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第52話 洵一
キッチンのシンク横での、時間さえも止まったかのような熱く静かな抱擁の後、巽は意を決して言った。
「巽さんって言うの、そろそろやめないか」
有希也は不意をつかれ、あまりにも簡単な返答をした。
「巽さんじゃ、だめ?」
「だめじゃないけど、イヤだ」
巽は照れた自分の顔を見られないように、有希也の顔をもう一度自分の胸に押し当てた。
押し付けられた有希也はくぐもった声で言った。
「洵一さん」
「それは、巽さんとあんまり変わらないな」
照れ隠しか、素っ気なく言った。
「じゃ、洵ちゃん」
「ママを思い出すから、絶対やめろ」
じゃあ、と一呼吸おいて
「洵一」
「うん」
有希也は次のベッドの中では、巽を洵一と呼べるかなと、くすぐったい想像をしてみた。
巽は抱きしめていた手を有希也の膝裏にまわして、優しく抱き上げた。
一瞬有希也の顔が引き攣ったのを、巽は見逃さなかった。
「違うよ。今日は何もしないよ」
巽は抱き抱えたままリビングのソファに深く腰を下し、有希也が楽にくつろげるように、自分の膝の上に有希也の頭をのせた。
膝枕で横になっている有希也を見つめながら、巽は心がゆっくり幸せで満たされていくのを感じた。
「オレ、やっぱりピンクのクッション買ってもらおうかなぁ」
有希也は悪戯っぽい表情で甘えるように言った。
「仰せのままに、お姫様」
微笑みながらも引き締まった表情で巽が言うと、有希也は満面の笑顔で巽の首に手を回し、見つめながら言った。
「愛してるよ、洵一」
有希也は自分が言った言葉に恥ずかしくなり、首に回した手を外して自分の顔を隠そうとした。
巽はその手を掴み、有希也に顔を近づけた。
二人は優しいキスの時間に溶け込んでいった。
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