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第27話

 どれくらいの時間が経っただろう。数分かもしれないし、数十分かもしれない。  小鳥の世話をしていたのはノアだったけど、愛着がわかなかったわけじゃない。事切れた小鳥をハンカチで包み、花瓶に刺さっていた薔薇を供えた。 「――お兄ちゃん、迎えに来たよ」  ゆっくりと扉が開いて、喜びに満ちた声が響く。 「……久しぶり。元気にしていたか、サーシャ」  膝丈の黒と赤のドレスに身を包んだ、腹違いの妹が、表情の薄い顔に珍しい満面の笑みを浮かべてやってくる。 「ミーシャはどうした?」 「あの子はお留守番。……わたしは、お兄ちゃんを迎えにいきたくて、アレクシアにお願いしたの」 「……アレクシアは、きょうだいのお願いに弱いからな。ふたりは?」 「下で待ってるよ。ね、ノエルお兄ちゃん、帰ろう? わたしたちのおうちに帰ろうよ」  黒いレースの手袋に包まれた細く華奢な手が差し伸べられる。  アレクシアとイザベラがこの場にいないのなら、サーシャを振り払いのは簡単だった。けど、この手を俺が取らなければ、躾けられるのはサーシャだ。  デズモンド邸の地下に、避難シェルターはないかわりに懲罰房がある。拷問部屋、と呼ぶこともあるけど、裏切者や侵入者、敵対する人間は昼夜投げ込まれて懲罰を受けるのだ。  投げ込まれる人間が身内であれば『躾け』、それ以外の人間なら『拷問』――俺にしてみたらどっちも変わりなかった。  ただ懇々と膝を詰めてお説教するのではない。食事や排泄、すべてを他者に管理され、反省するまで罪人のように扱われる。  懲罰房の中にいる間は、何をしても許されてしまう。死にさえしなけりゃ、暴力も、なんでも許されるのだ。  サーシャは俺を確実に連れ戻すための餌として利用された。 「……お兄ちゃん? どうしたの? 下で、みんなが待ってるよ?」 「…………サーシャ」 「なぁに?」 「ノアは、どうする?」  俺に声をかけられて嬉しかったんだろう。笑みを咲かせたが、ノアの名前を聞いた途端に詰まらなさそうに唇を尖らせた。 「……知らない。知らないわ、ノア君なんて。私は、お兄ちゃんがいればいいんだもの」  ス、と視線を反らしたサーシャに、口元を手のひらで抑えた。本当に、サーシャはいい子だ。否、きっとサーシャの気持ちもあるのだろう。  自分たちだけの兄でいてほしいのに、俺には本当に血のつながった弟がいるから。  サーシャは、俺に依存気味だった。  ミーシャは純粋に慕ってくれて、ノアのこともよく見てくれていたのに対して、サーシャはノアのことを嫌っていた。 「わたしのおにいちゃんとおねえちゃんなのに」と何度もこぼしていた。 「ノア君は、メイドに連れられて逃げたんでしょ? わたし、視たもの」 「……そう。無事に逃げられたんだな。これで、ノアはもうデズモンドに戻ってこないな」  あえて、わざとらしく口に出せばサーシャは笑みを花開かせて手を伸ばして、俺の手を握ってきた。 「これで、お兄ちゃんのきょうだいはわたしたちだけだね!」  狂っているなぁ。歪んでいるなぁ。  かわいそうなサーシャ。狭い箱庭でしか生きられない、可哀そうな妹。  ノアが屋敷の外に逃げられたわけがない。エレノアが言っていたとおり、地下のシェルターに避難しているだろう。  サーシャは俺を自分たちだけの兄にしたくて、嘘を吐いた。嘘を見抜ける次女(ベアトリーチェ)に確かめられたらすぐにわかるような嘘だ。――その『嘘発見器』を出し抜く方法もある。嘘を吐かず、本当のことも言わなければいい。  ノアはメイドに連れられて逃げていった。  これは嘘じゃない。家の外に逃げたとも言っていないし、正確に言うなら屋敷の中に隠れているだけど、アレクシアはそこまで確認しない。  アイツ、家族大好ききょうだ大好きなファミリーコンプレックスだから、きょうだいの言うことは二の句も聞かずに信じるのだ。 「下で、ふたりが待ってる。あんまり長く待たせたら、イザベラが怖いよ」 「そうだな。怒って、屋敷に火を放つかもしれない。早く、行こうか」  怒っても怒らなくてもサディスト女(イザベラ)は屋敷に火を放つ。  人の嫌がることをさせたら天下一品の彼女は、ただなんとなくで屋敷に火を放つだろう。これは確定事項だ。視えてしまった未来である。  仲良く手を繋いで破壊された屋敷の中を歩いていく。  美しく整えられていた調度品は力任せに壊されて、割られた花瓶に床は水浸しになって、蒼い薔薇が踏みにじられていた。  ――窓の外に広がった、美しい薔薇の庭園が炎に包まれている。  つい足を止めて、燃え盛る炎を見つめた。 「……アデル、カイン」  ぽつり、と口から零れ落ちた名前に、手を握る力が強くなった。 「どうして……」 「サー、シャ?」 「どうして? お兄ちゃんにはわたしたちがいるじゃない……どうして、ほかの人の名前を呼ぶのっ?」  ポロポロと、涙をこぼすサーシャに眉を下げる。どうして、と尋ねられても答えられない。  困惑する俺にサーシャは涙をこぼして迫ってくる。 「おにいちゃん、好きなひとが、できたの?」  ぱ、と手が離される。愕然と目を見開いたサーシャに居心地の悪さを感じて、何も言えずに目を反らした。  好きな人――俺が好きなのは、アデルとカインだ。  だから、蒼い薔薇が燃えていくのを見ていられなかった。  二人は、穢れを知らない白薔薇と蒼薔薇の花束みたいだった。 「――あら、お人形ちゃんに、好い人ができたの? ぜひ教えてほしいものだわねぇ」  全身の血が下がっていく。  カツリ、カツリ、とわざとらしく立てられた足音と、悪辣に満ちた女の声――デズモンド家の長女・イザベラだ。 「妹を泣かせるなんて、兄として失格だぞ」  足音ひとつ立てずに、柔らかな口調ながら恐ろしさを感じる男――デズモンド家の長男・アレクシア。第三章『ロリーナ』編のメインヴィランキャラクター。俺が、一番関わりたくない男だった。 「お前に、……俺の大切な弟に余計な感情を教えたのはどこの馬の骨だろうな」  むしろお前がどこぞの馬の骨だろうが!! と、口にして叫べたらどんなにすっきりしただろう。  キ、とキツく睨みつけることしかできない俺は自分が情けなかった。戦場へ赴き、魔物を一太刀で殺し、情けも乞いも厭わずに笑顔で殺してしまえる頭の狂ったアレクシアが、俺は恐ろしくて堪らなかった。 「文句がありそうだな? まぁ、いいさ。文句ならいくらでも後から聞いてやろう。この家出の言い訳もな」 「――ッ!!」  血よりも濃い、深紅の瞳が愉悦に歪んで俺を映した。  漆黒の馬車に放り込まれて、外から鍵をかけられる。隣にはサーシャがぴったりとくっついて、ぺちゃくちゃとおしゃべりをしていた。  黒いレースカーテン越しに、赤く燃え盛る蒼薔薇の館を見る。  俺のために整えられた、美しい蒼は、憎々しい紅に侵食されて、黒煙を空へと高く伸ばしていった。

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