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第3話 休日の過ごし方

 アザミは若い燕だ。複数の女と関係を持ち、その日その時の気分で自由に相手を乗り換えながら、常に誰かに寄生して生きてきた。狙い目は年上の女だ。それなりに裕福で孤独な女を狙うといい。アザミの顔と体に、大抵はコロッと騙される。  アザミとて、常に女に奢られているわけではない。報酬が入れば――女にはパチンコで勝ったと偽りを言って――ちょっとしたプレゼントを渡したり、食事に連れていってやったりする。そうやってたまに尽くしてやるだけで、関係は長続きする。小遣いも増える。  しかし、アザミの報奨金の使い道は、もっぱらギャンブルだ。どかんと賭けてどかんと当てる。これがアザミのモットーである。ちまちま賭けてショボい配当金を狙うなんて、男のすることではない。  そんなわけで、今日も今日とて資産を増やしに、お馬さんのかけっこを見に来たわけだが。   「……クソッ」    一瞬にして儚い夢と散り、無価値な紙切れと化した馬券を、アザミはぐしゃりと握り潰した。   「もう一レース行くぞ」    性懲りもなく、アザミは着古したスウェットのポケットを探る。競馬でも競艇でも競輪でも何でもいいが、手持ちの金が尽きるまでとにかく遊びまくる。これが、アザミお決まりの休日の過ごし方である。   「もうその辺にしとけ。お前が勝ってんの見たことねぇよ」    黒木は、煙草の煙と共に溜め息をうんざりと吐き出した。足下には大量の吸殻が死体のように積み重なっている。   「うっざ、説教すんな」 「今日だけでいくらスッたんだよ。そんなだからすぐ金欠になるんだろ」 「だからあんたに仕事持ってきてもらったんだろうが」 「だからってこんな場所を指定してくるな」 「別にいいだろ、たまにはさ……」    ポケットをごそごそと弄っていたアザミだが、結局次のレースに賭ける元手は残っていないらしかった。何か言いたげな目でじっと見つめてくるので、黒木はその生意気な面に思い切り煙を吹きかけた。アザミはケホケホと軽く咽せる。   「くっせぇ」 「お前に貸す金はねぇよ」 「んだよ、ケチくせぇなぁ。あんたもちょっとくらいやってきゃいいだろ。せっかくこんなとこまで来たんだからよ」 「しねぇよ。知ってるだろ」 「つまんねぇやつだな」    アザミはむっと唇を尖らせながらも、ゆらりと立ち上がった。「やっと帰る気になったか」と黒木が問えば、小銭を握りしめた拳を見せて得意げに笑った。   「まーだ。次こそ万馬券だ」 「……」    やれやれ、と黒木は浮かしかけた腰を下ろした。       「……くそっ! またかよ!」    アザミは、呆気なく散った夢をぐしゃりと捻り潰した。幾度となく繰り返された光景だ。全くもって黒木の予想通りである。黒木の予想が当たっても仕方ないのだが。アザミの予想が当たらなくては。   「なんっであそこで捲られるんだァ? あのまま行ってりゃよかったのによぉ。くっそ、ふざけやがって」    黒木には競馬のことはよく分からないが、なかなか白熱した良いレースだった。  ゲートが開き、十余頭の馬が一斉に駆け出す。濛々と土煙を上げ、筋肉だけでできた四本の脚を前へ前へと繰り出して走る。第四コーナーを回り直線コースに突入すると、騎手は馬に鞭を入れて檄を飛ばす。場内には怒号と罵声が飛び交った。  闘いを制したのは、五番人気の青鹿毛だった。ゴール後の、誇り高く堂々とした足捌きが印象的だった。それに比べて、観戦席のオヤジ共といったらどうだ。唾を飛ばして激昂する者に、蒼褪めて膝から崩れ落ちる者に、放心状態で動けない者に、様々だ。  