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第23話
この日、藏重栄一は生まれてはじめてラブホテルに入った。
表示されていた料金は最短の90分で2980円だったがカラオケ屋とは違って、一人あたりではなく一部屋分の値段だった。
「知らなかったな。普通のホテルとか旅館は一人あたりだった覚えがあるけれども」
それを栄一と奈月で割れば一人分の支払いは約千五百円だ。一時間半で千五百円を三十分で五百円とすれば確かに昨日、鈴木と入ったカラオケ屋よりも安かった。
「よく利用されているんですか」
栄一は「お買い物上手ですね」とか「流石ですね」程度のつもりで口にしたのだが奈月からの反応は無言の蹴りだった。
「痛」と栄一は反射的に呟いてしまったが実際は痛みなど感じていなかった。
ここまでの経緯、目の前に広がっている光景、これから起こるであろう事、現在、栄一の頭の中では処理しなければいけない情報がぐるぐると駆け巡っており、生半可な奈月の蹴りでは刺激として全く足りていなかった。
昨夜、鈴木と別れた栄一は自宅に戻った。朝を寝過ごして昼前に起きる。スマホにミトからのメッセージが届いていた。「鈴木の友達であるところの藏重栄一」に話があるとの事で呼び出された。待ち合わせ場所はミトが勤める喫茶店や栄一がバイトをしているラーメン屋が在る駅の前だった。約束の時間の十分前に到着していた栄一が待つ事、五分。予定のきっかり五分前に姿を現したのはミトではなくて奈月だった。
足首まである白いスカートをはいていた。生地の厚さか素材のせいか夏の日差しに照らされた白色は透き通るみたいに輝いていた。
率直に言えば、レースのカーテンを身にまとっているみたいだなあと栄一は思ってしまったが褒め言葉には聞こえないだろうなと考えて口には出さなかった。
最初、奈月は白いワンピースを着ているのかと思ったが良く見ればスカートと同じ白色のTシャツを着ていた。胸に英語で何か書いてあったが場所が場所だけに凝視も出来ず、栄一には何と書いてあったのかは分からなかった。
手には四角いバックを持っており、黒いリボンの麦わら帽子を被って、編み込みのサンダルを履いていた。
その姿は、
「可愛い。いや、綺麗でもある。でも可愛いな」
ただただ良かった。
奈月と目が合う。頭を下げる。
「どうも」
「お待たせしました」
栄一と奈月の言葉が重なった。
「えっと。あの。ミトさんは?」
挙動不審気味に栄一が尋ねると奈月は不思議そうな顔を見せる。
「来るんですか?」
「来ないんですか?」
質問に質問で返されて質問を返す。栄一は軽く混乱していた。
「今日は私と藏重さんの二人です。少しお話をしたくてお呼び出ししました」
見るに見兼ねたか奈月が丁寧に状況を説明してくれるも先日の喫茶店奥とはまるで別人の様子である奈月の姿に栄一はまた別の戸惑いを覚えてしまってもいた。
猫を被っているのかそれともこちらが奈月本来の姿なのか。他人の目がある駅前だから落ち着いた態度を見せているのか、単純に今現在はあの時のようにテンパってはいないから穏やかな素顔でいられているのか。
「ええと。じゃあ。ファミレスにでも。この近くにもあったかな」
奈月から「藏重さん?」と声を掛けられて我に返った栄一がした無難な提案は、
「他の人には聞かれたくない話なのでファミレスはちょっと」
と却下されてしまった。つい最近、聞いた気がする台詞だった。
「えと。個室が取れるお店ですか」と栄一は何故か恐る恐ると聞いてしまった。
「個室って言っても顔が見えないだけで声は筒抜けのところが多いですよね」とまた奈月の却下が入る。
「カラオケボックスとか」
「隣りの歌声とか意外と聞こえてきますよね。落ち着かないと思います」
良く御存知で。栄一がつい昨日、気付かされた事を奈月は既に知っていた。
「そうなると。外ですかね。海辺とか。辺りを見渡せる場所で。誰かが来れば分かるだろうから。その都度、話を止めれば」
「本気で言ってる?」
奈月が困り顔を見せる。栄一は「あ。いえ」とすぐに否定してしまった。
例えばミトの困り顔はポップと言うかどこかキャラクターじみていて可愛らしい。例えば鈴木の困り顔はわざとらしい上に冗談ぽくて、更に一発、御見舞したくなる。けれども奈月の困り顔は弱々しく儚げで、少なくとも栄一は、罪悪感のようなものを刺激されてしまった。
困り顔の奈月は嗜虐性のある人間が見ればもっといじめたくなりそうで、庇護欲が強い人間が見れば抱き締めてあげたくなるような雰囲気を醸し出していた。
「外はイヤ。気分的に。落ち着かない」
栄一の「本気で言っていない」提案をこの場を和ます為の冗談だとでも受け取ってくれたのか奈月が急に砕けた感じで首を横に振った。
「ええと。じゃあ。他には何処があるかな」
「二人きりになれる個室って言うと普通に考えればお互いの自宅とか」
「それは、まだ早いというか軽々しく行き来するような場所ではないような」
「ラブホとか」
「あの。駅前ですよ。この会話がもう既に他人には聞かれたくない会話なのでは」
「自宅なんか知られたくないし。君の家にも行きたくないから」
栄一の言葉は全く届いていないようで、奈月は何だか台本でも読んでいるかの如くすらすらと話を進めていた。
「いや。けれども」
と渋る栄一を、
「良いよ。ラブホの休憩で」
奈月は強引に押し切ろうとしていた。
最初の「個室」が云々の際に見せてしまった栄一の及び腰を、
「安いトコロならカラオケ屋と同じような値段じゃない」
なるほど、奈月はそのように解釈していたのか。
「いえ。値段の問題で嫌がっているわけではないのですけれども」
などと答えながらも栄一はこの数十分後、昨夜のカラオケ屋よりも安い利用料金に気を抜いて、不用意な発言をしてしまい、奈月に無言で蹴りを入れられてしまうとは思ってもいなかった。
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