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7年目 うどん、瓶詰め3種

 暮れていく街に立つ(めぐる)さんの姿が、ロータリーに入っていくバスの窓から見えた。白地にアーティチョークの絵が描いてあるだけのTシャツを着ている。バスを降りるとすぐ巡さんが駆け寄ってきて、首を傾げながら笑った。 「長旅お疲れ様です」 「いえ、昼行便で済むくらいですから大した旅では」 「でもバスって結構肩凝るでしょう」  巡さんの手が伸びてきて、今橋さんの脇にかかっているリュックの肩紐に指先で触れた。 「でっかい荷物持ってる今橋さん、新鮮ですね。まあ泊まりにしてはでっかくないですけど」 「着替えと手回り品しか持っていきませんでしたので。あとはお土産です」 「俺の分もあったりします?」 「それはもちろん」  駅に向かって歩き出す。横目で巡さんの、小作りながらくりくりと動く目や控えめな鼻や、やわらかい唇を盗み見る。 「それにしてもすみません、わざわざ出迎えていただくとは」 「いえ、いろいろと用事があったので。ついでです」  行動制限も緩和されたのだからいいかげん顔を見せろという母からの電話を受け、3年ぶりの帰省をすることになった。だからこの週末は会えないと言うと、巡さんは、日曜に戻って来るならよければ夜を一緒にしましょうと言った。  巡さんの町に向かう電車に乗った。週末の終わりの電車はそれなりに混んでいて、肩が触れ合う距離で並んで立った。巡さんが汗をかいていることに気づいた。 「ご両親、お元気でしたか」 「はい、元気はとても元気だったのですが、主に父が、おじさんからおじいさんに変貌しつつありました。母はおばさんでした」  地元の中心駅近くの高速バス乗降場まで、父が車で迎えに来ていた。こちらが口を開く前に、年を取っただろうと父は言った。 「水入らずでゆっくりお話できましたか」 「ええ、それはもう困った歓待ぶりでして」  こちらのことを20歳だと勘違いしているとしか思えない量の食事と酒を口に入れさせられたあと、手土産に持っていったワッフルをつまみに家族3人、遅くまでウイスキーを飲んだ。 「ちょいちょい顔出してる俺だって実家で飯食うとわりとそんな感じですもん。それに今橋さんひとりっ子でしょ」 「はい、真面目なサラリーマンとしっかりものの主婦の間の不肖のひとりっ子」  巡さんが顔をこちらに向けた。しばらく考えてから、ああ、と今橋さんは唸った。 「海のものとも山のものとも知れない仕事をしているという点でです。僕がその、そうだということに関しては、彼らはおそらく概ね消化済みです」  巡さんは眉を寄せ、唇を突き出して、そうですかと言った。いい仕草だと思った。 「そうです。なお、お土産を買っていきたい相手がいると言ったら、その方によろしくとのことでした。母が」  帰りもバス乗り場まで送っていくという両親に、それはありがたいが早めに着いて駅で土産を買いたいのだと伝えた。30分の余裕を持って駅の駐車場まで送り届けてくれ、たまには帰ってくるように、体に気をつけるように、土産の相手によろしくの3つを数度繰り返して、両親は帰っていった。  駅で1番大きな土産物売り場は、帰省客と観光客で賑わっていた。まずは「LIQUOR 酒」と大きく出ている区画に立ち寄って、「旨口 ふくよかさ★★★★★」と値札に書いてある日本酒をカゴに入れた。15年ほど酒飲みをやっているが、日本酒もワインも焼酎も、店側がお品書きに書いている「甘め」だの「渋め」だの「キレ」だのという表現を見て勘で選ぶことしかできない。巡さんは「旨」とか「ふくよか」とか書いてあるやつを飲むと喜ぶ。  「LIQUOR 酒」のすぐ近くが、「ごはんのおとも・酒肴」の区画だった。地元は、これといった一点突破型の目玉はないものの、魚も肉もなんとなく強い。干したイカがいいか焼いたエビがいいかポークジャーキーか、魚の干物や味噌漬けになった豚肉はうまそうだけれど酔っ払いながら調理するのが手間か、巡さんのあの、間取りのわりに物の多い部屋の真ん中で何を出したら笑ってくれるかを考えた。開けてすぐ食べられるものがやっぱりよい気がした。「LIQUOR 酒」と比べて混み合っている「ごはんのおとも・酒肴」を、人を掻き分けながら2周して、「おすすめ瓶詰め3種セット 2,300円」を見つけた。ちりめん昆布、豚肉味噌、ミックスきのこのなめたけ。巡さんがつまみものを食べるのに使う、妙にリアルなタッチのハリネズミが描かれた小鉢3皿セットに盛り付けたところが思い浮かんだ。  巡さんの町に着くと、空はすっかり暗くなっていた。 「飯どうしましょ」  巡さんが言った。 「そうですね、巡さんさえよろしければですが、僕としてはさっと済ませたい気分でして」 「部屋帰るのあんまり遅くなると嫌ですもんね」 「ええ、ええ」  うなずきながら、耳が熱くなるのを感じた。