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6年目 もりそば、河川敷のチューハイ(2)

 井桁豆腐のはす向かいのおもちゃ屋で、(めぐる)は金属製のコマとゾウの指人形を買った。投げ売りされている小さなものを見ると買わずにいられない。1Kの部屋の半分が細々としたもので埋め尽くされていて、はじめて部屋で飲んだとき、今橋さんは背中を丸めて、ランプや食器やおもちゃや指輪やニッチな便利グッズをほお、ほおと眺めた。あのときはまだお互いにお互いがありだと確認していなくて、巡は目だけで、今橋さんのつむじから背中へ流れていく線をなぞった。  ゾウを鞄のポケットにしまいながら、腹が減ったと巡は思った。今橋さんを見ると、今橋さんは通りの奥を見つめて、腹が減りましたねぇと言った。ちょうど昼どきで、誰かのために用意された食事のにおいが漂っている。巡は目に入る看板を順に指さす。 「町中華と、喫茶店のオムライスと、蕎麦と、どれがいいですかね」 「むつかしいことをおっしゃる」  表に出ているメニューと食品サンプルを、1軒1軒見て回る。喫茶店は看板メニューがオムライス、ランチAは生姜焼きでBがカレースパゲティ、中華料理屋は半焼き飯ラーメンセットとニラレバがおすすめ、蕎麦屋のショーケースの中では箸が上下して麺を持ち上げるタイプの食品サンプルが動き続けている。 「むつかしいことおっしゃるなあ、でもせっかく世が許してくれたんだから1杯くらいアルコールがほしいですよねえ」 「そうですね、ニラレバも捨てがたいものがありますね、ただ」  巡は蕎麦屋のショーケースに指の先をつけた。黒い塗り箸が、白い器から麺を持ち上げては下ろし持ち上げては下ろす。 「俺このタイプの食品サンプルに抗えなくて」 「じゃあそうしましょう。今日も暑いですからね。もりそばに冷えたビール」  暦はとうに秋だというのに、日中30度近くまで上がるらしい。今橋さんは丸めた背中から首を前に突き出して、ふたりですー、と蕎麦屋の扉を開けた。  4人がけのテーブル席が空いていて、アクリル板を挟んで斜めに座った。巡は天もりと中瓶、今橋さんはもりそばと海老天、それに板わさと中瓶を頼んだ。そこそこに混み合っていて、酒を傾けている人もちらほらといる。カウンターの奥の壁に小さなテレビが据え付けられている。『おかえりモネ』が始まった。朝ドラは朝以外にも放送していることを今橋さんから聞いて覚えた。 「モネね、もう佳境です、僕は結構好きです」  すぐにビールが出てきた。それではそれではとつぶやきあってマスクを外し、お互いに手酌で飲み始める。今橋さんは、顎の線だけではなく口の端の髭も剃り残していた。そもそも服装がどうこう言われる仕事でもないらしいので、別にいいのだと思う。  板わさが来ると、今橋さんは小皿にたっぷりのわさびにごく少量の醤油をかけ、それをかまぼこの背に大きく盛って食べた。本当に好きなのは湯葉でもかまぼこでも刺身でもなくて、この9:1のわさび醤油なのではないかと巡は疑っている。天ぷら油のにおいを肴にビールをちびりちびりと飲み、知っている俳優はもうヒロインの親をやる年なんだなと思いながら、今橋さんの口がかまぼこを噛んで飲み込むのを見る。最後にキスしたのはいつだったか考える。  直接会った最後の日は春で、所用で近くに来たものでという今橋さんと、公園のベンチで話して別れた。夏にはリモートで、成城石井でそれぞれ買ったつまみを披露し合いながら飲む会をした。人目を気にせず飲んだあと、ひとりで寝るのがつまらなかった。  天盛りに立派な舞茸が入っていて、秋だと思った。海老天も大きくて、今橋さんは声を立てずに、鼻息と口の形で満足そうに笑った。蕎麦湯まで飲んでマスクをしてから、じゃあ行きましょうと巡は言った。  ショーケースの中で、黒い箸は相変わらず上下運動を続けていた。昼食候補だった中華料理屋の壁に、「お持ち帰り餃子24個1,500円 11時30分~19時」と貼ってあるのを見た。商店街の端に銭湯があった。そこから先は住宅街だ。巡は言った。 「なかなかいい町でしたね」 「ねえ。これでまた1つ実績解除という感じです」  行きそびれていた店に行く、サイゼリヤで存分に飲む、自宅でオイルフォンデュをする、母校の学食に行く、ローカルチェーンだけを目的に旅行する、鍋いっぱいのポップコーンを作る。スタンプラリーだ実績解除だと言いながらなにかにつけて2人で過ごすようになって7年は経つ。交際しているということになってから数えてももう5年は過ぎたはずで、その間に何度も見たはずのあのアーケードを、今橋さんと違って、巡はスタンプに数えていなかった。