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第5話 痴話喧嘩も時には役立つ

 ※微ホラー  珍しく遠方からの依頼だった。用事はすぐに済んだものの、アザミはヘソを曲げたままである。  今朝、黒木の所有するワゴン車に乗り込んだ時から、アザミはずっと機嫌が悪い。助手席の背もたれをうんと倒し、ダッシュボードに足を投げ出す。それだけならいつものことだが、行きの車の中、アザミはむっすりと黙ったままだった。  ハンドルを握る黒木も、アザミの機嫌を取るようなことは特にしなかった。どうせまたギャンブルで負けたか、そのことで女に捨てられたか何かだろうと思って、カーラジオのダイヤルを回すばかりだった。  帰りの車中でも、アザミの態度は相変わらずだった。さらに運の悪いことに、山中で道に迷った。これは完全に黒木の落ち度であるが、そのことでますますアザミの不機嫌に拍車が掛かった。  こういう時、不運は立て続けに起きるものである。ろくに街灯もない山深い峠道で、突然エンジンがかからなくなった。ペダルを踏み込みエンジンキーを回しても、車はうんともすんとも言わない。右も左も分からない山奥で、完全に立ち往生してしまった。   「……ちっ。だからあそこでホテル探そうっつったんだ」    アザミの不機嫌は最高潮だ。語気を強めて黒木を責める。   「あんたが俺の言うこと無視するから」 「まさかこんなことになるとは思わないだろ。本当なら日帰りできる距離なんだ」 「本当ならな。あんたが道間違えたりするから、こんなことになってんだぜ」 「お前が地図で確認してくれりゃあよかっただろ」 「あんたな、俺ァ仕事としてあんたに運転を頼んでんだぜ。なんで俺がんな七面倒くせぇことをしなきゃなんねぇんだよ。あんたの領分だろうが。ちゃんと働けよ」 「……お前、なんでそんな言い方しかできないんだ。そんなこと言ってると――」 「別にいいぜ。これから俺に仕事回さねぇってんなら、別にそれでも構わねぇよ。あんたがいなくたって、俺ァ一人でやってけんだ」 「……」    真夜中の山道で何を言い争っているのかと、冷静な自分が黒木を諫める。責任の押し付け合いから始まって、関係のない話に飛び火して。全くもってくだらない。今はこの状況をどう切り抜けるかが重要であるはずなのに。   「……もういい。歩いて帰る」    アザミはいきなり車を降りた。当て付けのように、勢いよくドアを閉める。反動で車体が揺れた。   「バカ言うな。歩いて帰れる距離じゃないぞ」 「山下りて、タクシーでも捕まえりゃ帰れんだろ」 「この時間に、歩いて下山しようってか?」    黒木は、車に積んでいた懐中電灯でアザミの行く手を照らし、小走りで追いかけた。   「おい、戻れって」 「うぜぇ、ついてくんな。俺が一人で行って、あんたに不都合あんのかよ」 「んなこと言って、手ぶらでどうするつもりだよ」 「どうとでもなんだよ。あんた一人で戻りゃあいいだろ」    生温い風が首筋を撫でる。虫の声が地べたを這い、鳥の声が怪しく響く。鬱蒼と生い茂った藪の向こうで、ガサガサガサッ、と獣の暴れる音がする。ギャッギャッギャッ、と不気味な悲鳴が木霊する。  突然、懐中電灯がぶつりと切れた。一瞬にして、視界が闇の底に沈む。深い深い闇が、どこまでも果てしなく広がっている。いくらスイッチを切り替えようとも、電池の切れたそれは二度と目を覚まさない。  アザミは当て付けがましく舌打ちをした。黒木ももう何もかもが嫌になって、電池切れの懐中電灯を地面に叩き付けようとした。が、その時である。  