アザミは、くしゃくしゃに丸めた外れ馬券をつまらなそうに投げ捨てた。サンダルを突っかけた足を前列の背もたれに投げ出して、プラスチック製のシートに踏ん反り返る。   「気は済んだか?」 「……全財産消えたわ」 「相変わらずのバカだな」 「うっせぇ」 「まぁでも安心しろ。次の仕事は金払いがいいぞ」 「そーかよ」    アザミは興味なさげに答えた。  アザミの賭け方は少々常軌を逸している。最も当たりにくいとされる三連単に、平気で何十万と突っ込んだりするのだ。一日で数百万を失うこともザラにある。そんな状態でも、アザミは大して取り乱すことなく、至って涼しい顔をしているのだから恐ろしい。  前方の席で半狂乱になって叫んでいるあの爺さんは、果たしてどれだけの金をドブに捨てたのだろうか。少なくともアザミよりは少額であろう。それでもあの取り乱しようだ。あれがギャンブル狂いの末路である。  アザミの賭け方は、馬鹿を通り越していっそ痛々しい。もはや自傷行為の域だ。ある種の破滅願望が形になって表れているように、黒木には思える。だからといってどうするということもないが。   「なぁ」    アザミが不意に立ち止まった。くいっと黒木のスーツの袖を引っ張り、道の向こうを指し示す。   「寄ってこうぜ。腹減った」    競馬場から駅へと続くこの道は、賭博ですっからかんになった輩の集う酒場が軒を連ね、オケラ街道と呼ばれる。店内はどことなく薄汚れ、床はベタつきテーブルはガタつき、黄ばんだ壁紙に手書きのお品書きが貼られ、ルンペン染みたオヤジ共が昼から安酒をかっ食らい、テレビに映るレース中継にあーだこーだと野次を飛ばす。そんな場所だ。   「あら、ハンサムのお兄さん。久しぶりねぇ。いらっしゃい」 「よう、おばちゃん。元気してたか?」 「元気も元気よぉ。珍しくお連れさんもいるのねぇ」 「ああ。俺の舎弟」 「おい、適当こくな」    アザミの冗談に、馴染みの女将さんはうふふと笑った。   「おう、兄ちゃん。また豪快に賭けて負けたのかい?」 「またって何だよ、またって。まぁ今日は負けたけどな」 「ほらな~。兄ちゃんが勝ってるとこ見たことねぇよ」 「勝ったことくらいあるわ。そう言うあんたはどうなんだ?」 「いやぁ、出だしはよかったんだけどよ~」 「結局赤字か。ツイてねぇな、お互いに」    顔馴染みらしい男にも話しかけられた。歯が何本か抜けて、顔中に深い皺が刻まれた、如何にもギャンブル好きが人相に表れている爺さんだった。アザミは案外、ここの人達に気に入られているらしい。  定番メニューのもつ煮とおでんを注文した。アザミがグラスを持ち上げるので、とりあえず乾杯をする。   「何に対する乾杯なんだ」 「一日おつかれ~ってな」 「何もしてねぇだろ。特にお前は」    黒木は、キンキンに冷えた生ビールに口をつけた。明るいうちから飲む酒は旨い。アザミもグラスに口をつける。注がれているのはコーラだ。コークハイではない。大量の砂糖を溶かした黒い炭酸水であるところの、あのコーラである。男らしい太い首に浮かぶビー玉のような喉仏を大きく上下させて、アザミはごくごくとそれを飲む。   「っっはぁ~、うめぇ」 「相変わらずの子供舌だな」 「何だよおっさん。嫉妬してんの?」 「なんでそうなるんだよ」 「おっさんにコーラは不健康だろ。カロリー摂りすぎになっちまうもんな」 「余計なお世話だ。そんなもん飲みながら飯食うのは気持ち悪くないかってことを言いたいんだよ」 「別に? うめぇモンはどう食ってもうめぇだろ」    明らかに酒のつまみとして作られたもつ煮込みを掻き込んで、アザミは満足げな顔をした。悪戯に舌を覗かせて、唇を一舐めする。   「いつもの味だぜ」    実際のところ、味は確かであった。