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第2話
はじまりは五月の下旬の事だった。
大学生となってから一ヶ月が過ぎて、何となくだが新しい生活にも慣れてきたかと感じた藏重栄一は続いてアルバイトを始めようとしていた。
コンビニ、居酒屋、ファーストフード、引っ越し、警備、ポスティング、業種の希望はまだ考えてもいなかったが、取り敢えず、勤務先は大学の近くが良い。
一人暮らしではなく実家からの通いだった栄一には地元で働くという選択肢もあったが、ニュータウンの隣町という穏やかで緩やかな地域で生まれ育った栄一は、親の御近所付き合いや自身の子ども会やらごみゼロ運動やらお祭りやらといった田舎町的行事を通じて「藏重さんのところの栄一ちゃん」だと地元のオバちゃん方やオジちゃん方に顔を覚えられてしまっており、いや、可愛がって頂けている事は本当に有り難いのだが、いつまで経っても子供扱いをされてしまうというのか、そういった人達を客として働くというのはどうにも気恥ずかしいものがあったのだ。
「なあ」と栄一は、向かいでミラノ風ドリアを旨そうに頬張る鈴木に尋ねた。
「初心者でも働けるアルバイトって何があるんだ?」
高校生の頃は部活に一生懸命でバイト経験が全く無かった栄一とは反対に友人の鈴木はいわゆる帰宅部で放課後はアルバイトに明け暮れていた。長期や短期、ときには掛け持ちで様々なアルバイトに精を出し過ぎて、高校には授業を受けにではなく寝に来ていたような奴だった。
「基本、バイトに即戦力は求めないだろ。藏重が自分でやってみたいやつをやってみれば良いんじゃね? 後はやりながら覚えていけば」
「それは、まあ、そうか。ただ合う合わないはあるだろう。センスが無いから服屋の店員なんかは出来そうにないってのは自分でも分かるけど。これは意外と難しいから軽い気持ちでやろうとするのは止めておけ、みたいなのはないのか?」
「何だ。意外なチキン発言だな。怒涛の藏重なら当たって砕けろよ」
「誰が怒涛の藏重だ。どこから来たんだその枕詞みたいなの」と軽く苦笑いした後、栄一は真顔で呟いた。
「俺が勝手に砕けるのは良いけど。いや、良くはないけど。折角、働かせてもらえた店に迷惑を掛けるのも不味いだろう。どうせなら役に立って、その報酬を貰いたい」
鈴木は「ははッ」と楽しげな声を漏らしたが栄一は今の自分の発言の何が面白かったのか見当もつかずに小首を傾げる。
「そうなあ」
鈴木は辛味チキンの骨を上手に外しながら答えてくれた。
「真面目に働くつもりだったらちゃんと研修があるところだな。キャラ的には警備員とか引っ越しが似合いそうだけど。藏重は人当たりが悪くないからスーパーのレジとか。変に照れたりもしないからマニュアルが徹底されてるファーストフードとかでも良いんじゃねえの。逆に元気に挨拶とかし過ぎてテキトウ系のコンビニだと浮くかもしれないな」
仕事内容的には近いようでいて、アルバイトで入るとなるとスーパーとコンビニは正反対ぐらいに違うのか。ふむ。分かったような、むしろ謎が深まってしまったような気持ちで栄一は頷いた。鈴木は、
「あとは今、此処でこんな話をしているのは運命かもしれないって事でこの店とか」
わざとらしくにやりと笑った。
栄一と鈴木の二人は今、大学近くのお手頃価格系イタリアンファミリーレストランに来ていた。この店を栄一は一人でも、また今日のように誰かと一緒にもよく利用していた。そういった店でアルバイトをしようというのは、どうなのだろうか。
「最初の面接で落ちる事も普通にあるんだろう。受かったら受かったで仕事場になるわけだし、気軽に通ってる場所が無くなるのは困るな」
「お。意外と繊細な」
真面目に答えた栄一を鈴木は茶化した。それでも不快には感じさせないのは鈴木の人柄か、それとも栄一が鈍感なだけのか。
他人から「繊細」と言われて、自分は鈍感なのかもしれないと思う。人間とは複雑な生き物だな。栄一は、
「意外かあ?」
と苦笑する。
「意外だろ。豪腕の藏重が実は繊細だったとか」
「誰が豪腕の藏重だ」
鈴木はまたテキトウな事を言ってくれた。当然の事ながら栄一は怒涛だの豪腕だのと言われてはいなかった。少なくとも藏重栄一本人の耳に入ってきた事は無かった。
栄一と鈴木は同じ高校の出身者同士だったが当時はまだ付き合いが無く、栄一が裏で言われていた陰口を鈴木が知っており、それが「怒涛の」だの「豪腕の」であったなどという可能性も低かった。
うむ。鈴木の言葉は冗談だ。間違いない。
そうなれば、ここは栄一も言い返すべきなのだろう。言葉のキャッチボールだ。
栄一は意気揚々と言ってやった。
「第六天魔王の鈴木には言われたくないな」
「いや。それは何か違うぞ」
しかし、己のセンスの無さを露呈してしまっただけだった。
「そうか」
しょんぼりと俯いた栄一の頭上で、わははははと鈴木の楽しそうな笑い声が響いていた。
はてさて。気が合っているのかいないのか二人の個性はデコボコだった。
出会った時期や年齢が違っていたら犬猿の仲にさえなっていたかもしれない二人が今のような間柄となれたのはつい最近の事だった。
同じ学校に通っていながらもまるで反対の高校生活を送っていた栄一と鈴木だったが、お互い、学生の本分であるらしいところの勉学の部分は少しばかり疎かになっており、結果としてこのように同じ「受ければ受かる」と口や性格の悪い連中には揶揄されがちな程度の大学に通う事と相成った。
小学校、中学校は別の学校に通っていて高校でも同じクラスにはなった事がなく、それぞれに忙しかった事もあって学校内での交流はゼロに等しかったものの、この大学の受験会場でなんてことのない会話を交わして以来、だらだらと付き合いは続き、気が付けば二人は友人と呼び合えるような仲になってしまっていたのだった。
「んじゃあ。明日の昼にでも行ってみるか」
唐突に鈴木が言った。
「あ?」と栄一はしょぼくれた顔を上げる。
鈴木は、
「藏重が行った事がなくてアルバイトも募集してるところ」
テーブルの上の伝票をすっと栄一に差し出しながら「ごちそうさん」と微笑んだ。
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