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第29話(終)
普通の顔を装って、普通の速度を意識しながらに栄一はラブホテルの一室を出る。
近過ぎず、離れ過ぎてもいない距離で栄一と奈月の二人は並んで歩いていた。腕は組まず、手も繋がない。友達の距離とでも言おうか。ごく普通の距離が二人の間には空いていた。
建物の入り口から道路に出て十数秒後、距離にすると約二十メートル、歩数にして三十歩程度も進んだところで栄一は、
「ふう」
と肩の力を抜いた。どうやら過剰であったらしい緊張を軽くほぐした。
「どうしたの」
隣りで奈月がからかうみたいに微笑んだ。
「ああ。ええと。鈴木は居なかったなと思って」
「鈴木君?」
怪訝そうな顔をした奈月に栄一があたふたと説明を試みる。
「ええと。漫画やらドラマだと、こんなような、二人が並んでホテルから出てくる場面を偶然、現在の我々にとっての鈴木的な立ち位置のキャラクターが目撃してしまうみたいな展開がありがちな気がして。まさかとは思いながらも、本当に鈴木が居たらどうしようかなと」
「ああ。確かに。昔ながらというか、ちょっと古い気もするけど、それも王道パターンの一つではあるよね。まあ、実際に起きたら偶然というよりもストーカー的行為を疑っちゃいそうだけど」
「ええ。だからというか。二重の意味で、もしも鈴木が居たとしたら怖いなあと」
引きつり気味の笑みをこしらえた栄一に対して、奈月は、
「怖いねえ」
うふふとまるで他人事のように笑っていた。
栄一は気を取り直すみたいにゴホンと一度、咳払いをしてから、
「鈴木に関して言えば」
と奈月に話を振った。
「報告のタイミングは計らないといけないとは思いますが、これで解決しますよね」
しかし。奈月は、
「うん? ごめん。なんだっけ?」
とぼけているわけではなさそうな顔を栄一に向ける。
「忘れないでくださいよ。奈月さんが鈴木の求愛行動に困っているっていう話です。そもそも今日はその話をする為に会ったはずですよね、俺達。結果的にはこんな事になってしまってはいますけれども」
「あー、あー、あー。はい。それね」と非常に軽い感じで頷きながらも奈月は、
「でも解決はしてないんじゃないの?」
真顔でそんな言葉を口にした。
「え? でも」と栄一は戸惑う。
「奈月さんに恋人が出来たらきっぱりと諦めると言ったのは鈴木自身ですよ?」
うん。確かに言っていた。栄一の記憶違いや捏造、曲解の類ではないはずなのだが先程の奈月の言動には妙な説得力が醸し出されていた。自信満々で自説をのたまったというよりは、ただの事実を淡々と告げられたかのようだった。
「どうなのかなあ。当然、私よりもお友達の藏重君の方が鈴木君の性格は理解してると思うんだけどね。私が勝手に思っちゃうにはさ、そういう殊勝っぽい事を自分から言っちゃうヒトって案外、諦めが悪いというか。鈴木君がゼッタイにそうだっていうわけじゃあないんだけど。イメージ的にさ、往生際でゴネそうな気がすごくしちゃうんだよねえ」
「もしくは」と奈月はその表情を微妙に変えて、続ける。
「真逆に振り切っちゃったりしてね。運命だなんて思い込んでた『恋』が叶わなかったと解った途端に『よくよく考えてみればアレは「恋」ではなかった』とか言い出したりして。単なる気の迷いだったどころか『いいえ。そんな事実は、はじめからありませんでしたけど?』みたいな顔で、都合良く過去をリセットしちゃったりしてさ。しまいには藏重君の事をつかまえて『おい、正気か? 男同士で付き合ってるなんてキモいぞ』とか言われかねないよ? 大丈夫?」
奈月は最後に茶化すみたいな笑顔を見せたが、栄一はそれこそ「大丈夫?」という言葉を口にしかけてしまった。
明るくて軽い笑顔のカノジョが、何故だろうか、栄一の目には精一杯に強がっているように見えてしまったのだ。奈月はこれまでどんな「恋」をしてきたのだろうか。
「大丈夫?」とここで気軽に気遣ってしまう事で、カノジョの古傷や自尊心を下手に刺激してしまったりはしないだろうか。それではただの御為ごかしだ。自己満足だ。