仕方がない。きちんとした勤め人である巡さんの月曜の朝は早く、日曜の夜は短い。 「そしたらみかげやにしましょう。うどんの」 「名案です」  駅前の大通りを渡って商店街のアーケードに入り、数分歩いてみかげやの暖簾をくぐった。うどんと天ぷらと一品料理の店だ。L字型カウンターの入口に近いふた席に並んで座った。巡さんはメニューもろくろく見ず、肉うどんとごぼう天と麦のソーダ割りをくださいと言った。今橋さんも後に続いて、きつねと鶏天とハイボールをと言った。すぐに酒が出てきたので、ジョッキとジョッキを目の高さでぶつけあった。乾杯、と今橋さんが言う前に、巡さんはにやりと笑って、おかえりなさいと言った。帰ってきたと今橋さんは思った。早く、という態度で食事をするのは食べ物に失礼なので、ハイボールを一口飲み、丼の出汁を啜って、うどんに気持ちを向けた。  巡さんの部屋の、今橋さんの定位置になっている椅子にリュックを置かせてもらい、買ってきたものを順番にテーブルに出す。日本酒に瓶詰め3種。巡さんはわあありがとうございますと言って、ミックスなめたけを手に取った。 「瓶詰めつまんで一緒に飲むんですよね?」 「はい、僕としてはそういったつもりで」 「冷蔵庫に豆腐ありますから小さい冷奴3つ作りましょうか。ハリネズミのやつで」 「それはいい、あと」  リュックからもう1つ、Tシャツを取り出して、目の前で広げて見せた。 「え、マジですか」 「はい、お気に召すのであれば」  グレーの生地の真ん中に浮世絵風の波の絵と「大海原―Oh Unabara」の文字のプリントされたTシャツを、巡さんは受け取った。 「めっちゃうれしいです。今着ちゃっていいですか」 「は、構いませんが」  巡さんはTシャツをキッチンに持っていって、キッチンばさみでタグを切った。アーティチョークを脱いで床に落とした。今橋さんは思わず一歩後ずさった。 「あ、すいません急に」 「いえそんな」  大海原を頭から被り、腕を伸ばしたり背中を曲げたりしたあと、巡さんは両手を腰にかけて、今橋さんに向かって笑った。 「似合います?」 「え。はい。とてもお似合いです」  大海原が似合うというのがどういうことなのかはよくわからないが、どんなTシャツでも巡さんが着ると、そこにあるのが正しいもののように感じる。 「よくこんなの見つけてくれましたね」 「や、たまたま目に入ったものですから」  日本酒と瓶詰めを買ってその土産物売り場を出た後、バス乗り場に向かう途中に、インバウンド向けだろうか、地元品よりも日本グッズに力を入れた小さな店の前を通った。その店の入口に立っていたマネキンが大海原のTシャツを着ていて、今橋さんの足が止まった。 「巡さん、どちらかというともう少しポップなものを着ておられることが多い印象で、お気に召すかどうかと思ったんですが」 「いえいえ、こういうのちょうど欲しかったです」  そんなちょうどがあるものかは疑問だけれど、どうやら本当に喜んでくれているようで安心した。恋人に、というよりそもそも人に服を買ったことなど1度もなかった。バス乗り場で、買ったばかりのTシャツをリュックに収める間、巡さんのタンスの中身についてひたすら考えていた。 「そしたら俺冷奴出しますから、今橋さんぐい呑みと箸出してもらっていいですか」 「あ、はい。ぐい呑みは二十日大根と生姜のやつで大丈夫ですか」 「大丈夫です」  リュックを椅子から床に置きなおし、キッチン横の食器棚を開いた。箸2膳と、野菜のイラストのついたぐい呑みを2つ見つけてテーブルに出した。巡さんは流しの横の小さな作業台で、豆腐に瓶の中身を載せている。背中にも「Oh Unabara」をしょっている。その文字の向こうに、巡さんの皮膚や骨や肉がある。  今橋さんがその背中に向かって手を伸ばすと、巡さんは振り向いた。ほらと言って皿を差し出す。ハリネズミが2つに切られた冷奴を、冷奴がぽってりとした肉味噌をしょっている。 「ほら、めっちゃおいしそうですよ」 「ええ、はい、おっしゃるとおり」  冷奴に落とした視線を持ち上げた。こちらを見上げている巡さんと目があった。巡さんは空いている手で、今橋さんの肘を撫でた。 「まあまずは飲みましょうよ。日曜の夜だって結構長いんですから」  今橋さんは肉味噌奴の皿を受け取った。たったの2日の帰省で自分がこんなにも露骨になるとは思わなかった。巡さんの言うとおり、まずは酒で調子を戻すべきだ。テーブルに皿を置いた。 「僕、あと何かしましょうか」 「酒、もう開けちゃってください」 「承知しました」  旨口でふくよかさ星5つの酒を開ける。ぐい呑みに注ぐ。炊きたての米に似たにおいがする。たぶんおいしく飲めるだろう。おいしく飲んで気持ちよく酔えば、少しは落ち着いて2人の時間を過ごせるはずだ。

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