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9年目 スーパー銭湯のビール(1)
降りたばかりのホームで今橋さんは左を、巡 は右を見た。すぐにお互いを見つけた。今橋さんは片手でイヤホンを外しながら空いた手を顔の高さで振った。マスクの下で笑っている。今橋さんのほうがエスカレーターに近いように見えたので、巡は駆け寄って言った。
「やっぱり同じ電車でしたね」
「ええ、そうだろうとは思いましたけれども」
電車で来るならこの路線しかなく、急行が停まらない駅なので朝晩のラッシュ以外は10分に1本しか選択肢がない。駅集合にした以上こうなることはわかっていたけれど、お互いに何も言わず、それぞれの町から電車に乗った。今橋さんはダウンジャケットの前を半分開けて、シャツの胸ポケットに慣れた手つきでスマートフォンをしまい、またすぐにファスナーを喉元まで閉めた。喋りながらエスカレーターに乗った。
「すいませんね巡さん、たびたびお休みをとっていただいてしまい」
「や、今橋さんいなかったら有休消化大変なんで。感謝してほしいです会社には」
「それならよかったのですが。あ、東口です」
「はいはい」
今橋さんの手が指す方にそのまま向かい、中央改札を通って東口から出た。
どうやらこちらが駅の表通りらしい。平日の午前中ではあるものの、お年寄りや親子連れがぽつぽつと歩いている。よく晴れて空が高く、空気はすんと冷たく、風呂日和だ。
今日の約束は、行きそびれていたスーパー銭湯で飲む、だ。世の中が外出自粛真っ只中だったころにオープンし、そのうちにと言っている間に4年近く経ってしまった店に、満を持して足を運ぶことにした。
駅前から無料シャトルバスがあるという情報はもちろん得ているのだけれど、歩いたことのない町は歩いておかないといけないということで意見が一致した。公式サイトによれば駅から徒歩15分、Google Mapによれば徒歩ルートは約20分とのことだから、ぶらぶらと歩けばすぐだろう。せっかくだから公園を突っ切っていこうということになった。スマートフォンをしまい、概ねの雰囲気を頼りに歩き出した。
駅前ロータリーを抜け、市役所と警察署のある通りをまっすぐ行くと、その先に市民体育館とプール、公園があることを示す看板が出てきた。Google Mapの経路検索はこの公園を迂回するように言うけれど、無視して進んだ。敷地に入るとすぐ並木道だ。今橋さんはマスクを外して右手に引っ掛け、大きく息を吸い込んで、いい公園ですねと言った。この数年の経験で、冬場はマスクをしている方が心地が良いと気づいたらしいのだけれど、山とか川とか深夜のコンビニ帰りの路地とかでは、外してにおいを嗅ぐ。巡もつられて鼻を鳴らした。青茶色のにおいがする。今橋さんは満足気に言う。
「いいですねえやはりオープンエアというのは。今年こそはしっかりとしたのんべえの花見をしましょうね」
「そうですねもう5年やりそびれてますからね」
「5年。そんなになりますか」
「はい、だってほら、あのとき、風呂帰りに缶コーヒー買ってぶらぶら桜見た日、あれがもう」
「5年も前ですか」
今橋さんは立ち止まった。巡も立ち止まって今橋さんを見た。今橋さんは言った。
「我々もしかして10年くらいこんなことしてますか」
「そうですね、初めてお会いしたときから数えたらそのくらいにはなりますね」
「なんと。はーあ」
はーあ、はーあと3回繰り返して、今橋さんはまた歩き始めた。並木道が終わって芝生が開けた。その真ん中で、ベビーカートを押している女の人、子どもの手を引いている女の人、その他自由に歩き回っている体育着姿の子どもが見えた。大の男がこんな時間に近づいていくと邪魔だろう。今橋さんと2人、どちらから言い出すでもなく、芝生の縁をぐるりと回るルートを選んだ。途中、ぽつぽつとベンチとテーブルが設置されていて、ここで飲むのも良さそうですねと今橋さんが言った。
結局20分以上かかって、ショッピングモールの一角にあるスーパー銭湯 小雲やすらぎの湯にたどり着いた。下足箱の埋まり方を見るに、平日の昼でも閑古鳥というわけではないと思われた。受付でリストバンド型のロッカーキーとレンタルタオルを受け取り、館内の有料サービスはすべてそのキーで管理し退館時に自動精算機で支払いをする旨、サウナ含む大浴場はエレベーターで1つ上の階である旨説明を受けた後、言われた通りエレベーターに乗ったところで、巡はスマートフォンを見て言った。
「今11時半過ぎです」
エレベーターの扉が開いたので降りた。右手にソファや自動販売機が並んでいるのを見ながら奥に進み、「殿方」の暖簾のかかった扉の前で止まった。
「そうしましたらじゃあ、いったん12時半ですかね。さきほどのソファのところで」
「了解です」
「ではでは」
脱衣所に入ると、お互い黙って服を脱いだ。脱いだものをいちいちきちんとたたむ今橋さんより、丸めてロッカーに放り込むだけの巡の方が速い。タオルを持って1人で浴室に入った。オープンして数年の施設だけあっていかにも小綺麗だ。まずは洗い場で、頭から足の裏まで汚れを落とす。シャワーの湯を被りながらちらと顔を上げると、眼鏡以外は裸の今橋さんが、露天風呂の方に向かって歩いていくのが見えた。
巡と今橋さんとは風呂の入り方の流儀が違う。巡はとにかく熱い湯とサウナが好きだ。今橋さんは、そうした刺激の強い入浴は体がもちませんのでと言って、もっぱらぬるい風呂を好む。だから一緒に風呂に来たときは、結局は同じ浴室に入るといえど、入口で集合時間と場所を決めて、以降自由行動というスタンスをとっている。
40度ある風呂で体を温め、90度弱の遠赤外線サウナに入った。事前にリサーチしてきた通り、音を切って字幕表示にしたテレビを流しているタイプだった。民放の昼の帯番組で、都内のどこだかの商店街で食べ歩きをやっていた。揚げたてのコロッケ、チーズ入り。いい響きだ。また今度、どこか近場の商店街に今橋さんを誘おうと思う。
汗をかいたところでサウナを出、シャワーを浴び、15度ほどの水風呂につかる。4セット回して脳みそを程よくほぐしたところで露天のスペースに出た。立地上の都合だろう、三方に高い壁が立っていて見晴らしがいいとはいえないが、冬の風が火照った体をつんと刺す。
空いている寝椅子を見つけて横になる。目の前に、37.2度と表示された炭酸泉の広い浴槽がある。主に高齢の男性が集まっているその湯船の右上角に、今橋さんが収まっている。眼鏡をかけたまま目を閉じて、まっすぐの姿勢で座っている。
僕はね巡さん、永遠に入ったままいられるような気のする、ぬるい風呂が好きなんです、どちらかといえば。はじめて今橋さんの部屋に泊まった次の日、お互いにお互いがありだと知った後に、何となく一緒に行った銭湯で、今橋さんはそう言った。それではそれぞれのルーティンで入浴後別途集合でということで、と話がまとまったとき、とても安心したのを覚えている。交際しているわけではない好きな人と一緒に風呂に入るときにするべき顔が、巡には思いつかなかった。
その点今は、入浴中の今橋さんくらい見慣れたものだ。サウナや湯船を行ったり来たり、うろうろと動き回る自分と違って、1度自分の場所を決めてしまったらあとはじっとそこに座っている今橋さんのことを、こうやって盗み見るのが好きなのだ。
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