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第37話

 甘い毒がゆっくりと全身に広がっていく。  柔らかな皮膚にブツリと牙が差し込まれて、そこから毒を注入される。  白いレース越しの日差しを浴びながら、ソファで暇つぶしの読書をする俺の膝には、すぴすぴと寝息を立てるノアがいる。昼寝をするのならベッドへ行きなさいと何度言っても、ノアは首を横に振って俺に膝枕をねだった。  男の膝枕なんて硬いだけなのに、膝で眠るノアを羨まし気に見るアデル。きっと後からねだられるに違いない。  何がそんなに羨ましいのやら。俺だったら柔らかいベッドですやすや眠りたい。  めっきり、ひとりの時間がなくなった。  それ以前は双子が揃って留守にすることもあったが、今はもう必ずどちらかがそばにいる状態である。 「アデル」 「なぁに、ノエル?」  首を傾げた拍子にうなじで緩く結ばれた灰銀髪がさらりとこぼれる。 「ここにいていいのか」 「なにが?」  眉を下げて微笑むアダムだが、俺の言いたいことはわかっているはずだ。それでいて、わからないふりをしている。  ミラー家の子息が、毎日俺にかまう時間があるわけがないというのに、毎日代わる代わる俺に引っ付いているんだ。  領地を治める一族として、視察やらなにやらやることは盛りだくさんのはず。  デズモンド家もそうだ。成人済みのきょうだいはそれぞれ『表』と『裏』の事業を抱えていたし、俺もマリアのワイン事業の手伝いをしていた。マリアと俺は閣下の社交界への『アピール』だったからほかのきょうだいよりも軽い業務が多かったものの、それでも各地のシャトーへ視察に赴くこともあった。  アデルとカインの主な業務は近隣地域の守護と、民兵の組織化だ。町へ赴いているのは、経験の少ない民兵たちを指導しているから。近隣地域の守護には、敵対勢力を牽制することや魔物の討伐も含まれている。  討伐した魔物は食用にできるものとそうじゃないものに分けられ、街の加工業者へと引き渡される。魔物の肉は臭みがあって俺は好んでは食べないが、ワインのつまみにちょうど良いと貴族の間で評判だ。 「いいんだよ。私たちは私たちで好きにするから。それに、仕事に支障は出ていないから心配しなくても大丈夫」 「あとから、俺が文句を言われるは勘弁だぞ」 「まさか。誰がそんなことを? もしそんなのがいたらきちんとお話するから安心してね」  そのお話が怖いんだっての。本当にお話で済むのか?  胡乱な目でアデルを見たら、キス待ちだと思われたのかリップ音を立ててキスされた。 「…………おい、コラ。まだ真昼間だ」 「明るいうちに運動しないと」 「運動」 「そう。ほら、ノエルってば引きこもりでしょ」 「引きこもらせてるのはどこのドイツだろうな。俺は護身術も学びたいし、馬にも乗りたいんだが。ことごとく却下するどこかの誰かのせいで運動不足になって、どんどん太っていったらどう責任を取ってくれるんだか」 「大丈夫。その分、夜にいっぱい動こうね」 「ド変態」  にっこにこの満面の笑みで唇を寄せてくるアデルの額を指先で弾いてやる。対して力も込めていないのに、「あイタっ」と言うものだから笑いが堪えられなかった。 「ノエルのせいでバカになったかも」 「バカだろ、お前らは」 「キスをしてくれたら治るよ」 「そんなんで治ってたら医者はいらないな」  ノアを起こさないように密やかに笑い合う。 「でも今はダメだ。ノアがいるから」 「ぐっすり寝てるから起きないさ」 「それでもダメ。ノアのいるところでは、俺は『兄上』でありたいから」 「……それじゃあ、いつ、私たちの『ノエル』になってくれるんだ?」 「…………日が暮れてから、かな」  日差しに当てられて熱くなったんじゃない。顔が火照って、まじまじとこちらを見るアデルを見れなかった。  女の子じゃあるまいし、照れるようなことじゃないのに、らしくもなくデレた俺は羞恥で真っ赤になる。首まで赤くなってるんじゃないか。ノアがいてくれてよかった。いなかったら、多分、このままベッドに連れてかれていただろう。 「――ただいま」 「! カイン! 遅かったな!」 「そう? 昨日よりもずっと早いはずだけど……ノエル、アデルに何かされたの? 顔が真っ赤で可愛くなってる」 「人聞きの悪いことを言わないでくれよ。ノエルの貴重なデレを堪能してたとこなのに」 「は? ズルいんだが?」  バチッと火花が散るのはいつものこと。