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第1話 約束①
──五年前
冬の気配を纏 う北風を肌に感じながら、咲人は家路を急いでいた。
友人宅でのゲームが白熱してしまい、気づけば門限を大幅に過ぎてしまっていたのだ。
このままでは母親の雷が落ちてしまう……いや、既に落ちることが決まっている。
自宅まであと数分といったところで、咲人の耳が弱ったような動物の鳴き声を拾った。
──子猫の鳴き声……迷子猫か?
その鳴き声は、どうやらちょうど通りかかった公園の中からしているようだった。
このまま帰ってもどうせ、母親からお咎 めを受けるのは決定事項だ。
咲人は公園内に足を踏み入れ、子猫の様子を伺うことにした。
夕暮れのチャイムが鳴り終わった後の公園は、人っ子一人いない。
昼間とは打って変わって薄暗い公園内は不気味で、異様な雰囲気を醸 し出している。
咲人は少し怖さを感じつつも、子猫の鳴き声がする方へと足を進めた。
鳴き声を辿っていくと、やがて土管のような遊具の前に辿りついた。
──大丈夫。今、助けてやるからな。
一呼吸置き、中を覗いた瞬間。咲人は思わず小さな叫び声をあげてしまった。
遊具の中には、自分と同い年くらいに見える美しい少年がいた。
少年の腕には、首から血を流した子猫が抱かれている。
そして今まさにその少年が、子猫の首元に噛みつこうとしていた。
「っ……!やめろ!なにしてるんだよっ」
咲人の存在に気がついた少年が、こちらに振り向いた。その口元は真っ赤に濡れている。
「もしかして……子猫の血を……飲んだの……?」
その問いかけには返事をせず、少年はただこちらを見つめている。
──間違いない。この子は……吸血種 だ。
この世界には、吸血鬼の末裔と云われている『吸血種』が存在する。
吸血種の食事は血液であるが、それ以外のことは他の人間と変わらないため、同じように生活している。
咲人の通っている学校にも数名いるが、吸血種の子が血を吸っているところを、咲人はまだ見たことがなかった。
──しかも動物の血を吸う人がいるなんて……そんなの聞いたことないよ。
少年の腕の中にいる子猫は、咲人に助けを求めるように鳴き続けている。
──とりあえず子猫を救出して、すぐに手当てしないと……!
「なぁ、その子を解放してあげてほしい……んだけど……」
しかし少年は無言でこちらを見つめたまま、その場から動かない。子猫を手放す気はないようだ。
咲人は刺激しないように、ゆっくりと近寄った。そっと手を前に出し子猫を受け取ろうとするも、少年はそれを拒否するように子猫を抱え直す。
その衝撃で、子猫が悲痛な鳴き声を上げた。
このままでは本当に、子猫が死んでしまうかもしれない。
「お願い……その子を助けたいんだ」
そう懇願するように呼びかけると、少年はようやく口を開いた。
「……血」
「……え?」
「君の血をくれるなら、いいよ」
非道な少年から発せられたその声は、この場に似合わず落ち着いていて、想像していたよりも遥かに優しいものだった。
思わぬ衝撃を受けたが、今この少年は子猫の命と引き換えに、咲人の血を要求しているのだ。二人の間に沈黙が流れる。悩んでいる間にも子猫の息はどんどん荒くなっていき、目に見えて弱っていく。
「わ、わかった!俺の血を飲んでもいいから……」
その言葉を聞いた少年は、素直に子猫を咲人へ引き渡した。
しかしそれと同時に、少年の顔が咲人の首元に近づいてくる。
「ま、まって……!その前にこの子を、病院に連れて行ってもいい?」
そう言って近づいた体を押し返すと、少年はまた咲人のことをじっと見つめてきた。
淡いペールブルーの色をした瞳の奥で、咲人が嘘を言っていないか確認しているかのように。
「……いいよ」
少年はそう言うと、咲人の体からゆっくりと離れていった。
咲人は子猫を抱きかかえ、急いでその場から立ち上がる。
「待ってて、必ず戻ってくるから!」
少年にそう告げると、咲人は再び自宅へと走り出した。
公園から出る頃には既に街灯が点き始めていて、辺りは真っ暗になっていた。
通り抜けていく住宅からは、美味しそうな晩御飯の匂いや、子どもたちが風呂ではしゃいでる声がしている。
咲人は初めから、あの場所へ戻る気が無かった。少年に嘘をついたのだ。
だって子猫がこんな姿になっているところを見たのに、自分の血をあげるだなんて。そんなことができる人は、正気じゃないだろう。ああでも言わないと、少年は子猫を離してくれないと思ったのだ。
冷たい北風から守るように、咲人は小さな体を抱え直す。