黒木も椀を手に取り、一口食べる。ビールによく合う、チューハイやハイボールにもよく合うであろう、濃い目の味噌味だ。じっくり煮込まれたおかげで肉はとろとろと柔らかく、野菜に肉の旨みが溶け込んでいる。  おでんもなかなかの味だ。常連客を抱えているだけはある。出汁の染みた大根、こんにゃく、竹輪にはんぺん。七味唐辛子をたっぷり振りかけると、味が引き締まって旨さが引き立つ。   「なぁ、クロさん」    アザミはテーブルに頬杖をつき、じっと黒木を見つめた。流し目というほど色っぽくはないが、少しの媚びと甘えを含んだ眼差しだ。生意気な唇にはご機嫌な微笑を湛えている。アザミがこういう顔をする時は大抵ろくでもない。   「な~ぁ、クロさん」 「何だよ」    テーブルの下で、アザミのつま先が黒木の脚を捉えた。行儀の悪い指先が、足首から脛へと這う。器用なことだ。   「なぁ」 「こんなとこで盛るなよ、エロガキが」 「ここじゃなきゃいいのか?」 「そうは言ってねぇだろ。今日は何でもないんだから、普通に女ンとこ帰れ」 「やだね。一文無しなのバレたら怒られちまう」 「怒られろ。いっそどつき回されろ」 「はは、ひっでぇ」    アザミはそっとつま先を離したが、視線は黒木から外さない。 「じゃ、あんたの気が変わるのを待つかな」        居酒屋の会計は当然のごとく黒木持ちで、帰りの電車賃すら残っていなかったアザミの切符も黒木が購入してやった。アザミはこうなることを見越して、ポケットの底に沈んだ小銭も全て余すことなく、外れ馬券に突っ込んだのだろう。賢いのか愚かなのか分からない。  最寄り駅で一旦は別れたが、それから程なくして、再びアザミと顔を合わせることになった。  日本一の歓楽街。その裏通りの一画に、ひっそりと営業しているバーがある。もっともそれは仮の姿であり、実態は危険な仕事の斡旋事務所である。薄ら寒い階段を下り、古びたビルの地下に潜ると、店名を示すネオンが小さく光る。ドアが開き、カランコロンと澄んだベルの音が響いた。   「約束通り来てやったぜ」    アザミが揚々と手を振って現れた。黒木が別の客に酒を提供する間に、アザミはお気に入りの席へと腰を下ろした。   「約束なんかしてないだろ」 「言っただろ。あんたの気が変わるのを待つって」 「あれは約束だったのか……?」    黒木は冷えたグラスを用意し、血のように赤いザクロのシロップを注ぎ、ジンジャーエールを加えて混ぜた。アザミの一杯目は決まってこれである。目の前に置いてやれば、アザミは猫かぶりの笑顔を見せて、グラスを手に取った。   「いいの? 金ねぇけど」 「次の報酬から引いとく。遠慮しないで飲め」 「結局ツケってことじゃねぇか。ケチ」    アザミはグラスに口をつけ、軽く目を伏せてそれを飲んだ。金欠宿無しヒモクズ野郎のくせに、その姿はえらく様になっている。ルビーのようなカクテルの色合いも――酒は一滴も入っていないが――その美しさに拍車を掛けている。つくづく、面が良いというのはお得だ。   「オマエ、まーたそんな子供の飲み物飲んでんのか」    男がアザミに声をかけた。ここの常連客である。バーの方も、裏稼業の方でもだ。少々単細胞ではあるが力自慢の男で、黒木としてもそれなりに重宝している。アザミとも一応面識はあるはずだ。   「別に何飲んだっていいだろ。俺ァこれが気に入ってんだ」 「だけどよぉ、格好がつかねぇだろ? もっと粋がっていこうぜ。オレ達みたいなのはよぉ、カッコつけてナンボってモンだろうが」 「カッコつけるって、ウイスキーのロックを馬鹿の一つ覚えみてぇに飲み続けることか?」 「そうだぜ。やっぱこれだろ。男ってのは」    男がグラスを揺らせば、氷の溶ける涼しい音が響く。