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1年目 宅飲みの朝、ケチャップソースチーズトースト(1)

 まだ目を開きたくない。右腕で両目を覆う。いつもと違うにおいがする。ビスケットと酸っぱいクリームのにおいだ。寝返りをうって目を開けると、ベッドの下で仰向けに横たわる人の顔が見えた。頭の後ろがわに滞っていた夢の名残がどこかにいってしまった。  青い顔、真っ直ぐな眉、掛け布団を被せた胸の前できちんと組んだ両手、死んでいるみたいだと思ったけれど喉が動いている。背の低いテーブルと座布団、間取りに対してやや大きなテレビ、機械のたくさん載ったデスク、YouTubeでゲームをする人がよく座っている椅子。今橋さんの部屋だ。ベッドの斜め下に布団を敷いて眠っているのは今橋さんだ。今橋さんは両手をしっかりと組んだまま、目蓋だけを持ち上げて、めぐるさんと言った。 「おはようございます、お待たせしました?」 「や、俺もいまさっき起きまして」 「ほ、だったらよかった」  今橋さんは枕の下に手を入れてスマートフォンを引っ張り出し、12時27分と言ってから上半身を起こした。 「家主がよく寝てすみません。朝食べますか。もう昼かもしれませんが」 「はぁ、食べますか」  今橋さんは布団から出た。テーブルの上にあった卵形のメガネをかけた。自分の眠っていた布団をたたんで壁際によせて、部屋と地続きの台所で冷蔵庫の前に屈んだ。青と白のストライプの、絵に描いたようなパジャマを着ている。  そういえば泊めてもらったのだった。仕事終わりに部屋に上げてもらって、近所の商店街で買い込んだ惣菜と寿司で飲んで、(めぐる)が買ってきた少し高いナッツを食べて、それでもまだ足りなくて、今橋さんが戸棚から袋麺とお菓子を出した。それで思い出した。巡は言った。 「ビスコ」  冷蔵庫の前で屈んで冷凍室を覗いていた今橋さんが、こちらを振り返った。 「ビスコで飲みましたよねゆうべ」 「ああはい、僕好きなんでねビスコとウイスキーね」  それでにおいがしたのだ。ビスコのクリームはいつも少し酸っぱい。今橋さんは冷凍室に視線を戻した。 「めぐるさん朝は何派ですか。ごはん、パン、うどん、まあ全部冷凍なんですけど」 「いやそんな、今橋さんのいいのでいいです」 「むつかしいことをおっしゃる」  巡はまだベッドで布団にくるまっている。目は覚めてきたのだけれど体がどうしようもなく重いのだ。勤め人になってそこそこ経つというのに少しも朝に強くなれない。 「んじゃあまあトーストにしましょうか。コーヒーもありますし。インスタントですが」 「手伝いましょうか」  今橋さんは首をベッドに向けて、一呼吸あけて笑った。 「いえ、お気遣いなく」  今橋さんの部屋に泊めてもらうのははじめてだ。前に1度巡の家で夜通し飲んだことがあるけれど、あのときはお互い眠らなかった。だんだん思い出してきた。昨夜座布団の上でうとうととしはじめた巡に、今橋さんはパジャマを貸そうかと言った。それを、いえお気遣いなくと言って巡は辞した。スーツとワイシャツは脱がせてもらって、カーテンレールにかけたハンガーに吊ってある。今はパンツとTシャツだけ着ているということだ。ベージュに白地でアイラブコペンハーゲンと書いてある、ワイシャツから透けにくくて透けても笑いごとになるTシャツだ。  今橋さんは冷凍庫から出した食パンにケチャップととんかつソースをかけて、チーズを載せてトースターに入れた。戸棚から出したやかんに水を注いでコンロにかけた。 「なかなか年季の入ったやかんで」 「母が持たせてくれまして」  カップを2つ出して、インスタントコーヒーを一匙ずつ入れて、合間に水切りラックから棚へ昨夜の食器を戻す。さっきまで仰向けに眠っていたとは思えない身のこなしを今橋さんは見せる。布団の下がパンツ1枚なのが恥ずかしくなってきた。今橋さんの部屋なのだからもう少し考えればよかった。  はじめて入った居酒屋の、コの字型のカウンターの斜め前の席で、今橋さんは飲んでいた。芋焼酎のお湯割りを舐めて、隣のお姉さんが元彼氏について話すのを聞きながら、反対隣のおじさんに肩を抱かれていた。一言も交わさなかったのに記憶に残ったのは、そのさまがまるごと好みだったからだ。大きな体を丸めてへえへえとうなずいているところが、小学生のときに好きになった教育実習の先生に似ていた。 「じゃあめぐるさん、NHKつけといてくれませんか」 「はあ、はい」  ベッドから手を伸ばしてテーブルの上のリモコンをとり、テレビをつける。チャンネルは最初からNHKに合っていて、法律相談の番組をやっていた。トースターがチンと古くさい音を立てて、これも母が持たせてくれたのかもしれないと巡は思った。