遥か遠くに、微かな明かりが見えた。小さく細く、風が吹けば消えてしまいそうにか弱い光だが、それは確かに人工的な明かりであった。捨てる神あれば拾う神あり。一軒の宿屋が佇んでいた。  まさか、こんなところに? と疑わしく思わないでもない。夜はもちろん、昼間だって大した往来のなさそうな山奥に、ぽつんと一軒だけ営業している店があるなんて、そんなことがあるだろうか。  しかし、足は自然とそちらへ向く。まるで光に群がる蛾のように、生物として備わっている本能なのかもしれない。手元さえ曖昧になるほどの闇の中で、その微かな光は大いなる救済であった。  木造二階建ての、こじんまりした老舗風の旅館だった。看板の蛍光灯は切れかかっており、チカチカと明滅を繰り返している。木枠の填まった引き戸を開けて、ごめんくださいと声を掛ける。   「……いらっしゃいませ」    着物姿の老婆が音もなく現れ、抑揚のないしわがれた声で言った。   「……いかがいたしましょうや?」 「予約してないんですが、泊まれますか」 「……どうぞ、こちらに」    老婆は能面を被ったようにぴくりとも表情を動かさない。少し薄気味悪くも感じたが、夜中に予約も入れずに押しかけているのだから、当然の反応だろうと黒木は思った。何はともあれ、屋根の下で夜を明かせることになったのだ。これ以上の贅沢は望むまい。   「一応温泉が湧いてるらしいぞ」    それとなく誘ったつもりだったが、アザミは黒木の誘いに耳を貸すことなく、不貞腐れた態度で畳の上に寝転んだ。しょうがないので、黒木は一人で風呂場に向かった。  お世辞にも綺麗とは言えない古びた温泉施設だが、それがなかなか悪くない。むしろ味わい深くて良い。広い湯船に足を伸ばして寛いで、熱い湯に肩までとっぷり浸かれば、蓄積された疲労や毒気が滲み出る。心身共に癒されて、黒木は大きく息を漏らした。  ふと、何かの視線を感じて顔を上げた。風呂場の隅、浴槽の端の方に、人影らしきものが立っていた。濛々と立ち込める湯煙に視界を遮られ、その正体を突き止めるには至らない。  今の今まで気付かなかったが、まさか先客がいたのだろうか。しかし、脱衣所のカゴは全て空だった。それでは、後から入ってきた客だろうか。しかし、ドアを開ける音も掛け湯をする音も聞こえなかった。正体不明のそれは、たった今突然に、風呂場の隅に現れたのだ。  黒木は一瞬ぞっとしたが、もう一度よく見てみれば、その人影は女性のようだった。長い長い黒髪を腰の下まで垂らした女であった。浴槽の縁に腰掛けて、黒木に背を向けたまま微動だにしない。  まさか男湯と女湯を間違えたか、と黒木は一瞬焦ったが、冷静に思い返せば、自分は確かに男湯の暖簾をくぐったはずだ。それでは、あの女性が間違えているのか。いや、特に慌てた様子もないので、間違えたわけではないのだろう。  となると、男女別なのは脱衣所だけで、風呂は混浴になっているということだろうか。それが一番正解に近い気がする。「あの婆さん、大事なことを伝え忘れたな」と黒木は内心悪態を吐いた。何となく気まずくて、黒木はこそこそと風呂を上がった。  部屋に戻ると、アザミは浴衣に着替えて寛いでいた。急須で緑茶を淹れ、サービスの温泉饅頭を頬張っている。透明の包装紙が二枚、くしゃくしゃになって散らばっている。   「オレの分は」 「知んね」    アザミは甘い餡子を苦い緑茶で流し込み、一組だけ敷いた布団に寝転んだ。吐き捨てるような物言いに、黒木もいよいよカチンとくる。せっかく温泉で癒されたというのに、もったいないことだ。   「なぁ、おい。