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0 白龍(第一章)
その彼は周囲の者たちにとってひどく不思議な――というより、不可解な印象を抱かせる男だった。
二十世紀半ばの香港、九龍城砦と謳 われたその街に彼はいた。
「どうにも不思議でならんな。あの御方は我々にはよう理解できんところがお有りなさる」
「まあな。あれだけの見てくれの持ち主だ。同じ男から見ても羨ましいほどの容姿をお持ちなのに、未だ結婚のご意志すら無いようだからのぅ」
「わしなんぞ、ついこの前も見合いの世話を焼いて差し上げ申したのだがな。まるっきり興味を示されんかったぞ」
「聞くところによると恋人の一人もおらんそうじゃないか。もう二十七にもなられるというのに、あれではお父上であられるボスもご心労ではないのか?」
古くから城壁内に住む長老方にとっても頭の痛い話のようだ。
そろそろ身を固めてもいい歳の彼に、いわゆる結婚の意思は皆無のようだった。当然か、恋人と呼べる相手もいない。
しかしながら、彼が女性を知らない全くの純真無垢というわけではなかった。ほんのいっとき、短い夜の帳 に肉体という名の情のみを交わす相手に苦労したことはなく――というよりも引き手数多で断るのに忙しないくらいなのは事実だ。
だが、そうして睦み合ったとて、互いに欲を放出してしまえばそれで終いだ。相手の女も彼に期待を抱くことはしない。仮に夢見たところで絶対に報われない不毛な想いだと知っているからだ。
彼の父はここ香港の裏社会を治める頂点にいる男だった。
背中の全面を埋め尽くすほどの――うねる見事な黄龍を背負っているその父は、確かに彼の実父であった。幼い頃から厳しくも大切に育ててくれた父を、彼は尊敬している。
また、少し年齢が離れた兄も一人いる。本妻の子だ。
兄の背中には父と色違いの黒い龍が踊っていた。腰から左肩にかけて天を仰ぐ雄々しい龍図だ。利発で賢く、心根のやさしい紳士である。
彼はこの兄と腹違いであったが、物心ついた時から本物の兄弟として愛情を掛けてもらってきた。兄は常に穏やかでいて、怒った顔など見たことがないというくらいにやさしく甲斐甲斐しく面倒を見てくれたものだ。
また、継母 に当たる女性も兄同様にあたたかかった。兄も継母 も妾の子である彼を詰ることなく、心からの愛情を以て接してくれたのだ。
継母 からは父と兄の背中に刻まれているのと同じ龍図が贈られた。
色は白だった。
兄とは対になる構図で、腰から右肩にかけて天を仰ぐ白い龍だ。
父が黄龍 、長兄は黒龍 、そして次男坊である彼には白龍 。三つの龍が揃って、初めて私たちはファミリーなのよと継母 はたおやかに微笑んだ。実子も妾腹も関係ない、あなたは私の大切な子よと言ってくれた。
そんな継母 と兄の厚情に報いることこそが自分の生まれてきた意味なのだと、いつしか彼はそう思うようになっていった。以来、彼は生涯をファミリーの為だけに尽くそうと誓って生きてきたのだ。
自分自身の幸せなど望まない。誰かを愛することもなく、子孫を持ちたいと思うこともなく、ただひたすらにファミリーの役に立ちたい。それが彼の人生における一番の望みだった。と同時に自分がこの世に存在することの意味でもあったのだ。
尊敬や感謝などという言葉では到底表しきれない継母 と兄への恩を胸に、懸命に生きてきた彼。父もまた、そんな彼に九龍城砦を任せると言ってくれた。
香港の闇といわれたその城内を統治し、そこに生きる人々が安らかに穏やかに暮らせるように見守ってやって欲しいと、この街の治安を任せてくれた。父もまた、大いなる期待と信頼を寄せてくれているのだ。
彼にとってそうした家族の愛情は、生きていく上で何ものにも変え難い糧だった。
たとえほんの僅かでも家族の恩に報いることができれば、それこそが至福だ。任された城壁内の人々が安泰に暮らせるならば、他に望むものなどない。皆の幸せこそが自身の幸せなのだ。
彼の名は周焔 。字 は白龍 といった。歳は二十七だ。
周囲の者たちからは、長身で端正な顔立ちだけでも神から賜りし宝だと囁かれること常々。
しかしながら、男前の容姿も宝の持ち腐れの如く、恋すらしない孤独にも不満ひとつ抱かない男。
人々は彼をこう呼んだ。
城壁の皇帝――と。
そんな彼が家族や城壁に生きる民以外に心から愛しむ唯一無二の相手と巡り逢う日が来るのだろうか。だとすれば、それこそが天より与えられし幸福――真実の愛――と呼べるものなのかも知れない。
今日もまた、闇と謳 われるこの街で、混沌とした高い家屋の隙間を縫って降り注ぐ一筋の陽光を見上げながら彼の一日が始まりを告げるのだった。
凛と伸ばした背筋に大切な白龍 を背負い、揺るぎない意志をたたえた足取りで城内の地を踏み締める。この街の治安を護る皇帝としての役目を果たす為に――。
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