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第4話
クラスメートではあったが友達ではなく、話した事も無いと思っていた安藤草太がちらちらと視線を送り続けてきていた事から史彰も遅ればせながら安藤草太の存在に気が付いたという次第だった。
史彰の方から気付けずにいた言い訳ではないが、史彰の擬態に負けず劣らず、安藤草太の擬態も完璧の域にあった。
大勢の友達やファン達に囲まれていたあの頃の面影は薄く、安藤草太はすっかりと陰気っぽくなっていた。
史彰の擬態とは正反対に見えて、小学生当時の本来を思えば、なるほど、全く同じ種類の「擬態」だった。
今は陰気な安藤草太は自信に溢れた人気者だったし、今はにこやかで社交的な史彰も当時は他人と話す事が苦手な引っ込み思案だった。稲葉史彰も安藤草太も、およそ本来の自分からは対極の姿へと擬態したのだ。
ちらちらと視線を送られる事から自身の擬態を見破られているのだと感じた史彰は「バレるなんて」と戸惑ったり、軽く落ち込みながらも、あの安藤草太に気が付いてもらえたという事を、
「流石の観察眼だ」
などと嬉しくも感じてしまっていた。
気が付きながらも安藤草太は擬態中の史彰に気を遣って気軽に声を掛けてきてくれたりとはしなかったのだろうと史彰は勝手な解釈をしてしまっていた。そちらで気を遣ってくれている限り、史彰の方から無遠慮に踏み込むわけにもなかなかいかずに、やきもきともしてしまっていたが仕方がない。
ちらちらとだが見てくれていた安藤草太と、たまに視線を合わせる事だけが二人のコミュニケーションとなっていた。史彰はそんなふうに感じていた。安藤草太はちらちらと良く見てくれる割には史彰と目が合うとすぐさま顔を逸らしてしまうあたり、「気を遣い過ぎだなあ」なんて史彰は良いように良いように考えてしまっていた。
稲葉史彰の自宅には、あの日、こっそりと持ち帰ってしまっていた安藤草太の「力作」があった。それを手にした時には、捨て置かれた漫画に対する緊急避難的な意味合いもあったが、その後も安藤草太に漫画を返す事が出来るような機会には恵まれず今の今にまで至ってしまっていたのだ。
あれから五年が経って、クラスメートにもなれて、無言のコミュニケーションまで取れている今なら、あの「力作」を返す事も出来るだろう。それをきっかけに、今の目と目でしか遣り取りの出来ていない交流も、もしかしたら、少しは進展してしまうなんて事があるかもしれないという淡い期待もあった。
ただ、この「力作」を返すとなると、やはり、惜しくなってきてしまうのは最低な感情だろうか。少なくとも正直な気持ちではあった。
史彰にとっては最早、聖書とも言えたこの「力作」を手放すのならば、今後は今の安藤草太が描いている漫画を読みたい。読む機会が是非ともに欲しい。交換条件ではないが素直な欲求だった。
漫画を返して、安藤草太との仲がもっと良くなれば、新作の漫画を見せてもらえるようになるだろうか。どうだろうか。無理だろうか。
考え始めてしまったらもう安藤草太の新作漫画を読みたい欲が抑えられなくなってきてしまった。安藤草太の描いた漫画が、また読みたい。読みたい。読みたい。
或る日、我慢の限界を迎えてしまった史彰は放課後の安藤草太を尾行してしまう。てっきり、漫画研究会だとかに入っているものと思い込んでいたが美術部に所属していると見聞きして、一度は驚いたが、これも実は擬態の一つで本当は美術部の裏側で「力作」のようなイラストを描き続けている事を知った。
楽しげにひそひそと安藤草太の話をしていた美術部と思しき二人の女子に、史彰は「安藤草太がそういった漫画を描いている事を知っている」と話し掛けたつもりが、二人の女子には「安藤草太が稲葉史彰をモデルにそういったイラストを描いている事を知っている」イコール「本人も公認」だと勘違いされて、片方の女子などは鼻血を流してしまうほどに興奮していたが、誤解はそのままに史彰は安藤草太の事を根掘り葉掘りと聞き出した。