お前、何をずっと怒ってるんだ? 朝からずっとそんな調子で」 「……」 「答えろよ。何がそんなに気に入らない」 「言わねぇ」 「はぁ?」 「あんたにゃ口が裂けても絶対言わねぇ。俺があんたとつるむのは、あんたが稼げる仕事を持ってくるからだ。そんだけなんだよ」 「……何を言ってんだ?」 「もう寝る」    黒木の都合も構わず、アザミは灯りを消した。        草木も眠る丑三つ時。胸を押し潰されるような息苦しさに、黒木は目を覚ました。目を開けてみるが、何も見えない。部屋は暗闇に包まれていた。確か、床の間の行灯は点けたままで眠ったはずだが。   「っ……」    岩でも抱えさせられているみたいに、腹部にずっしりとした重みを感じる。払い除けようと藻掻いてみても、手足が縛り付けられたように動かない。これが金縛りというやつか、と黒木は徐々に覚醒する頭で考えた。  トタトタ、パタパタ、と子供が畳の上を走り回る。複数の足音と楽しげな笑い声が、黒木の枕元を横切る。これはとんでもない宿に泊まっちまった、と黒木は頭を抱えたくなったが、体はぴくりとも動かない。   「ぅ゛……」    隣で寝ているアザミが低く唸った。アザミにも同じ物音が聞こえているのだろうか。神経の図太いやつだから、案外平気で眠っているかもしれない。と黒木が思ったその時だ。アザミは猛々しい雄叫びを上げて飛び起きた。  ぱっと部屋が明るくなる。アザミは、枕の下に隠していたドスを引き抜いて身構えた。「お前、そんな物騒なもんを隠し持っていたのかよ」と黒木は内心で突っ込むが、声は出ない。研ぎ澄まされた刃が閃くが、そこに映るのはがらんとした室内の景色だけである。   「……」    アザミは息を呑み、刀を構えたままじりじりと周囲を見渡した。しかし、その目に映るものはない。黒木の目にも、何も見えない。黒木とアザミの二人以外、この部屋には誰もいない。  コン、コン、と誰かが窓をノックした。アザミは弾き飛ばすように障子を開ける。しかし、ノックの時点で異変に気付くべきだった。ここは二階で、外にはベランダもない。誰にも、何者にも、窓を叩くことなど不可能なのだ。  窓ガラスには、黒木とアザミが二人きりの、がらんとした室内の景色が映るはずだった。しかし、そこには子供の姿があった。それも、たくさん。無数に。黒い頭を並べて畳の上に正座して、鏡越しにじっとこちらを見つめている。  さすがに背筋が凍った。子供達は全員真顔のまま微動だにせず、ただじいっとこちらを見つめている。血塗れだとか腐っているとかそういったことは一切なく、むしろ息遣いを感じるほどリアルで自然なのに、そのことが逆に恐ろしかった。  アザミは取り落としそうになった刀を握り直し、大きく振り被った。窓ガラスを叩き割ろうとしている、と気付いた黒木は、慌ててアザミを取り押さえた。   「はぁっ!? 何すんだよっ!?」    怒りと焦燥を剥き出しにして、アザミは吼える。黒木はアザミを羽交い締めにしながら、努めて冷静を装った。   「だからって備品壊すのはまずいだろ」 「んなこと言ってる場合かよっ!」 「そもそも、ガラス割ってどうにかなる問題か?」 「知んねぇよ! 他にどうしようもねぇだろ!」    ふっ、と電気が消えた。室内に深い闇が落ちる。  コン、コン、と誰かが窓をノックする。息が詰まるほど、室内には何かの気配が満ちている。  黒木とアザミは顔を見合わせ、一目散に逃げ出した。縺れ合うようにして扉の前まで走り寄り、奪い合うようにしてドアノブに手を掛ける。しかし同時に、廊下の奥から近付く足音に気が付いた。  黒木は、風呂場で会った女のことを思い出した。