「まだ」と栄一は思う。まだ、早い。きっと。残念ながら。
今は何も聞けずとも、いずれは気軽に気遣える間柄になりたい。
隠し事は無しで何でもかんでも話し合える関係を理想的だとは栄一も思えないが、それでも、ふとした瞬間の気遣いを躊躇してしまうようなこの距離は縮めていきたいと思ってしまった。
もっと言うならカノジョが過去を思い出す暇も無くなるくらいに、二人の今を充実させていきたい。
目的は奈月の過去を知る事ではなくて、ただただ、カノジョに笑って欲しいから。
幸せそうな笑顔が見たいから。
「だから。もしかしたら藏重君は友達を失ったり、最悪、逆恨みから鈴木君に刺されちゃったりするかもしれないけど。それでも頑張れる?」
「頑張ります」
即答だった。ふんっと鼻息を鳴らしながら栄一は頷いていた。
「お。なんだか心強いね」
からかうみたいに奈月が笑った。その顔だ。その顔をもっと見たいと栄一は思う。
今の時点で前途多難かそれとも一件落着しているのか、鈴木やミトといった周囲も含めた二人の行方はまだまだ不明だった。
今現在、藏重栄一の気持ちは十分にハッピーではあったが、だからと言ってここでエンドとはならないのが現実だった。
「夏はあんまり好きじゃないんだよね」
「そうなんですか? 好きそうというか。似合ってる気もしますが」
「だって。冬の方が色々、可愛いじゃない」
「え?」
「ニットとかコートとかブーツとかね。あと首に触れてる布感も含めて、マフラーが好きなんだけど、いくら好きでも、さすがに夏は巻けないしね」
「ああ。びっくりしました。冬が可愛いとか。不思議ちゃん的な発言だったのかと」
「うふふ。ごめんね。ちょっと言い方が変になっちゃってたかな。でも。藏重君さ、今、私が天然さんだったと思って、ちょっと引いてた? 寂しいなあ」
「いえ。そういった人に対しての理解力を高めるにはどうしたら良いのかと考えてしまっていました。一緒に居る時間が長くなれば自然と慣れるのか、とか」
「なるほどねえ。一緒に居る時間を長くすれば良いのか。参考にさせてもらおう」
「参考って。どなたか不思議な人が身近に居るんですか?」
「えー。うん。今、目の前にね。うふふ。藏重君て実はちょっと天然ぽいもんね」
「ええ。ええッ? そうですか? そんな事ないですよ。ないですよね? えっと。俺の何処ら辺が天然ぽいですか?」
「うーん。そういうところが、かな」
「ええ? どういうところですか?」
取り留めのない話をしながらゆっくりと二人は並んで駅まで歩いた。
別れ際、
「忘れていました。奈月さん。連絡先を教えてもらえますか」
栄一に言われた奈月は「あー」と困ったみたいな顔をした。
仮にも恋人同士となった栄一との連絡先交換を今更ながら渋っているというわけではなさそうだったが、何だろうか。どうかしたのだろうか。
「了解。それじゃあ、藏重君のスマホを貸して?」
色々と不思議に思いながらも栄一は素直に自分のスマホを奈月に手渡す。数分後、
「はい。できた」
奈月から返されたスマートフォンには確かに「奈月」の連絡先が登録されていた。
「ありがとうございました。また連絡をします」
言った栄一のスマホが早速、鳴った。「え?」と驚いた栄一を、
「先手必勝。私の勝ちだね」
奈月が笑った。
好きだ。
その顔を見せられた瞬間、つい先程に浮かんだはずのちっぽけな疑問はすっぽりと完全に栄一の頭から抜け落ちてしまっていた。おや。何だろうか。この感じ。これとよく似た経験をずっと以前の何処かでしたような気もしたが、そのような事もまた、次の瞬間にはどうでもよくなっていた。
実は、栄一のスマホに「奈月」の名前が入力されたこの際、それまでは入っていた一人の男性の名前がこっそりと消去されていたのだが、藏重栄一がその事実と理由に気が付いたのは随分と後になってからだった。
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