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3年目 町中華、ラ・フランス大福(1)
目の前に、今橋さんの横顔があった。眉毛をまっすぐ平らにして、青と白のストライプのパジャマを第1ボタンまでしっかり留めて眠っている。
男2人が横になるにはぎりぎりの大きさのベッドだ。巡 は今橋さんを起こさないように、できるだけ慎重にベッドから降りた。歩きながらTシャツとジャージのズボンを脱いだ。脱衣所まできたところで下着も脱いだ。脱いだものは全部洗濯かごに入れて、風呂場でシャワーハンドルをひねった。熱い湯を頭から浴びた。
脱衣所の棚から出した新しい下着を着てとりあえず裸を隠してから部屋に戻ると、今橋さんはベッドの上で起き上がっていた。巡の方を振り向いて言った。
「おはようございます」
「おはようございます。今橋さんもシャワーどうぞ」
「はい、遠慮なくお借りします」
今橋さんはベッドを降り、箪笥がわりのカラーボックスから下着とワイシャツ、クローゼットから綿のズボンを出して脱衣所に消えた。お互いの部屋に着替えを置くようになって、たぶん2年は経つ。巡もクローゼットからジーンズと新しいTシャツを出して着た。ベッドに腰掛けてドライヤーで髪を乾かす。
服をきれいに着込んで脱衣所から出てきた今橋さんは、巡を見るなり、ガチョウのやつだと言った。今日の巡のTシャツが、カポエイラをしているガチョウを紫の布地に黄色で描いたものだからだ。
「はい、ガチョウのやつです」
巡は壁掛けの時計を見た。12時40分を過ぎている。巡は言った。
「昼行きましょう。マサでいいですか」
「そうですね、マサ行くという話でした」
中華食堂雅は、巡の部屋から徒歩10分程の住宅街にある。駅や商店街からは少し離れているが、味が良くてそれなりに安いので、ランチが始まる11時にはいつも長い列ができている。12時半ごろになると列はずいぶん落ち着いて、13時を過ぎれば10分そこそこの待ちで席につける上、昼の営業が15時半までと長いので、夜更かしをした次の昼、遅い一食目を2人で取るときによく利用する。昨夜は巡の部屋の小さなテレビで、血糖値の上昇を抑えるための最新の研究がどうだとかこうだとかいう番組を見ながら、明日はマサにいきましょうそうですねマサだマサだと心地よく酔っ払ったのを覚えている。
巡は今橋さんにドライヤーを渡した。今橋さんは立ったまま、ほんの1、2分だけ髪を乾かした。いつものとおり、イヤホンをつけたスマートフォンを胸ポケットに、財布をズボンの右ポケットに入れた。巡は昨夜床に放り出したままの鞄に財布とスマートフォンとハンカチをしまって肩にかけた。今橋さんが言った。
「外寒いんですかね」
「どうですかね。雨とか」
部屋のカーテンを閉めたままなので、外の様子はよくわからない。巡はしまったばかりのスマートフォンをまた取り出して天気情報を見た。
「くもりです。でも10度は超えそう」
「くもりならあったかくした方がいいですよ。風が冷えますから」
今橋さんはそう言って、昨夜来てきた薄手のダウンジャケットをクローゼットから出して羽織った。巡は、昨夜床に脱ぎ捨てたあと今橋さんがハンガーにかけてくれたコートを着た。
表に出ると、薄い雲の隙間から淡い光が射していた。巡はコートの前を開いた。
マサに向かうにはいったん国道沿いに出て、5分ほど歩いてからまた住宅街の道に入るのが速い。国道は自動車や自転車が途切れず行き交っていて、世の中の人はちゃんと朝のうちに起きているんだなと巡は思った。隣の今橋さんはダウンジャケットをきっちり襟元まで締めて、目をきょろきょろと左右に動かしながら歩いている。巡は言った。
「今日何行きましょうか」
「麻婆茄子ですかねえ」
「あー麻婆の口かも。あと餃子。にんにくマシの方」
「それはマストでしょう」
着いたときには当然ながら店は満席で、前に中年男性1人、若い男性1人、夫婦らしい男女一組が待っていた。店内の待合スペースは5人でいっぱいというところなので、待合表にイマバシ2名と書いて表に出た。今橋さんがあ、と言って、向かいの通りにあるコインランドリーを指さした。
「あんなとこにランドリーありましたっけ」
巡は首を傾げた。
「ありましたよ、たぶん」
「そうでしたっけ。注目して見てませんでした。そもそもコインランドリーというものを使ったことがない。あれ誰がいつ使うんでしょうか」
「俺、布団洗うのに使ったことありますよ」
「布団。なるほどそういうものですか」
1人客が一組、4人連れの家族、2人連れ二組が店から出てきて、思った通り10分そこそこで席に通された。店長の奥さんらしいいつもの店員さんから温かいおしぼりを受け取ったタイミングで、中瓶2つと巡が言い、あとザーサイと棒々鶏小とにんにく餃子ふた皿と今橋さんが続けた。ビールの中瓶2本とグラス2つ、ザーサイがすぐに出てきた。
「それでは」
「それでは」
各々ビールをグラスに注ぎ、低い位置でグラスを合わせた。それぞれ一口きゅっと含んだ。巡はザーサイに箸を伸ばし、今橋さんはクリアスタンドに挟まっているメニューに手をかけた。
「麻婆茄子と、あと巡さんは何行きたいですか」
「青椒肉絲。でも結構腹減ってるんで、あ、ありがとうございます」
店員さんが運んできた棒々鶏の皿を、巡は今橋さんの手元に寄せた。今橋さんはメニューをクリアスタンドから取って、机のちょうど真ん中に置いた。
「でしたらまあここは手堅く」
「鶏の唐揚げ」
メニューに書かれた「鶏の唐揚げ4個400円」の文字の上で、巡の指と今橋さんの指とが触れあった。今橋さんはすんと耳を赤くして指を引っ込め、棒々鶏を自分の皿に移した。昨夜は他のところにもいくらでも触ったのに今さら何を、と巡は思ったけれど、指先がどうにも熱い気がして、仕方なくその指で頬を掻いた。
友だちではなく恋人になりたいと言葉にしたのは巡の方だった。外で焼き鳥を食べて、今橋さんの部屋に寄らせてもらった夜だった。今橋さんはとうとう来たかとでもいうような顔をしたあと、思ったよりも大きな声で、僕もですと言った。まさか飲み屋で知り合った人と付き合うことになると思わなかったですと巡が言うと、今橋さんはまた、僕もですと言った。お互いに頭を深々と下げ合い、その後でどちらともなく相手の顔に顔を近づけた。まず鼻と鼻とがぶつかって、次に唇と唇が触れ合った。
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