ほろ酔いの浮かれ気分に任せ、アザミに絡んでいるようだった。   「そんなにジュースが好きなのかぁ? まさか、そのなりで下戸ってわけでもあるめぇ?」 「……試してみるか?」    アザミは空のグラスをテーブルに置き、挑発するように目を細めた。男は意外そうに目を見開く。   「潰れても知らねぇぞ?」 「そうしたら、明日一日アンタの犬になってやるよ」 「へへ、いいぜ。乗った」 「負けた方が今夜の売り上げ全奢りな」    それまで静かに酒を嗜んでいた男共は、にわかに盛り上がりを見せた。「アザミに千!」「いや二千だ!」「こっちは一万だ!」などとあちこちから声が上がり、紙幣が宙を舞う。店内は突如として鉄火場と化した。文字通りお祭り騒ぎだ。  黒木はテキーラを一本用意し、ショットグラスをそれぞれの前へと置いた。斯くして、酒飲み勝負が始まった。  アザミと男は、互いに相手のグラスへ酒を注ぐ。乾杯をして一気に飲み干し、即座にもう一杯だ。「二日酔いとは縁がねぇ」と豪語していただけあり、男はかなりの酒豪である。ハイペースでテキーラを空け、二本目にリキュールを選び、これも早々と飲み干した。  膠着状態とも思えた勝負に動きがあったのはここからだ。三本目のシルバーラムを半分ほど減らしたところで男の動きが鈍くなり、やがてぴたりと止まってしまった。   「どうした? 腹いっぱいか?」 「……」 「ほら、飲めよ。それとも水がほしいのか?」    赤鬼のような形相でフーフーと荒い息を繰り返す男を尻目に、アザミは涼しい顔でグラスを空にした。クソガキムーブ全開であっかんべーをしてみたりするが、男にはそれを咎める余裕もない。   「……」    男は震える手でグラスを持ち上げた。しかし、一滴も飲むことは叶わなかった。  バッターン!と男は椅子ごと盛大に倒れた。瞬間、店内の盛り上がりは最高潮に達する。アザミを称える声と、男を詰る声が飛び交う。賭けに勝った者は大喜び、負けた者は怒り狂っているという、ただそれだけの構図だ。  完全に酔い潰れた男は、店の隅でミネラルウォーター片手にぐったりしている。反して、店内は活気に満ちていた。飲み比べ対決が男共の闘争心に火をつけたらしく、近年稀に見る勢いで注文が殺到する。普段は比較的まったりと営業している分、余計に忙しく感じられた。  あっちこっちへ忙しく動き回る黒木を尻目に、アザミは悠々と酒を呷る。焚き付けた張本人のくせに、いい気なものだ。サファイアブルーの酒瓶に直接口をつけ、度数47%のジンを、まるでジュースか何かのように喉を鳴らして飲む。   「もうその辺にしとけ。何本目だよ」 「別にいいじゃねぇか。どうせアイツの奢りなんだし」 「だからってなぁ。ウチの棚、空にする気かよ」 「さすがにそんだけ飲んだら酔えるかもな」    アザミがノンアルコールカクテルや炭酸ジュースを好んで飲むのは、体質的に酒が飲めないからというわけではない。単純に好みの問題だ。  アザミは下戸どころか底なしの酒豪で、例えるならばザルを通り越して枠である。アルコールが体内に一切留まらず抜けていく。だからいくら飲んでも全く酔えず、ちっとも楽しくない。特別おいしいとも感じない。わざわざ酒を飲む理由がないのだ。  それ以上に厄介なのが、酒のにおいが嗅覚を鈍らせるという点である。優れた五感はアザミの武器であるが、それゆえ些細な変化に敏感だ。酒が抜けるまでの間は味覚も嗅覚も当てにならず、非常に無防備な状態を晒す羽目になる。  とはいえ、ここまで来れば後はもう何を飲んでも同じことだ。ラッパ飲みなんて品性の欠片もないのに、アザミがやると不思議と絵になるのだからおもしろい。やはり、面の良さは財産である。   「何でもいいから一番強ぇやつ寄越せよ。