ここで反応したら俺の敗けなので、どんどんスルースキルが高くなっていく。  イザベラが突然フットマンとSMプレイを始めても、アレクシアが突然部下の首を落としても、スルーできた俺だもの。可愛いキャットファイトくらいスルーできる。  それよりも、なによりも、俺の目を引いた存在がいた。 「――ダイナ?」  ブラッシングをかかさなかった長毛はところどころ縮れており、短いところに合わせてカットしたのか、毛足がずいぶんと短くなっていたけれど、間違いない。俺のダイナだった。 「にぁお」と籠の中から鳴くダイナ。 「焼け跡を捜索していたときに見つけたんだ」 「あぁ、引き取り日って今日だったんだ」 「アデルも知っていたのか?」 「もちろん。あの子を見つけたのはカインだけど、獣医に預けたのは私だからね」  ぱちん、とウインクする双子を信じられない目で見る。動物なんて気に掛けるような性格じゃないのに、どうして、という驚きが大きかった。  良く言えば博愛、悪く言えば俺に関すること以外に興味がないふたり。原作にほとんど出てこない脇役モブがなんでこんなにキャラが濃いんだ、と思うこと云十回。ふと思い至ったのは、もしや俺がメイン級の立ち回りをしているから? と気が付いた。  気が付きたくなかったけど、原作の厄介古参オタクを自覚してる『俺』が気が付かないはずがなかった。  始まりは、ノアとともにダンスパーティーへ参加したところから。原作はここから破綻し始めていたんだろう。  てっきり俺はアレクシアの代わりに当て馬役になるのかと思ったが、俺自身がエインズワース家の三姉妹に恋愛的興味がないのでそれは成り立たない。興味がないわけではないが、それは『駒鳥シリーズ』のファンとしてのミーハーである。  ここで違和感を抱き、確信したのはデズモンドに連れ戻されてから。あの懲罰房には時期違いでメインキャラが入れられている。ロリーナとアリスはもちろん、なんと王族の兄弟まで。それほどまでに、デズモンドとは巨悪であったのだ。  話はズレたが、どういうわけか、あの懲罰房でメインキャラたちが受ける仕打ちを俺が受けた。躾けられている当時は地獄の日々でストーリーを思い返す暇もなかったが、こうして落ち着いてみれば、おかしいと気が付く場面はいくつもあった。  ベアトリーチェの軟膏は、不意を突かれて捕えられたミラー家の長男に渡されるはずだった。  イザベラが執着を示したのは、ロリーナ編のメインキャラその二の王子のはずだった。  そしてベアトリーチェのセリフ。本来はアリスへ向けられる悲しい叫びのはずだった。  デズモンド邸が炎に包まれるのはアリス救出作戦だったし、蒼薔薇の館ならぬ常春の屋敷に囲われたのはロリーナだった。  おかしいだろ! なんで、俺? 「それに、猫を飼っていると言っていたのを覚えていたんだ」 「どんな子だったかノエルが教えてくれたから、僕はあの子に気が付けたのさ」  ――これは、イーディスに向かって騎士団長令息が放つセリフ。 「……そう、か」  もう目を反らせない。反らすことを許されない。  神様、ずいぶんと酷い仕打ちじゃあありませんか。ここは、夢じゃあないんですね。夢だと信じたかったのに、この胸に湧き上がる感情を夢だと思いたくなかった。  体に刻まれた傷と、その痛みが現実だと訴えている。  とっくに、俺は舞台上に引きずり上げられていたんだ。 「――ありがとう、ふたりとも。ダイナを見つけてくれて、ありがとう……ッ」  涙があふれた。ダイナが生きてくれていてよかった。これは夢じゃなく、現実なんだ。  矛盾した自分を否定し続けていたけれど、もう、否定することはできない。  これは、現実だ。『俺』が見ている夢でも、小説の中でもない。本当に、起こっていることなんだ。 「え、えっ!」 「ノエルッ?」 「泣かないでくれ……ノエルに泣かれたら、どうしたらいいかわからない」  手の甲でグシグシと涙をぬぐって、アデルとカインを呼んだ。柔らかく、愛しさを込めて。 「ただ、俺を抱きしめて。そうしたら、涙も止まるから」  ふんわりと、自然に微笑めた。心が軽くなった。ずっと否定して、気が付かないふりをして、蓋をしていた矛盾を飲み込むことができたからだ。  初めて目にする穏やかな微笑に固まったアデルとカインは、それぞれ違う表情を蒼い宝石に宿らせた。  ようやく、『俺』は『ノエル・デズモンド(おれ)』を認めることができた。

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