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第3話

     次の日の昼、 「着いてからのお楽しみだ」  などと言って行き先についての説明を一切しない鈴木と一緒に栄一は大学を出た。 「おい。目的地までの距離か所要時間くらいは言ってくれ。俺は午後からも授業があるんだからな。あんまり遠い所には行けないぞ」  呆れ気味に訴えた栄一に、 「3限じゃなくて4限からだろ。俺もだから大丈夫だ」  鈴木は簡単に答えた。栄一は苦笑する。 「いや。お前はサボっても『大丈夫』かもしれないけどな」 「わはははは」 「笑って誤魔化すな。店に着く前でも、店の中で何かの途中でも、タイムリミットがきたら俺は帰るからな」 「はいはい」  つついてみても脅してみても鈴木は一向に口を割ろうとはしなかった。こうなるともう栄一に出来る事と言えば眉根を寄せるか肩をすくめる程度が精々であった。  栄一は色々と諦めて鈴木の後に付いていく。  わざわざ昼時に連れて行くという事は飯屋の類か。  昨日のファミレスで話に出ていたスーパーやコンビニ、警備や引っ越しの仕事ではなさそうだ。いや、相手の仕事が昼休みで中断される時間帯を狙って訪ねるつもりかもしれない。という事はこれから栄一が会う事となる人物は、店員とただの客として以上に鈴木と個人的な付き合いのある人間という事になるのか。ただの知り合いか友達か親戚かまでは分からないが何にせよ、鈴木の縁故で栄一がアルバイトに採用される事となってしまうのか。そうなると下手な事は出来ないな。 「いや。何をするつもりもないけれども」 「は? どうした、急に」と鈴木が振り返る。  栄一はまた考えが口から漏れてしまっていた事に気が付いて「ただの呪文だ。気にするな」と強引に打ち切った。 「気になるわ。何の呪文だ」  ゲラゲラと笑いながら鈴木は栄一の肩を叩いた。栄一は、 「知らん」  と真顔で答える。すると鈴木が「ん?」と間の抜けた顔をした。 「何か今、デジャヴったな。何だっけか」  間抜けな鈴木は忘れてしまっているようだったが、ほんの数ヶ月前、大学の受験会場で一人ぶつぶつと呟いてしまっていた栄一に「何の呪文だ」と声を掛けてきたのが鈴木だった。その時も栄一は「知らん」と鈴木に答えたのだが、あれ以来、栄一は意識せずに漏らしてしまっていた言葉を「呪文」と称して、周囲からのツッコミや意地悪な指摘をやり過ごしたりとしていたが、この言葉の元祖であった鈴木に対して使わせて頂くのは今回が初めての事だったかもしれない。 「そんな事よりも」  栄一は鈴木に尋ねた。 「今日の目的は何なんだ? 俺らの勝手な下見か? 先方と顔合わせがあるのか? その場合、事前に連絡はしてあるのか? それとも飛び込みか? まさか、向こうにはもう話が付いていて店に到着して即、働かされるわけじゃないだろうな。俺はまだ何の準備も覚悟もしてないぞ。そんな状態で働かせてもらっても先方に迷惑を掛けるだけじゃないのか」  間抜けな鈴木が「呪文」に関して何か思い出してしまうかもしれないという現状が何となく気恥ずかしく感じてしまった栄一は思わず、鈴木に矢継ぎ早の質問攻めをしてしまった。 「何だよ。そんな小難しく考えてたのかよ」  鈴木は軽く目を見張った。栄一は言い返す。 「お前が何の説明もしないからだろう」 「いやいや。普通に考えて、店に行くだけだろ。普通に客として。藏重的に言えば勝手な下見か。向こうは俺の事なんて知らねえよ。俺も話で知ってるってだけで今日、初めて行く店なんだから。てか普通に藏重がまだ行った事が無い店に行ってみようぜって話だよ。あわよくば藏重のバイト先になるんじゃね? 程度で」 「お前の普通と俺の普通を一緒にするな」  栄一は真っ直ぐに鈴木の目を見据えながらに言ってやった。 