俺が全部飲んでやる」 「バカ。もう店仕舞いだ」    夜もすっかり更け渡った頃、アザミは最後の客としていつまでも居座り続けていた。いや、客ならもう一人いる。アザミに潰された憐れな子羊だ。ソファ席で横になって、時折思い出したように水を飲む。   「もう?」 「見りゃ分かるだろ。何時だと思ってんだ」 「夜はこれからだろ」 「お前一人のためにいつまでも開けてられるか」 「ちぇ」    アザミはつまらなそうに唇を尖らせた。   「どうせ暇なんだ。締め作業手伝え」 「やだー」 「じゃあアイツ起こしてこい」 「送ってやんの?」 「まぁ、それくらいはな」    アザミを助手席に、男を後部座席に乗せて、黒木は自動車を発進させた。午前三時の街明かりが車窓を流れていく。   「お優しいこったな。こんなやつ、その辺に転がしときゃあいいのによ。どうせ死にゃしねぇだろ」    アザミはシートをリクライニングさせ、ダッシュボードに行儀の悪い足を投げ出した。   「そう言うなよ。今日はずいぶん稼がせてもらったからな。サービスだ」 「俺のおかげだろ?」 「そうかもな」    アザミは長い脚を組み替える。夜の明かりが照らす窓に、アザミの横顔が反射する。憂いを含んだ眼差しは窓の外へと向けられているが、ふとした瞬間に視線が絡む。   「お前、ああいうのもうやめろよ」 「ああいうのって?」 「飲み勝負」 「あっちから吹っかけてきたんだぜ。俺悪くねーもん」    アザミは子供っぽく笑って振り向いた。窓ガラスには丸い後頭部だけが映っている。   「ひやひやした?」 「誰が。オレがか?」 「今頃アイツのケツ舐めてたかも」    アザミは、大きな赤い舌をべろりと出して見せつけた。黒木はゆっくりとハンドルを回す。   「あの手の勝負で、お前が一回でも負けたことあったか?」 「だからって、次も勝つとは限らねぇだろ?」    肩がぶつかった。そのまま、アザミは体重を預けてくる。耳にアザミの吐息が触れる。酒を飲んだせいか、いやに熱を孕んでいた。   「なぁ、クロさん」    耳にアザミの唇が触れた。ちゅ、と控えめなリップ音を鳴らす。   「やめろ」 「なんで」 「後ろ」 「気にすんな。起きねぇよ」    火照った舌が耳介を這う。鋭い歯が甘噛みする。濡れた音が反響する。   「なぁ……」    悩ましげに吐息を漏らす。狙ってやっているのなら見事だし、わざとでないなら危うすぎる。こう見えて、アザミも案外酔っているのかもしれない。  黒木はゆっくりとブレーキを踏み、路肩に車を停めた。アザミが嬉しそうに手を伸ばすが、黒木はひらりと躱して車外へ降りる。後部座席のドアを開け、ぐっすりと眠る男を叩き起こした。  男を送り届けて車に戻ると、アザミは黒木に背を向けていた。窓の外を向いた表情は窺えないが、背中が不機嫌を物語っている。少し放っておかれたからってすぐに拗ねて、まるで子供だ。   「お前のことも送ってやるから」 「……」 「泊まってくだろ?」    シフトレバーを握っていた手に、アザミの手が重なった。熱い手だった。酔っているのか、それとも別の要因だろうか。   「家まで大人しくしてろ。帰ったら付き合ってやるから」 「……」    アザミは何も言わないが、拗ねた様子は既になく、夜目を利かせる獣のように瞳孔を丸く開いて、悪戯な笑みを浮かべた。  黒木はアザミの頭を撫でる。黒々とした頭髪に、形のいい後頭部、すっきりとした襟足、白いうなじ。黒木が指を這わせると、アザミはくすぐったそうに身を竦める。  黒木は銜えていた煙草の灰を落とし、ハンドルを握りしめた。全く厄介なことだ。運転中に口淫を施されるなどとは。アザミも大概であるし、黒木自身もまた酔っているらしい。