分にだけ注がれる静かな声も。彼をかたちづくるものすべてを、テオバルドは愛していた。
けれど、そこに魂が籠もっていなければ、意味はない。なにの意味もないのだ。
「師匠」
彼を育てたというこの人のほうが、自分が生まれるずっと以前から彼の隣にいた父や、母のほうが、適任なのではないか。自分の声など、響かないのではないか。
みっともない迷いも屈託も放り投げ、ベッドのすぐそばに膝をつく。覚悟を決めた途端、伝えたかった言葉が次々とあふれそうになる。きっと、言いたかったのだ。
「好きです」
もう二度と後悔をするつもりはない、と。自分より大きいと信じていた手を握りしめる。
「愛しています」
偽らざるテオバルドの本音でもあった。言うべきでないと決めていたはずの感情。だが、自分ひとりのものにしておくことは、もうできなかった。
受け入れてもらうことが叶わなかったとしても、困らせることになったとしても、知ってほしい。切実な思いで、ひたすらに言い募っていく。
「弟子としてではなく、ただひとりの男として」
だが、なにの反応もない。彼の手を握る指先に、テオバルドはぐっと力を込めた。
伝えたいことは、いくらでもあった。たとえば、森の家を離れ学院で学んだ三年間のこと、そのあとのこと。弟子としてだけではない、抑えていた感情のこと。けれど、こんなふうに伝えたかったわけではない。大好きな緑の瞳を見て、真正面から告げたかった。
はじめて目にした瞬間から、ずっと心を奪われている、優しい緑の瞳。その瞳が開かないなどということは、絶対にあってほしくなかった。許せるわけもない。
「師匠は」
気がついたときには、子どものような声がこぼれ落ちていた。
「いつも、勝手に俺を置いて行く」
なにを言っているのだと自分でも呆れた。でも、そうなのだ。たった一枚の手紙で北の僻地に旅立ったこともそうだし、助けを求めることはないと即座に切り捨てたこともそうだ。
なにかあれば助ける、だなんて。それが師匠の務めだ、だなんて。そんなこと、自分はいっさい求めていなかったというのに。
「また、今度も同じことをするのなら、俺は絶対に許しません」
これでは本当に恨み言だ。呆れを深くしながらも、彼自身に祈る気持ちでテオバルドは声を振り絞った。
見たこともない神よりも、師匠に縋るほうが確実と思ったのだ。魔法使いは、すぐに神を軽んじる。そういった批判があることは知っている。だが、テオバルドにとって、アシュレイはそういう存在だった。
「絶対に許しません」
感情の抑制が利かず、幼子のように声が震えた。師匠が聞けば眉をひそめるだろう言葉も乱用している。けれど、それ以外にどう言えばいいのかわからなかったのだ。
握りしめていた彼の手の甲に落ちた水滴に、はっと目元を拭おうとした、その瞬間。それまでぴくりともしなかった指先が動いた気がした。
「師匠……?」
自分の心臓が馬鹿みたいにうるさい。どうしようもない期待と、不安。祈る気持ちで見つめる先で、ぴくりと彼の目蓋が震えた。
「……っ、師匠!」
前のめりに叫んだテオバルドを捉えた緑の色彩が、慈しむようにゆるんでいく。その色に、なんだかまた泣きそうになってしまった。師匠だ、と。途方もなく安心したのだ。
「そう泣くな」
目を覚ましたばかりと思えない、聞き慣れた静かな声だった。
「……泣いていません」
「泣いているだろう」
否定したテオバルドに、アシュレイはかすかに眉を下げた。握りしめていなかった手が伸ばされ、そっと頬をなぞる。
「おまえの泣き顔は苦手なんだ」
誰よりも愛おしい声が、愛おしそうにそんな言葉を紡ぐから、もうたまらなかった。
気遣うべきだという配慮も、この部屋にいるのは自分たちだけではないという事実も、すべてが頭から抜け落ちて、抱き起こした身体をきつく腕に込める。
懐かしい、彼の匂いだった。生きている。生きて、くれている。
「師匠」
幼いころから幾度も口にした呼称に、ありったけの想いを乗せる。
「好きです」
自分の世界がどれほど広がろうとも、あなたより大切なものはなかったのだ、とテオバルドは言った。
学院を卒業するころから、ずっと胸にあった感情だった。そこから四年が経ち、宮廷魔法使いとなって、世界がさらなる広がりを見せても、変わることも、揺らぐこともなかったもの。
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