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トラヴィスは背もたれに寄りかかったまま、香ばしいコーヒーの匂いに寛 いだ気分になる。屋外で食べるのは珍しくないが、悠々と流れる川の音を聞いたり、草木の匂いを肌で感じながら食べたりするのはあまり経験がない。しかもジェレミーと一緒である。
――不思議な感じだな。
すぐ隣のテーブルでは、若い赤毛の髪の男性とブルネットの女性が話に興 じている。女性の方が身振り手振りを交えて話していて、男の方は白ワインを飲みながら相槌を打っている。恋人同士なのだろう。いい雰囲気だ。
反対側のテーブルでは、プラチナブロンドの痩身 の男性が一人食事を取っている。食べているのはチョコレートのデザートだ。口に合わないのか甚 く顔をしかめて、周囲の談笑など耳に入っていないかのように背中を丸めて食べることに集中している。
「穏やかな風景だ」
トラヴィスは流していた視線を声の主へ戻す。ジェレミーは薄暗い中でも、相手の顔の表情まで見えるというように澄んだ青い目をじっとそそいでいる。
「そうだな。俺たちのサバイバルな日常に一番足りない要素だ。ベッドの上で眠る時だけ、人生が安らぐ。現実世界から堂々と目を瞑 れるからな」
「悪くはない人生だ」
「ああ、だから毎晩硬いベッドの上で神様に感謝しているんだ。毎日くたくたにして下さってありがとう。願わくは、いつか俺に柔らかくて背中の痛まないベッドをプレゼントして下さいとな」
まるでその情景が鮮明に浮かんだかのように、ジェレミーは口の端 で笑う。
「プレゼントして欲しいのはベッドだけか」
「あまり欲を出すと、マムとダディに怒られる。この年で尻を叩かれたくない」
トラヴィスは大袈裟に肩をすくめてみせる。
「二人が生きていたら、きっと俺に呆れるだろう。ガキの頃と全く変わっていないからな」
「そうは思わないが」
トラヴィスの両親のことは承知している。本人から教えられた。
「お前の姿を見たら、誇りに思うだろう」
「だったら嬉しいがな。俺は怒られることばかりしてきたからな」
トラヴィスは笑いながらコーヒーカップを手に取った。白くてゆるい楕円 の形をしたカップからは、新鮮なコーヒーの良い香りがふんだんに匂ってくる。
「コーヒーがうまいところは、俺の経験からいって料理もうまい。楽しみだ。きっとスペシャルだ」
一口飲んで、自信たっぷりに断言する。
「コーヒーと食事に関しては、お前の経験は信頼できる」
ジェレミーもカップを口元へ持っていく。
「素晴らしいことだ、トラヴィス」
「褒めているのか貶 しているのかよくわからないのがお前の欠点だな、ジェレミー」
「無論、褒めている。当然だ」
「俺がうっかりお前の靴を舐めてしまうレベルで言えよ」
ニヤニヤしながらコーヒーを飲む。
「お前の両親は元気か」
両親が懐かしくなったトラヴィスは、ついジェレミーへも話を向ける。
「ああ」
ジェレミーはひどくあっさりと頷いて終わる。
「それだけか」
「元気だ。ニュースにはなっていないようだからな」
まるで捜査のレポートの内容を報告するような口ぶりである。
トラヴィスの表情が少々微妙になった。
「お前の人生に介入する気はないが」
カップの表面に視線を落として、口をつける。
「もう少し、優しい言い方をしたらどうだ。仲たがいをしているわけではないんだろう?」
ジェレミーの両親に関しては、トラヴィスも詳しくは知らない。ジェレミーも特に話すことはなく、トラヴィスも殊更 に聞かない。ただすでに亡くなっている自分の両親とは違い、ジェレミーの両親は健在なはずだ。現時点では。
「連絡を取りあってはいないが、おそらく元気に暮らしているだろう」
ジェレミーは白いソーサの上にカップを静かに置くと、トラヴィスへどうだというように顎をあげた。
「これで満足したか」
「俺が親だったら嬉しいだろう」
トラヴィスはカップを胸元まで下げると、十分だというようにウィンクをする。
「お前を誇りに思っている。そう思わない親はいない」
「だといいがな」
ジェレミーはテーブル側の地面に置かれた照明用のライトに目をやる。ライトは光の奥からこぼれ出るように眩しい。
「父と母には、それぞれの人生がある」
ジェレミーは目の前にいる恋人を向いて、特別な感傷もなく言い切る。
「それでいい」
トラヴィスはジェレミーらしい言葉に頭を軽く振って頷く。
「お前にはお前の人生があるようにな」
「そうだ」
やがて、先程の元気なサーバーがコース料理を賑やかに運んできた。
「あなた方にとって、スペシャルな時間になりますように!」
白いレースのテーブルクロスの上に置かれたのは、赤ワインが注 がれたグラスに、シーフードのホタテの前菜はトラヴィスへ、ジェレミーにはモッツァレラとアスパラガスが添えられている前菜だ。
二人はグラスを手に取ると、軽く乾杯をした。
「楽しもうぜ。これからの五日間、最高のバケーションになると俺は確信している」
「正しい確信だ」
ジェレミーもグラスを交わすと、笑みを浮かべた。
それから順に運ばれる料理を味わいながら、二人は快適な時間を過ごした。料理は自然な素材を使用したレストラン独自のもので、どれもこれも美味しかった。
日が山肌に溶けていくように沈もうとする黄昏の幕間時。ノスタルジックなランタンやライトはディナー席という舞台を照らし、よどみなく流れる小川や風が吹く森の深い気配が場を盛り立てる。それを背景に美味しい食事で歓談する客たちの光景は、まさに平和で素晴らしい世界そのものだった。
トラヴィスもジェレミーも日常の過酷な捜査を一旦脇に退 けて、この場のゆったりとした空気の流れに浸った。赤ワインを飲み終えた頃には、二人とも満足そうな顔を見せあった。
「うまかったな、ジェレミー。もうこれだけで、バケーションを楽しむという任務は無事に遂行された。さあ、次の任務は何だ?」
「部屋に帰ることだ」
ジェレミーはナプキンで口元を拭くと、冷静に答える。
「OK、第二ラウンドだな」
トラヴィスは言葉に込められた意味をすぐに理解して、ニヤッと笑った。
二人は会計を済ますと、チップも払ってから席を立ってレストランを出て行く。まだテーブル席には人が多くいたが、トラヴィスもジェレミーもコテージへ直行した。
辺りはもう暗くなっている。森の息遣いのような風が夜を広めて、二人の歩く足元を見えなくする。だが両脇の木に吊るされた専用電球のイルミネーションは、暗闇になればなるほど視界を彩るように煌 めいて、ワインレッドやコバルトブルーの対照的な色合いがより幻想的な雰囲気を醸 し出し、連れ立って歩く二人を導いていく。
「何だな、ジェレミー」
コテージが視界に入ってきて、トラヴィスは考えるように顎を撫でて言う。
「俺たちに足りないのは、こういったロマンチックなストーリーなんだろうな」
「どうした、いきなり」
「さっきお前も言っていただろう? 俺たちの日常に不足しているのは、こういうことだ」
と、周辺のきらきらと輝くイルミネーションを手で示す。
「もう少し詳しく説明して欲しいが」
ジェレミーはまるで捜査の概要 を求めるような口調になる。
「つまり、俺たちの関係だ」
コテージの入り口前で立ち止まると、ジェレミーをぐるりと振り返ってみる。
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