競馬場脇の酒場で一杯やって以降は、一口も飲んでいないはずだが。   「っ、ん……は……」    鼻にかかった甘え声が漏れる。唾液を纏わす濡れた音が響く。誘うように揺らめく腰が陰影を描く。黒木はアザミを撫でながら、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。       「あっ……♡」    髪を乱してアザミが踊る。黒木の上で腰を振る。豊かな胸板も、割れた腹筋も、意外と細く括れた腰も、全てをあられもなく曝け出して、アザミは自身の快楽を追いかける。   「あっ、ん……は、ぁ……♡」    しかし、少し動きが控えめだ。絶頂に至るのを惜しむような、達するかどうかスレスレの感覚を楽しむような、そんな腰付きである。  黒木の胸に置かれた両手が、指を巻き込んで拳を握りしめる。アザミは全身を微かに震わせて、堪えるように目を瞑った。一瞬息を止め、乱れた呼吸が整う前に、再び腰をくねらせる。  黒木がアザミの腰に手を回せば、アザミは強気な眼差しで黒木を見下ろした。しかし、その瞳は快楽に溺れ切っている。そんな状態でも優位に立ちたがるところが、何とも言えず子供じみていて、いっそのこと愛らしい。  黒木は腹筋を使って上体を起こした。騎乗位から対面座位に、二人の距離が一気にゼロへと近付いて、汗ばんだ肌が密着する。シャツ一枚を隔てた距離さえもどかしく、黒木はそれを脱ぎ捨てた。  アザミはうっとりと頬を染めて黒木に抱きついた。自然と唇が重なり、舌が絡み合う。柔らかな舌の感触を味わいながら、黒木はアザミの躰を引っくり返した。真っ白なシーツに散らばった黒髪を撫で、アザミの奥へ自身を突き立てる。  真っ白なシーツの海で、健康的な肌色が藻掻く。縋るように両手を差し出され、背中に爪を立てられる。それでも黒木は止まってやれない。  アザミの甘く掠れた声だけが響いている。こんな風に甘えた顔ができるなんて、昼間の態度からは想像もつかない。ほんのひと時であってもこれを手中に収めているという事実に、黒木は酔ってしまいそうになる。   「やっ、あん、まて、そんなに……っ、まだ、いきたくねぇ、」 「何回でもイけばいいだろ。いつもそうだろ」 「でも、まだっ……もっと……!」    襲い来る快感を受け流したいのか、アザミは黒木にしがみついた。両脚が腰に絡み付いて、離れたくないと言わんばかりである。健気なことだ。こんな男が、どうして、こんなにも――   「……かわいいんだろうな」    黒木はぽそりと呟いた。胸中の思いが意図せず零れた形であったが、瞬間、黒木のそれを食い締めていた肚の奥が、弾けるように痙攣した。蕩けた肉襞が絡み付き、媚びるように締め付ける。   「ひぅッ♡♡ あぁっ――!!」    アザミは目を白黒させて、絞め殺す勢いで黒木を抱きしめた。何が起きているのか理解できず、ただ激しく躰を跳ねさせる。もっと欲しいとねだるように、自ら腰を擦り付ける。意図的なのかそうでないのか、どちらにしても、何といやらしいことだろう。   「あ゛っ、や゛、まてっ、まだっ……!」 「腰動いてるぞ」 「ちがっ、だって……っ!」 「生憎オレはまだなんでね」 「あっ、あ゛、いやだっ、くろさん……!」    幼い仕草で必死に縋り付くアザミを、黒木はきつく抱きしめる。こうしているだけで、本来あってはならないはずの独占欲がむくむくと膨らんでいく。全くもって厄介な話だ。全くもって、厄介極まりない男だ。  バーで飲み勝負が始まった時、黒木は少なからず「おもしろくない」と思った。どうせアザミが勝つと分かっていたが、万が一にも負けた場合、この躰はあの男に好き勝手暴かれていたのだと思うと、煮え立つような怒りが込み上げる。  