目に入っていたには違いないけれど、その日今橋さんがどんな顔をしていたか、あるいは今からどんな顔をするかということばかり多分考えていた。  水と土のにおいが鼻をついた。これは近いと思っていると、道ひとつ越えたところで住宅街が途切れ、空と川と河川敷が見えた。ちょうど路地と土手との突き当りに看板が立っていて、カッパが川に流されている絵の上に、「きけん とびこまない!!」と書いてある。巡はそれをスマートフォンで撮った。目をバツの形にしておぼれているカッパがなかなかかわいらしい。今橋さんはその横で川原を見渡して、何度か浅くうなずいた。 「うん、みなさんちょいちょい飲み食いしてらっしゃいますからいいでしょう。あ、あっちの看板になんか書いてあるかな」   土手をまっすぐ降りた先の看板を今橋さんは指した。左手の方にスロープが見えたが、面倒だったので巡はそのまま土手をくだりはじめた。急な傾斜が膝に来ることがわかったけれど今さら遅かった。今橋さんは、ああ、ああと言いながら後からついてきた。 「わ、脚いってぇ」 「そりゃそうですよ、毎日部活してたようなころと違うんですよ体が。あーころぶかと思った」  看板には「飲食をしたらゴミを持ち帰りましょう」「バーベキューは専用ゾーンでやりましょう」などと書いてあり、その上から比較的新しそうなポスターが貼られていて「飲食はソーシャルディスタンスで。楽しく止めよう感染拡大」ともあったので、これは許されていると判断した。実際に小さな子どもをつれた女性が弁当を広げていたり、カップルが川べりでコーヒーを飲んでいたりする。コーヒーのカップルからできるだけ距離をとったところに2人で立った。水のにおいが強くなる。知らない鳥が泳いでいるのが見える。 「それじゃまあ、僕はこのあたりで」  今橋さんが脚を投げ出して座る。巡はしばらく考えて、今橋さんの右手から拳ひとつ分開けたところに鞄を置き、そこからさらに拳ひとつ空けて座った。それぞれ缶チューハイを開けた。巡は一口飲んでマスクを直してから、さいこうと言った。かにかまとサラダチキンバーを1本ずつ交換した。かにかまをかじりながら、やっぱりかまぼこはかまぼこで好きなんだろうかと巡は思った。 「やっぱりねぇ、オープンエアでちょいと飲むのほど気持ちのいいことはありませんねぇ」  今橋さんの目が卵形の眼鏡の下で笑うのを、巡は横目で見た。視線を川の鳥に戻してから返事をした。 「のんべえには肩身の狭い世の中になりましたけどねえ」 「まあ我々酒飲みってのは常に理性崩壊ぎりぎりの淵に立ってるもんでして、そこから蛮行に転落した人間を見てきた方が、飲酒自体を悪癖と見なすのは自然といえば自然でして」  今橋さんが、サラダチキンバーを食べ終わって空いた右手を巡の鞄の上に置いた。巡は、金曜の昼日中、まばらながら人目があるという条件を考慮して、これに触ってよいものかを考えた。その結果、触らずに話し続けることにした。 「今日は誘ってもらえて嬉しかったです。こういうの全然できてなかったですね」 「理由なく人に会うのがむつかしいご時世ですからねえ。でもまあ、それでもなお今日も世界中で恋が始まっているというのに僕らだけ例外ってのもなんか納得いきませんしねえ」  これはやっぱり触るべきところなのかもしれないと巡は考え直した。 「確かにね、まん防破りの深夜合コンとか、宣言下の高級ホテルで堂々お泊まりダブル不倫とか」 「ほんとに好きですね週刊誌」  巡は、中のスマートフォンがいま突然必要になったんだ、と考えて左手を鞄の上に置き、今橋さんの手に重ねて、しばらくしてから引っ込めた。今橋さんは耳を赤くしてぶどうチューハイを飲んでいたけれど、途中でマスクを直して言った。 「土曜日はお休みですよねえ、一般的な勤め人は」 「はい。餃子、24個で1,500円でしたね」 「48個で3,000円で、うちの鉄鍋で焼くのにちょうどいい気がします」  今橋さんは使わないものを溜め込んでおくのが苦手な人で、家の間取りは巡のところとほとんど変わらないらしいのに、ずっと広いような気がいつもする。あの部屋の床に直に座って、ベッドに体をもたれながら、はじめてキスをしたのだった。 「湯葉も食べさせてくれます?」 「いいですよ。夜中にフィナンシェでウイスキーやりましょう。実のところそれたっぷり2人分入ってますんで」  今橋さんはマスクを外してかにかまをかじった。巡もサラダチキンをかじった。川に鳥が増えていることに気づいた。サラダチキンを持つ手の空いた小指で数を数える。いち、に、さん、し、ご、ろくのところで向こう岸の人影が川に石かなにかを投げ、鳥はみんな飛び立ってしまった。ああ、とうなっていると、今橋さんは喉を鳴らして笑った。

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