あれもおそらく生きた人間ではなかったのだろう。あの女は、黒木に背を向けていたのではなく、長く垂れ下がった髪の隙間から、こちらを見つめていたのだ。あの時感じた視線の正体に今更気付いて、黒木は総毛立った。  ギィ、ギィ、と廊下の床板を軋ませながら、何かはだんだんと近付いてくる。部屋の外へは出るに出られず、部屋の中にだっていたくはない。化け物相手にナイフを振り回して解決するとも思えない。こういう時、どうしたらいいのだろう。   「……セックスするぞ」    黒木が言うと、アザミはふざけるなと言わんばかりに舌打ちをした。   「真面目な話だ。エロいこと考えると霊は逃げていくらしい」 「あんた、ユーレイに脳味噌食われたのか?」 「真面目な話だっつってんだろ。とにかく、生命力に溢れてるとこを見せつけてやるといいらしい。やるぞ」 「はっ? おいっ……」    黒木は、暗闇の中手探りでアザミを抱き寄せた。衿に手を入れて肌に触れると、アザミは身を捩って黒木の胸を押し返した。   「やめろ。気分じゃねぇ」 「気分がどうとかじゃねぇんだよ。他に手がないんだからしょうがないだろ」 「知んねぇよ。あんた一人でマス掻いてろ」 「お前がいるのにか?」    黒木はアザミの頬を両手で包み、指で触れて唇の位置を確認した。案外滑らかで柔らかい、ぷにぷにとした感触を楽しんでから、唇を寄せる。しかし、それが重なる寸前に、アザミは首を振って顔を背けた。   「なんで逃げるんだよ」 「いやだっつってんだろ。離せ」 「何が嫌なんだよ。いつもしてるだろ」 「嫌なモンは嫌なんだ。離せって、この――!」 「おいこら、危ねぇって――」    暗闇の中、狭いスペースで組んず解れつ騒いでいれば、段差に躓いて転ぶのも必然というものだ。先にアザミの躰が大きく傾いで、それに引っ張られるように黒木も体勢を崩し、二人折り重なるようにして硬い床の上へ崩れ落ちた。   「……ちっ。あんたがしつこいせいだぞ」 「お前が暴れるからだろ」 「俺のせいにすんな。とっとと離れろよ」    アザミは黒木を押し退けようとするが、黒木はアザミをしかと捕まえて組み敷いた。   「くそ、離れろって」 「聞けない相談だな。お前、おかしいぞ。こんなこと、大したことじゃないだろ。お前がいつも言ってることだ」 「……」 「なぁ、おい。何とか言えよ。勝手に始めちまうぞ」 「……くせぇんだよ」    アザミの突然の暴言に、黒木はしばし凍り付いた。くさい。臭い? 加齢臭ってことか? オレももうそんな歳か、なんてちょっと泣きそうになる。しかし、続くアザミの言葉は、黒木の予想を大きく裏切るものだった。   「……今朝会った時からずっとだ。車ン中も、あんたにも……、くせぇのが染み付いてて気持ち悪ぃんだよ。甘ったるい香水と知らねぇ煙草のにおいがぷんぷんしやがる」 「…………は?」    意地っ張りな子供が精一杯強がるような、それでもやっぱりちょっとしょげているような、そんな声音だった。   「他人のにおい付けたあんたに抱かれる趣味はねぇ。気色悪ぃったらねぇよ」 「……」 「おい、聞いてんのか? 俺はちゃんと白状したんだ。その手を放せよ」 「……」    これは、全く予想外の展開すぎる。黒木は頭を抱えたくなった。  確かに、昨日の夜は女と会う用事があった。短い距離だが車にも乗せた。彼女は確かに甘ったるい香気を放っていたし、甘ったるい香りの煙草を愛飲していた。強めのにおいだったから、車や黒木自身に残っていても不思議はない。  だが、問題はそこではない。黒木が他人の香りを纏っていたことが問題なのではない。