あんな男を揶揄って遊び、遠回しに黒木を焚き付けるアザミに腹が立つ。そして、そんなくだらないことで腹を立てる自分にも腹が立つ。  嫉妬心だの独占欲だの、この世界で生きるには足枷にしかならない。非情になり切れなければ、いつでも簡単に足を掬われる。それらを全て捨ててきたから、黒木は今日まで生きてこられたのだ。   「なぁ、ッ、もっと……♡ もっと、いきてぇ……っ」    甘やかな喘ぎを漏らす口の端に、艶めく舌がちらりと覗く。誘うように揺らめくそれに迷うことなく吸い付いて、黒木は挿入を深くした。夜が明けるにはまだ遠い。        目が覚めた時、ベッドは空だった。慣れたものである。黒木は煙草を一本銜えた。息を吸いながら先端を炙って火を点ける。口の中に煙を溜め込み、舌で転がして味わってから、肺まで吸い込んでゆっくり吐き出す。やはり寝起きの一服は至高だ。  ふと、リビングから物音がした。ドアを開けて見てみれば、アザミがソファにどっかと腰を下ろして、ピザを片手にテレビを見ていた。溶けたチーズが垂れそうになるのを、器用に舌で追いかける。   「……胃がもたれる……」    黒木はげっそりと呟いた。ソファに座ろうとすれば、アザミが場所を空けてくれた。   「Lサイズだぜ。あんたも食えよ」 「起きてすぐ食えねぇよ」 「はは、おっさんだなぁ」 「……お前、これ何で払ったんだ」 「ああ。あれ」    アザミは悪びれもせずダイニングテーブルを指した。黒木の財布がぽつんと投げ捨てられていた。   「お前なぁ~、泥棒は犯罪だぞ」 「あんたが一口でも食えば泥棒じゃなくなるだろ?」 「は? おい、やめろ」 「ほらほら、食えよぉ、クロさん。一口だけでいいからさぁ」    アザミは凶悪な笑みを浮かべながらも愉しげに黒木に迫る。断固拒否する黒木の口に、食べかけのピザを押し込もうとする。   「バッカ、おっさんに寝起きピザはマジでキツいっての! てか火ィ危ねぇ、寄るな」 「ああ? どうせちっと焦げるだけだろ」 「ったく、オレの奢りにしてやるから、大人しくしろ」    黒木が降参すれば、ピザは瞬く間に踵を返し、アザミの口に吸い込まれた。蕩けたチーズが零れることもなく、ほとんど丸呑みでアザミの胃に収まった。アザミは満足そうに舌舐めずりをし、もう一切れに手を伸ばす。   「年は取りたくねぇなぁ。こんなにうめぇのに」 「寝起きじゃなきゃ食えるわ。バカにすんな」 「でもLサイズは食えねぇだろ?」 「おっさんじゃなくても一人でLは食わねぇよ。三、四人前だろ、それ」 「そーいうもんか? 胃が小せぇんだな」    ちゅっと指先にキスをして、アザミはトマトソースを舐め取った。食って寝てヤって、アザミは本能の赴くままに生きている。   「今日の午後、依頼人と打ち合わせだからな。ちゃんと準備しとけ。忘れんなよ」 「うぇ~、それ俺も行かなきゃダメなやつ?」 「お前の仕事の打ち合わせだろうが」 「めんどくせー。あんた一人で行ってこいよ」 「お前がいなきゃ話にならねぇだろうが」 「じゃあさ、その前にどうだ? もう一発。景気付けに」    アザミは親指と人差し指で輪っかを作り、わざとらしく舌を出した。下品な仕草に、生意気な面。黒木は肺に溜めた煙を一気に吐き出し、アザミに吹きかけた。アザミはぎゅっと目を瞑り、涙目になって軽く咽せた。   「けむっ」 「しねぇよ。何だよ、景気付けって。さっさと食って、シャワー浴びて、歯ァ磨いて服を着ろ。話はそれからだ」 「ちぇ。分かってるっつーの」    アザミは退屈そうに舌打ちをする。黒木は、限界まで短くなった煙草を銀の灰皿に押し付けた。

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