「俺の『普通』と鈴木の『普通』のどちらが世間一般の『普通』と合致しているかは別にして」 「何を自覚しちゃってんだ」  鈴木はわははと大口を開けて笑った。 「笑ってる場合か。二人共に世間の普通とは掛け離れてる可能性もあるんだぞ」 「藏重が合ってる可能性はゼロなのかよ」と鈴木は更に笑った。 「ゼロとは言っていない。ただの経験則だ」 「わはははは」  などと取り留めのない話をしながら徒歩と電車と徒歩で合計三十分程度を過ごした頃、鈴木と栄一の二人は見た目の随分と立派な喫茶店の前に辿り着いていた。 「到着」と鈴木が息を吐いた。  移動で疲れたというよりは目的地に着いてしまったという事で、少しばかり緊張をしているようだった。 「此処が?」と栄一は首と目を動かして、その喫茶店をじろじろと見てみた。  洋風の外観はレトロな装いでありながらも古ぼけてはおらず、小綺麗と言うのか、清潔感があって無駄な飾り気が無い、正統派といった印象の喫茶店だった。  看板にある「chiffon」というのが店名だろうか。 「ちっふぉん? ちふぉん?」  小首を傾げた栄一の隣りで鈴木が答える。 「シフォンだ」 「嘘だろう。読めたのか? 鈴木なのに」 「失礼な。全国の鈴木さんに謝罪なさい」 「む」と息を呑んだ栄一が素直に「ゴメンナサイ」と謝りかけたところで、 「ちなみに店名を知ってただけで看板が読めたわけじゃない事は白状しておこうか」  と鈴木は自供した。  栄一は「はあぁ~あ~」と深い深い溜め息を吐いた後、 「やっぱり鈴木は鈴木だったか」  ぼそりと呟いた。 「言い方ッ」と鈴木はいつもにも増して変なテンションで栄一を叩いた。  更には、あは、あははと無駄に笑い声も上げていた。  栄一はふと思ってしまった。 「もしかして。入りたくないのか?」  三十分も掛けてようやく辿り着いた店の前で立ち止まったまま、うだうだとやっている鈴木の姿はどうも栄一の目には尻込んでいるように見えてしまっていた。 「う」と鈴木は分り易く動揺してみせた。 「いや、どうも。俺的には敷居のすっげえ高い店というか。はじめの一歩が踏み出せないというか。藏重をだしに使って店前までは来られたけどな、店内に入るとなるともう一つくらいエクスキューズが欲しかったりしてな」  それは、つい昨日、栄一の事を繊細だチキンだと茶化していた人物だとは思えない言動だった。 「しっかりしろ。第六天魔王」 「そのあだ名はマジで勘弁してくれ。一部の層から畏怖やら羨望の眼差しを向けられそうだ」 「だったら、しゃんとしろ」  栄一にぐぐっと背中を押されてしまった鈴木は、 「ええい。ままよ」  眉間に深いしわを寄せ、意を決した様子で「chiffon」のドアを開いた。 「おお」と鈴木はまたそこで立ち止まってしまう。その後ろに居た栄一はちょいと首を伸ばして鈴木の肩越しに先を見た。  店内には暖かなオレンジ色の照明が灯されていた。豪華というよりはアンティーク調な革張りの椅子と木製の四角いテーブルが並んでいた。そのテーブルの天板は分厚くて、またしっかりと磨き抜かれてもいるようで美しく艶を放っていた。  壁紙は無地だったが柱には煉瓦の模様が見られた。  煉瓦を重ねて柱にしたのか、柱の表面に煉瓦を貼り付けたのかは分からない。もしかしたら単なる煉瓦模様のシールなのかもしれないが栄一にはどのような造りが一般的だったりや普通だったりとするのかなど全く知らなかった。ただ、 「本格的だな」  何となくそんなふうに感じられてしまった。 「chiffon」の内装はその外観と同じように、まるで古い映画や小説といったフィクションの中にあるような喫茶店然としていた。

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