他人の残り香を漂わせる黒木に対し、アザミが気を悪くしたことが問題なのだ。  それというのは、つまるところ嫉妬である。しかも、だいぶ可愛らしいレベルの焼きもちだ。アザミが黒木に対して、こういった独占欲のようなものを露わにするのは、初めてのことだった。  おそらく無自覚で言っているのだろう。自覚があるならば、こんな小っ恥ずかしい心情を平然と吐露することなどできない。アザミは、自分の感情に無自覚のまま、黒木に近付いた見も知らぬ女に嫉妬しているのだ。  黒木は、アザミを強く抱きしめた。ようやく解放されると思っていたアザミは、慌てふためいて黒木を突き飛ばそうとした。が、マウントポジションを取った黒木の方が圧倒的に有利である。   「やめっ……しねぇっつってんだろ!」 「いや、するだろ。むしろするしかないだろ」 「くせぇからやだっつってんだろうが」 「だったら、お前の匂いで上書きさせてやるよ」 「はっ……?」    アザミの表情が見えないのがもったいない、と黒木は残念に思った。だって、絶対に、食べ頃を迎えた林檎のように、真っ赤な顔をしているに違いないのだから。   「……なぁ、クロさん」 「何だよ。まだ何か文句あんのか?」 「……」    アザミは、一瞬考え込んでから口を開いた。   「そういうのじゃねぇからな」 「そういうのって何だよ」    黒木がとぼけると、アザミは怒ったように踵で黒木の背中を蹴った。       「……ところで、なぁ」 「何だよ」 「こんなことで、ほんとに退治できんのか?」    その場の勢いに任せ、出入り口のドア付近で行為をおっぱじめた二人だったが、狭いし、床は硬いし、段差があって動きにくいしで、結局は室内に戻り、布団の上で組んず解れつを繰り広げていた。  アザミは四つん這いになって伏せ、鞘に納めた短刀を握りしめて、いざという時はすぐさま臨戦態勢に移れるよう準備をしている。つまり、行為にはあまり集中していない。アザミがそんなだから、黒木も気が散ってしょうがない。  というか、そもそもこの部屋で情事に耽るのは困難だ。何しろ、目には見えない何者かの気配がそこかしこに蠢いているのだから。この世ならざる者の視線を感じながら通常通りに振る舞うのは、並大抵のことではない。   「おい、ちんたらしてねぇでとっととイけよ。いつもみてぇに」 「人を早漏みたいに言うな。お前こそ、いつもの絶倫はどうしたよ。いつもならもう出してる頃合いだろ」 「……知んねぇ。気持ちよくねぇ。あんたの、ちょっと柔こいし」 「オレのせいにするな」    とはいえ、このままでは埒が明かない。秀でた五感を有するアザミにとって、周囲を取り囲む気配は耐えがたいストレスであろう。それゆえ、意識が外にばかり向いている。警戒を怠ることなどできるわけがない。  しかし、そうやって小難しいことばかり考えているからいけないのだ。周囲を気にする余裕もないほど情事に没頭し、漲る生命力で化け物を撃退するのが、この作戦の肝である。いつまでも武器を握りしめているようでは、夜が明けてもここを出られないだろう。   「っ! おい、何すんだよ」    黒木は背後からアザミに圧し掛かり、その躰を押さえ込んだ。所謂寝バックの体位である。突然躰の自由を奪われたアザミは、もちろん黒木に噛み付いた。布団に腹這いの状態で、しかも黒木に馬乗りにされていては、いざという時に反応できない。   「どけって。普通のバックでいいだろ」 「悪いが、お前の善がってるとこでも見ねぇと、イけそうにないんでね」 「うざっ。どうせ何も見えねぇくせに」 「見えねぇから、余計分かるんだよ。