──あの子もきっと、諦めて家に帰るはず。
咲人はそう思っていた。
少年が咲人のことを見えなくなるまで見つめていたことも、知らずに。
家に帰ると、玄関で待ち構えていた母親にこっぴどく叱られた。
だが咲人が抱えていた子猫を見た瞬間、母の目はすぐに獣医のものへと変わった。
咲人の家は動物病院を営んでいる。そのため咲人は根っからの動物好きだ。
幼い頃から、母のすぐ側で命の儚さを教えられてきた。だからどうしても、この子の命を救いたかったのだ。
子猫を母に診てもらったところ、幸い命に別状はないらしく、しばらくうちで様子をみようとのことだった。それから難しい表情をした母に、「この子をどこで拾ったのか」と聞かれたが、咲人は「道で弱っていた」とだけ答えた。本当のことを言わなかったのは、少年への後ろめたさがあったからだ。
壁にかかった時計を確認すると、針は既に二〇時過ぎを指していた。
もちろん、あの子との約束を忘れたわけではない。むしろ忘れようとすればするほど、自分がしたことへの後悔の念が強まってくる。
でも、どれぐらいの量を求められるかもわからない。ひょっとしたら子猫の代わりに、自分が死んでしまうかもしれない。そんなところへわざわざ自分から向かう人なんていないだろう。
もう子どもが一人でうろつくような時間ではない。あの子もちゃんと家に帰ったはず。
そうやって何とか理由付けをして、少年との約束から目を逸らすように、咲人は眠りについた。
翌朝、子猫は元気に鳴いていた。
餌を与えてやると、可愛いらしい声をあげながら咲人の手に頭を擦り付けてくる。
「……良かったよ、お前を助けられて」
突然、大きな音が家中に響いた。その音に驚いた子猫が、ソファの下にすばやく潜り込む。
窓の外からは叩きつけるような雨と、雷の音が聞こえている。
今日は朝から警報級の大雨が降っていた。幸い土曜日のため、学校はない。
咲人はやはり、あの子のことが気になっていた。
昨晩降り出した雨とともに罪悪感が募っていき、結局夜も眠れなかったのだ。
──少し、覗いてこよう。いるかいないか、確認するだけ……。
そう決めて、咲人は傘を手に取ると、昨日の公園に急いで向かった。
外は想像以上の雨風で荒れていた。
すれ違う人の数は少なく、こんな日に出かけているような子どもの姿も見当たらない。
どうかいないでくれと願いながら、咲人は目的の公園まで辿り着いた。
少年がいた土管の遊具の前に立つと、咲人は耳を澄ませる。すると信じられないことに、中から苦しそうな息遣いが聞こえてきた。
慌てて中を覗き込むと、あの少年が肩で息をしながら倒れていた。
「……っ!どうして……!」
咲人は戸惑いながらも、その体に触れた。少年の体は石のように冷たい。まさか、昨日からずっとここにいたのだろうか。咲人の問いかけが聞こえていたのか、少年の体がびくりと動いた。
「君が……戻ってくるって、言ったから……」
少年は酷く掠 れた声で、そう呟いた。
あの時、彼は血に飢えていたのだ。それはおそらく、動物の血を吸わなければならないほどの、酷い飢え。咲人はその食事を取り上げて、甘い誘惑だけを残した。そしてその約束を破ったのは、他でもない自分だ。
「っ……ごめん、ごめんね……」
咲人は自分の首元を見せるように服を引っ張ると、少年の前にしゃがみ込んだ。
「……飲んで、俺の血。それできみが……助かるなら……っ」
咲人の首筋に導かれるようにして、少年の体が動いた。怖くて、無意識に力が入る。そして目を瞑った瞬間に訪れた、首筋に牙が刺さる感覚。
「っ…………!」
ところが、痛いのは牙が突き刺さったその一瞬だけで、あとは不思議な感覚が続いた。
そしてそれは僅か数秒の出来事で、最後に傷口を舐められた後、少年は離れていった。
「……もう、いいの?」
それは拍子抜けするほど、あっさりとした吸血だった。
「うん……ありがとう」
そうお礼を伝えてきた彼の顔色は、先ほどよりもだいぶ良くなっている。
咲人はほっと胸を撫で下ろすも、すぐさまその瞳から逃れるように俯いた。
「嘘ついて、ごめん………」
咲人は少年のことを、裏切った。それは紛れもない事実だ。
「嘘じゃないよ。君はちゃんと、来てくれた」
その言葉に、咲人は顔を上げる。
少年は、咲人のことを疑いもしないまっすぐな瞳で、こちらを見つめていた。
「……俺、綾瀬咲人 っていうんだ。ねえ、きみの名前は?」
「………理央 」
それは咲人の人生を大きく変える、運命の出会いだった。
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