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黒百合の章 参節

「――太宰」  名前を呼ばれ、現実へと引き戻される。大好きで愛しい家主の帰還に自然と表情が綻びる。  一目で解る切羽詰まった様子。平静を装おうと為て居ても、中也が限界に達して居る事は見た丈で解って居た。 「誕生日、御目出度う」  脱いだ帽子を定位置に掛けた中也が差し出す、二十四本の花束。朱殷の黒い薔薇はまるで乾いた血の色の様な暗黒色で、其の内の一本は棘が付いた間々の茎が拉げて居た。  考えて、考えて、考え抜いた上での此れが中也の答えで有る事に太宰は内心安堵すら覺える。 「――なァ太宰、愛してる」  大聲で嗤い出しそうだった。ドストエフスキーに、賭けは自分の勝ちで在ると高らかに宣言をしたい程だった。  黒薔薇の花被が室内に舞い散り、噎せ返る程の芳香が充満する。舞い散る花被は黒い雪の様で、あの黒百合の花被にも似て居た。  舞い散る花被を其の背中に受ける中也の顔を唯見上げる。黒い革手袋越しに喉へと感じる中也の体温。 「此れが中也の應えかい?」  大切な者を喪う喪失感を、喪うかも知れないと云う焦燥感を、太宰に教えたのは他でも無い中也だった。だからこそ太宰も中也に同じ其の焦燥感を味わわせずには居られなかった。其れがどれ程辛くて痛いのか、中也自身に知らしめずには居られなかった。  同じ立場に立たされた時、中也が真っ先に選ぶ行動は太宰を殺す事が此の賭けの應えだった。  陽の下に生きた太陽の様な存在だから、堕ちた時の闇は誰依りも昏い。共に生きようなんて宣う余裕も無い。 「俺には手前しか居ねェんだ」 「――私も、だよ」  中也の涙が頬へと落ちる。其の涙は温かかった。  無理に毒を煽らせて共に連れて逝く事は容易い。  澁るなら、大切に為て居る物凡てを奪って壊して、私だけに頼る様に仕向けてから人生に絶望させて、心中を唆す事だって本当は容易い。  ――だけれど、其れじゃあ足りないのだよ。  安心なんてさせてあげない。  私を先に裏切ったのは中也の方なのだから。  一生苦しんで、一生苦しんで、一生消えない罪悪感をお前に植え付けて遣る。  気道を絞める其の手の感触を、忘れるなんて一生赦さない。  寝ても醒めても其の手を見る度、何度でも此の感触を思い出せ。  此の先一生安眠なんてさせて遣らない。  瞼を閉じても其の裏に痼り付く断末魔の顔を。  私を殺した罪悪感を一生持ち続けて。  一生私から自由になんてさせてはあげない。  此れが私を裏切った君への復讐。  君は此の様に何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も私を殺す。  忘れるなんて絶対に赦さ無い。  ――此レハ、〝詛イ〟。

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