お前のナカがどんな風に動いたか、とかな」 「っ……」    アザミは大きく喉を鳴らす。きゅう、と甘えるように肚の奥が疼いた。   「スケベキモじじい」 「何とでも言え。とにかく、今はこっちに集中しろ。化け物共に見せ付けてやるんだ」 「衆人環視ってか? いい趣味してんな」 「ガキに見せるのは気が引けるけどな」 「ふは、確かに。ガキには刺激が強すぎるな」    少しずつ、いつものペースを取り戻しつつある。黒木は、浴衣の裾を捲り上げてアザミの太腿を撫でた。アザミはくすぐったそうに笑う。神経を尖らせているせいか、普段よりも敏感だ。   「くっ、ふふ、触り方がやらしーぜ、クロさん」 「好きだろ、こういうの」 「どうかな」 「もっと直接的な方がいいか?」    とん、とん、と優しく奥を叩くと、アザミはもぞもぞと腰を揺らした。衣擦れの音が艶めかしい。   「それとも、こっちのがいいか?」    黒木は、アザミの衿元に手を回して浴衣を開け、露わになった胸を両手で包んだ。固く尖った乳首を掌で転がしながら、豊かな胸を優しく揉む。アザミは枕に顔を伏せてくぐもった声を漏らした。   「バカ、声はちゃんと出せ。お前の感じてる声でも聞かなきゃイけそうにねぇよ」 「ふっ……だったら、そうなるようにがんばったらどうだ? 俺の善がり声はタダじゃねぇぞ」 「とんだわがまま坊主だな。後で泣いても知らねぇぞ」    人ならざる者に監視されていると思うと、やはりかなり微妙な気持ちになるが、そのことは一旦置いておいて。アザミが余計な刺激に惑わされないよう、その躰をすっぽりと覆い隠すように、黒木はぴったりと体を密着させた。  体液を混ぜ合う水音に、微かな衣擦れの音、枕を抱きしめる音、そして乱れた息遣い。灯りのない真っ暗闇の空間で、聞こえるのはただそれだけだ。他に感じられるものといえば、互いの体温だけ。それが全てであった。   「んっ、ん゛ぅ……♡ あっ、ぁ……♡」    アザミの喘ぎが官能の色を帯びる。奥まで迎えるように尻を上向けるので、黒木もそれに応えて挿入を深くし、アザミの悦ぶところに狙いを定めた。   「ひ、っく……あぁ♡ ……ッ」    後衿をぐいと引っ張り、露わになった首筋へ歯を立てる。暗闇への不安からか感覚が研ぎ澄まされた躰は、鋭敏な反応を見せた。  黒木は手探りでアザミの両手を探した。それはもはや武器など手放して、シーツを握り込んでいた。小さく丸まったアザミの手に、黒木は自身の手を重ね合わせ、指を絡めて握りしめた。   「あッ、ん……きもちいい……♡」    アザミがうっとりと声を漏らす。このまま行けば、問題なく絶頂へ辿り着けそうだ。黒木は内心安堵した。  まるで野良猫の交尾だ。雄猫が雌猫に馬乗りになり、雌が逃げないよう首筋を噛んで押さえ込んで、懸命に腰を振る。いくらでも人目につきそうな道端で、人目も気にせず交尾に耽る。今の自分達そっくりではないか。   「あっ♡ いい♡ いく♡ いくっ♡」    アザミは、指先をきゅっと縮込めた。シーツを掻いていた脚を、黒木の両脚に絡ませる。小刻みに震えるつま先が、黒木のふくらはぎを滑っていく。   「ふぁ、あ♡ いくッ――」    その時だ。絶頂に手が届くかどうかという寸前で、ドンドンドン!と窓が鳴った。瞬間、黒木は全ての動きを止めてしまった。意識は自然と窓の外を向く。それはアザミも同じようで、ふーふーと獣のような荒い息をしながら、窓の向こうを睨んでいた。  ガタガタガタ!と扉が揺れた。ギシギシ、バタバタ、と天井裏が騒いでいる。