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第1話
締め切られた窓には厚手のカーテンまで掛けられていたが、ドアの無い出入り口には大きめの衝立が目隠しとして設置されているだけという不完全な密室の中、
「待て待て待て。おい。止め」
「はい。残念」
慌て戸惑う栄一と冷めた表情の奈月は向かい合っていた。
広さは六畳から八畳ほどで、きっちりとした更衣室というよりは休憩室か控え室といった感じのゆるさが漂うこの部屋は、奈月が働く喫茶店のバックヤードのその奥に位置しており、一般の客がほんの出来心で軽く覗けるような場所ではなかった。
だが、まさに一般の客でしかないはずの栄一はこの喫茶店の給仕である奈月に手を取られて、半ば強引にこの一室へと連れ込まれてしまっていた。
「こちらの席へどうぞ」
「ありがとうございました」
「三名様で宜しいでしょうか」
「お待たせ致しました」
「お会計は御一緒で宜しいでしょうか」
「いらっしゃいませ」
日常の賑わいが遠く聞こえる。栄一は真っ赤に染まった顔を横に逸らしつつもその目はしっかりと正面を凝視していた。彼の黒目には真っ白いブラウスの前を自らの手で大きくはだけさせた奈月の姿がはっきりと映っていた。
奈月の胸が露出されていた。
奈月はブラウスの下に肌着も下着も着けてはいなかった。栄一に向かって、ピンクオークルの美しい肌を堂々と見せつけていた。その胸は小さくすらもない、真っ平らだった。
「よく見ろ」
奈月は言った。
「俺は男だ」
それは普段、喫茶店内で「いらっしゃいませ」等と発している声とは全く違った、あまりにも低過ぎる声だった。少しばかりドスが効き過ぎていた。
「え? ん? はあ」
目に映る情報と耳に聞こえる情報の大きな相違に栄一の頭は混乱を通り越して軽く停止してしまう。
「だ、か、ら」と奈月は小股で三歩、栄一に近付いた。そして、
「それは引っ込めろ」
奈月は膝蹴りの要領で栄一の膨らんでいた股間を軽く押し込んだ。
「うッ」と大袈裟にうずくまった栄一を横目にも見ず、奈月ははだけさせていたブラウスの前を留めて、外していたベストを羽織り直した。これで下に何も着けていなくとも胸やらが透けて見られてしまうような事はない。
奈月にとってはそれは羞恥の問題というよりも品の問題であった。
白いブラウスにシックなカラーのカマーベストと同色のロングスカートという組み合わせは店側が用意していた幾つもの選択肢の中から奈月が自分で選んで決めたユニフォームのパターンだった。コンセプトは「過不足の無い背景」といった感じか。店内の落ち着いた色調も考慮に入れていた。
肌を透けさせる事で品位を損なったり、ましてやお客様方から好奇の視線を集めるような事は奈月の思い描く理想の像から大きく外れてしまうのだった。
一般的に見て変な格好じゃないかどうかやセンスの有る無しは関係が無かった。極端に悪目立ちだけしていなければ良いのだ。他の誰にも思われていなくとも「過不足の無い背景」だと自分で思えていればそれで良かった。
奈月は自分で好ましく思った服を好きに着ているだけだった。ただ、少なくとも似合っていない事は無いとも思ってはいた。
度を越してあまりにもな場合には店長から有り難いアドバイスと共に見直しの要請が来るらしいが今の所、奈月のもとにはまだその声は届けられてはいないという事がその証明ではないが、ちょっとした自信のようなものとはなっていた。
奈月は、強く蹴り上げたわけでもないのにいつまでもうずくまり続けていた栄一の後頭部をちらりと一瞥した後、何を言うでも思うでもなく、あっさりとその横を通り過ぎて、この不完全な密室を後にした。
軽い足取りでコンコンコンとヒールを鳴らしながら部屋から出ていった奈月に置き去りにされてしまった栄一は、
「えっと」
停止から混乱にまでは戻っていた頭で一人、ぐるぐると考え続けてしまっていた。
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