そうして、あの日だ。
以前は描いていたはずだが今の安藤草太は「フィクションが描けない」と言った。そんな今の安藤草太が漫画家になるという夢を叶えられるとは思えなかった。
安藤草太には幸せになってほしい。漫画家になるという夢を叶えてほしい。
安藤草太の漫画に救われた一人のファンとして、それは一方的な恩返しだった。
「フィクションが描けない」という安藤草太に漫画を描いてもらう為に、ノンフィクションで彼に迫った。安藤草太が男性同士の行為に拒否感を持っていないという事は過去の「力作」から察してもいたから、そういった意味のブレーキは要らなかった。
確かに強引ではあったかもしれないが史彰は後悔も反省もしていなかった。
ただ、あの時の史彰は本当に「恩返し」の一心であっただろうか。
旧知の仲で、今ではアイコンタクトを取り合う間柄で、二人共に同じような秘密を持っていて、つまりは自身のキャラクターを偽っているわけだが、互いにその正体を承知している。運命共同体と言うのは大袈裟だが、少なくとも似た者同士の仲間なのだと思っていた。
だから、二人きりになってしまいさえすれば、誰の目を気にする事もなく、秘密を秘密にしておく必要もなく、昔の自分と昔の安藤草太に戻って、楽しくおしゃべりが出来るだろうなんて思っていたのに、現実は違っていた。全然、違う。全く違った。
史彰の前で何故か床に正座をした安藤草太はよそよそしくしゃちほこばっていて、まさしく他人行儀なその態度から、稲葉史彰はずっと一人で勝手な勘違いをしていたのだという事に気付かされた。
安藤草太は、稲葉史彰が自分の描いた漫画のファンだった事に気が付いていない。まだ思い出していない。いや、そもそもが稲葉史彰という存在を知らないのか。
あの頃の安藤草太を取り囲んでいた大勢の友達やファン達の中の一人だ。知らなくても不思議はない。特にあの頃の稲葉史彰は非常に消極的な性格で、安藤草太の友達でもなければファン達の中でも最後列に居たような存在だ。考えてみれば、あの頃の稲葉史彰を知っているという方がオカシイくらいだ。
考えてみれば、ちゃんと普通に考えていたなら、簡単に分かる話だった。
でも、
「うん。俺の裸やら、俺と見知らぬどっかの誰かさんとのセックスやらが大人気って話を聞いてさ。盗撮でもされたのかと思ったら、君が描いてたんだね」
気が付けば史彰は嫌味を口にしてしまっていた。
「これはフィクションじゃないの? 俺の裸とかセックスとか見た事があるの?」
言いながら嫌になる。でも止められない。自己嫌悪しながらに史彰は言っていた。
「ふうん。でも、それで漫画家になれるの? 安藤は漫画家になるんでしょ?」
今までは隠してきた、上手に隠す事の出来ていたはずの本来の自分がひょっこりと顔を覗かせる。
それは史彰の我儘だったのか、それとも自棄を起こしたかっただけなのか、
「面白い現実をプレゼントしてあげるから。漫画に描きなよ」
八つ当たりだったのか、当て付けか、当て擦りか、何だろうか。
ただ、もう、いってしまえという気持ちになってしまった。
安藤草太に対する「恩返し」の気持ちはあった。確かにあった。
でも、もしも、安藤草太が彼の描いた漫画の一ファンであった頃の稲葉史彰を覚えていたなら、アイコンタクトでのコミュニケーションが史彰の勘違いではなかったとしたら、あんなふうに安藤草太を押し倒したりとしただろうか。
史彰は後悔も反省もしていない。ただ、疑問は残っていた。
あの日、安藤草太が描いた耽美なイラストのモデルが自分だったと知って、史彰はその理由を尋ねた。
「何で俺なの?」
史彰はどんな答えを期待してしまっていたのだろうか。
「稲葉サンが格好良過ぎて、つい、ペンが走ってしまいました」
実際の答えに史彰は「ふうん」と頷いた。
あの時、別の答えを聞かされていたなら史彰もまた別の形で「恩返し」をしようとしていただろうか。
分からない。
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