周囲を取り囲む気配が一層強くなり、こちらへ注がれる視線も一層湿気を帯びたものに変わったような気がして、黒木は動けなくなってしまった。  突破口を開いたのは、アザミであった。ぴくりとも動けなくなった黒木を思い切り突き飛ばして体勢を入れ替え、黒木の上へ堂々と跨ってきた。あっと思う間もなく、黒木の萎えかけていたそれはアザミの体温に溶け込んだ。   「おい、ちゃんと勃たせとけ」 「んな急に……」 「くそっ、くそっ! くそムカつくぜ! いっちばんいいとこで邪魔してきやがって……! もうあとちょっとだったのに、ヘンなイキ方しちまった……っ!」    ばつんばつんと尻を打ち付けて、アザミは悪態を吐く。蕩けた肉襞はきゅうきゅうとうねり、媚びるように絡み付いて離れない。普段であればこれらが絶頂のサインであるが、アザミはどうやらイけていないらしかった。ナカを痙攣させながら、激しく腰を振り続ける。   「あ゛っ♡ ん゛♡ きもち♡ いっ♡ きもちいのにっ!」    アザミは切ない声で叫ぶ。気持ちいいのにイけないなんて、そんなことがあるだろうか。   「やだっ♡ まだっ♡ もっと♡ ッ!」    何かの呪いか、それとも単純にタイミングを逃しただけだろうか。アザミは狂ったように腰を打ち付ける。粘着いた衝撃音が暗闇に響いて、不気味な物音を掻き消していく。   「もっ、あ゛♡ いやだっ、くそっ♡ どうにかしろよ、くろさんっ!」    アザミの悲痛なまでの訴えに、黒木はふと我に返った。ぼさっと寝転がって、ちんぽを使われている場合ではない。今こそ、漢の本気というものを見せてやらなければ。  黒木はアザミの括れた腰を押さえ付け、同時に下から思い切り突き上げた。ちょっと腰がおかしくなりそうだったが、構わない。渾身の一撃は突き当たりの壁をぶち抜いて、アザミの肚の奥深くを貫いた。   「あ゛ッッ♡!?」    雷に撃たれたように、肢体が跳ねた。それから、ぱたりぱたりと水滴が降ってきて、黒木の胸を濡らした。恐る恐る、指で掬って舐めてみる。ほんの少量でも舌に絡むほど濃厚な、アザミの精液に他ならなかった。   「ぁ、ふ……ッ♡」    黒木に跨ったまま、アザミはビクビクと肢体を震わせた。その姿が暗闇にぼんやりと浮かび上がる。だらしなく涎を垂らして恍惚に浸るその表情も、乱れに乱れた浴衣に覗く薔薇色の肌も、胸の谷間を伝う汗も、柔らかな太腿を濡らす淫液も、アザミの全てが黒木の眼前に晒されていた。  いつの間にか、床の間の行灯が光を取り戻していたらしい。不気味な物音は聞こえないし、不気味な気配や視線も消えていた。アザミの痴態に恐れをなして逃げていったのか。   「ふぁ、ぁ……ッく、んん♡♡」    カクカクとぎこちない動きで、アザミは尻を擦り付けた。望むと望まざるとに関わらず、自ずと腰が動くようだった。底なしの快楽に溺れて、ぎこちなく腰をくねらすことしかできない。  黒木は、もうほとんど衣服としての機能を果たしていない浴衣の裾に手を這わせ、アザミの太腿に手を滑らせた。汗やら何やらで濡れた肌はしっとりと吸い付くようだったが、黒木がその手触りを味わうより早く、アザミは再び精を放った。   「んぅぅ゛……♡」    もはや姿勢を保つこともできないらしい。アザミは黒木の胸にぐったりと倒れ込んだ。所謂密着騎乗の体勢である。早鐘を打つアザミの鼓動が、甘く掠れた息遣いが、黒木の胸へと直に伝わってくる。  距離が縮まったことで、アザミの表情がより鮮明に見て取れる。貪欲に快楽を待ち望む瞳はどろりと溶けて、その瞳いっぱいに黒木の姿を映している。言い知れぬ高揚感に、黒木の体温は急上昇した。   