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黒百合の章 壱節

 ――此れは、〝復讐〟。 「此れは〝賭け〟なのだよ」  建造物の合間に点在する忘れ去れた空地、緑は青々と生い茂り射し込む強い日光が其の一角だけを別の空間の様に彩って居る様だった。  太宰から其の言葉を聞いたドストエフスキーは、太宰ならば考えそうな事だと感じた一方で、自らと唯一対等に渡り合える存在である太宰が賭博等と云う低俗な嗜好に興ずる思想を有する事に驚きを秘し切れ無かった。 「賭け事の趣味が在ったとは意外ですね」  立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は――そんな事を言ったのは誰だっただろうか。此の時期に在っては珍しい物では無かったが、こんなに低地に自生しているのを太宰は初めて見た。鈴の様な花被は羞じらう様に俯き、暗紫褐色の其の花は光の射し込み具合に依っては完全な黒にも見える。  野草を愛し気に眺める太宰の背中をドストエフスキーは見詰める。本当は意外でも何でも無い。太宰治と云う男はそういう人間だった。此の世界で起こる事象は凡て手の内に在り、如何なる存在であろうとも想定の範疇を出る事は無し。故に実感する退屈な日常。  太宰は唯何気無く片手を伸ばし其の花被に触れようとする。其の黒くて小さな姿が別の何かを彷彿とさせたのかも知れない。太宰の指先が触れた其の花は前触れも無く其の花被を散らす。まるで触れた事が原因で有るかの様な其の光景を今迄の太宰ならば気にも留め無かっただろう。  散らした花被を凡て集めて其の掌の中で大切に握り込め、太宰は立ち上がりドストエフスキーを振り返る。 「――彼が、自身を見喪わずに私の事を視て呉れたなら、此の賭けは私の勝ちだ」  掌の中で、体温に依って萎れた花被を其の場に撒く。花の形を成して居た時はあんなにも完成されて居たのに、唯の萎れた花被と成り果て地に舞い落ちる。  其れこそが太宰の仕掛けた唯一の〝賭け〟。 「では彼が貴方の声さえもう訊こえて居ないのだとしたら?」  建造物風が吹き、ドストエフスキーの黒髪が風に流れる。  賭博に興ずるも本人の自由意志、第一ドストエフスキーは太宰の意志に介在する権利を有して居なかった。少し意地悪な云い方だったかも知れない。然し太宰程の男が其の可能性を視野に入れて無いとも考えられ無かった。 「其の時は私の命を賭して損害を支拂おう」  人の感情を賭け事に利用するのは悪趣味だと云う者も居るだろう。然し唯一操作出来ない物こそが人の感情でも在る。  自らの望む結果へと向かう様な状況を創り出しておき乍ら、相手の行動に勝敗を委ねる等愚かしいにも程が有る。ドストエフスキーの知る太宰治という男は斯様な迄に乱心為て了ったのだと花被を散らした太宰の手を取る。  望むは限りなく完全に近い盤上作り。造られた虚構を真実に為て了えば心の機微は依り迫真に迫る。  ――目には目を。命迄をも賭けると宣言した太宰の虚ろな瞳を覗き込み乍ら顔を近附け口唇を寄せる。  其の時、太宰の薄く形の善い唇が僅かに揺れる。 「――君と丈は、御免だ」

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