今橋さんがトーストを1枚ずつ皿に載せて、できましたよと言ったので、巡はついに上半身を起こした。今橋さんは皿を持って戻ってきた。 「そのTシャツ、人のお土産ですか。自分のお土産ですか」 「古着屋で買いました。デンマーク行ったことないです」  布団の中を覗いて、しっかりパンツ1枚なのを確認した。今橋さんは皿をテーブルの上に置いて、クローゼットの2段目から黒いジャージのズボンを出した。巡の枕元に置いた。ああどうも、と巡は言って布団の中でジャージを履いた。少し丈が長い気がする。今橋さんがコーヒーを持ってくる。巡はベッドから降りた。今橋さんと、テーブルの一辺と一辺に斜め向かいになって座った。  四枚切りの食パンの上でチーズが溶けていて、その下からはみ出たケチャップとソースはかるく焦げている。胃が空になっていることに急に気がついた。深夜、チキンラーメンに卵を落としたり、ビスコでウイスキーを飲んだりしたはずなのだけれど。 「コーヒー、ミルクだけでいいんでしたっけ」 「はい」 「僕は砂糖多めでして」 「知ってます」  今橋さんが酒好きの上に甘党なことには、たぶんはじめて一緒にファミレスに行ったときに気づいた。ビール2杯ハイボール2杯ワイン2杯飲んだ後にラーメンを食べてもまだチョコレートサンデーが入る。チョコレートとかキャラメルとかで飲むのがやめられないんですねえ。今橋さんの笑い皺を見ながら、俺もですと巡は言った。 「いただきます」 「おそまつでございます」  トーストの耳をかじってコーヒーを飲む。テレビから歌が流れてくる。随分前に聞いたことのある声だ。ドラマが始まったらしい。今橋さんは下唇にトーストを押し当ててテレビを見ている。 「この歌誰でしたっけ」 「宇多田ヒカルさんです」  チーズとケチャップとソースの混ざったところをかじる。半ドンの土曜の昼の味がする。 「なんですかこれ」 「朝ドラです」 「昼では」 「じつは朝以外にもやってます」  今橋さんはテレビに目を向けたまま口を動かす。巡はその口を見ている。今橋さんは食べるにも喋るにもさほど大きな口を開けるタイプではなくて、小さく、その分途切れなく唇が動く。 「おもしろいですか」 「まあ格別傑作ではないですが高畑充希さんとか杉咲花さんとかがいいです」  今橋さんがテレビドラマを好きなのは知っている。絵とか文章とかプログラムとかを書いたりまとめたりするボンクラ仕事、とのことで、どうやらときどき批評文のようなものも書いているらしい。  はじめて会った夜、店の大将がカウンターの内側で唐突に三線を弾き始め、酔っ払っていた巡は気持ちよくカチャーシーを踊った。そのときも土曜日で、パンダが血の池でウェイクボードをしていたりする、パンダ一家地獄めぐりのTシャツを着ていた。ひと月ほどして同じ店で隣り合ったとき、自分から声をかける勇気を出せないうちに、今橋さんの方からもしやあのときのと言われた。このときは会社帰りだったのでスーツを着ていて、失礼ですがお仕事はと聞かれたので、経理ですと答えた。あとで今橋さんの口から聞いたところでは、カチャーシーのときとあまりに雰囲気が違って、声をかけてもいいか悩んだそうだ。 「高畑充希さんはね『ごちそうさん』のときなんかもうすごくよかったですからね」 「今橋さん若い女優さんお好きですよね」  巡はあまりテレビを見ないのだけれど、今橋さんが街中の広告や飲食店のテレビにぽつぽつと反応するので、ここのところの女性タレントはなんとなくわかるようになってきた。下手をすると自分より一回りは若いような女の子の話で今橋さんは饒舌になる。 「いやまあベテランの役者さんだって好きですし、あ、これはね唐沢寿明さんが大きい役で出ておられるんですが、まあ確かにお若い方の成長を見るのが特に好きというか、あの子がこんなに成長して、みたいなのを長期的に観察するのが好きなんですね、そういう意味では確かに若い子が好きかもしれない、でもそういう観点では男の方も好きです、菅田将暉さんとか」  交際相手はいないというのは本人の口から聞いているし、何度か部屋に上がらせてもらって、嘘ではないと判断もしている。ただ、だからといっていきなりそれでは俺でどうでしょうと名乗り出るわけにもいかない。あなたは私の恋愛の相手になり得るのですがと相手に不快感を与えずに伝える方法が、巡にはいまだにわからない。 「あと他人の青春を消費するのも好きなのかもしれない。自分の部活動は好きじゃありませんでしたが他人の甲子園とか高専ロボコンとかは好きです」 「何部ですか」 「ソフトテニス部です」

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