「っは、んぅ♡ ……っ」    熱を孕んだ吐息が交わる。どちらからともなく、唇を重ねた。柔らかい。甘い。いい匂い。これがアザミの味だ。知っている。ずっと前から知っている。このところずっと、この味しか知らない。   「な、ぁ……もっと……♡」    アザミこそが、まるで妖しい魔物の類だ。その言葉で、仕草で、眼差しで、黒木を惑わしてばかりいるのだから。  黒木は衝動に逆らわずにアザミを抱いた。アザミの躰を引っくり返し、足を絡めて密着して、何度も何度も滾る肉杭で貫いた。アザミの悲鳴じみた嬌声だけが、静まり返った和室に響いていた。  汗を吸って重たくなった浴衣を――腰紐一本で辛うじて肌に張り付いているだけの布を、無遠慮に大きく開けさせた。突き上げる度、桃色の突起がぷるぷると震える。それに吸い付いて、舌を這わせて、歯を立ててやれば、アザミは喉を反らして悶えた。  これ以上ないほどに、二人の男は一つに交ざり合っていた。鉄をも溶かすようなアザミの熱が黒木に伝わり、それがさらに黒木の中で熱せられてアザミの元へと返り、その身を内から焦がしていく。永遠とも思える繰り返しだ。  今だけは、互いが互いの所有物だった。この熱さえ感じていられれば他には何も要らないと思えるほどには満たされていた。        夜はすっかり明けた。  取り憑かれたように互いの熱をしゃぶり尽くした後、気絶するように眠りについた。起きてみれば、既に日が高い。  奇妙なことに、そこは確かに旅館の一室のようであったけれども、昨夜泊まった時とは明らかに様子が違っていた。床は泥をかぶり、壁は崩落し、窓ガラスが破れていた。まるで、何十年も前に打ち棄てられて朽ち果てた廃墟だ。  こんな場所で一晩も大騒ぎしていたというのか。ぞっと背筋の冷えた黒木とは対照的に、アザミは呑気にあくびをした。   「狐に化かされたんだろ」 「……だといいけどな」    釈然としない気持ちで宿を後にした。  空は嘘みたいに晴れ渡っていた。陽の光が眩しく降り注ぐ、爽やかな青天である。昨晩のことは全て、きっと夢か幻だ。黒木はそう思うことにした。  ふと、後ろを振り返った。真っ昼間だというのにじめじめと陰気臭い闇を背負った玄関先に、白い影がひっそりと佇んでいた。   「あっ、なぁ、クロさん」    何かに気付いたように、アザミが声を上げた。黒木は急いで前を向く。   「ライト、ついたぜ」    アザミは手に持った懐中電灯を黒木に向けた。昨晩電池切れを起こしたはずの懐中電灯が、光を取り戻していた。   「車も無事だ。よかったな」    昨晩と同じ場所に、昨晩と同じ状態で、車は停まっていた。キーを回せば、呆気なくエンジンがかかった。  黒木の運転で、ワゴン車はゆっくりと峠道を下る。アザミはシートを倒して寛ぎながら、手慰みにカーラジオのダイヤルを回す。   「なぁ、クロさん」 「何だよ」 「眠くねぇ?」 「まぁ、な。結局ほとんど寝てないしな」 「だったらさぁ、テキトーに休憩してかね?」 「お前、この期に及んでまだ……」    黒木は、煙草の灰を落とすついでにアザミの顔を横目に見た。   「……まぁ、それもいいかもな」    黒木が頷くと、アザミの雰囲気が和らいだ。   「高速乗る前にどっか探そうぜ」 「あくまで休憩だからな」 「そういうことにしといてやるよ」    ラジオはご機嫌な流行歌を流している。アザミは、シートにゆったりと背中を預け、流れる音楽に合わせて鼻歌を口ずさんだ。

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