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1 皇帝と云われた男
二十世紀半ば、香港――。
その日、父の書斎に呼び出された焔 を待っていたのは驚くべきお達しだった。
「今、何と仰せられましたか……」
「聞こえていたであろう? 砦をお前に任せると申したのだ」
「……は、これは失礼を。聞き返すような真似をいたしましたこと、お赦しください」
「うむ――」
焔 が驚くのも無理はない。砦というのはここ香港の闇と名高い九龍城砦のことだったからだ。
九龍城、世間ではスラム街のように言われている名高い場所である。無法な建て増しの繰り返しで形成され続けたそれは、外観からして一種独特だ。観光客はもちろんのこと、この国に住む人々でさえおいそれとは近付かない危険地帯のような印象が根強い。ところがその実態は外観とは真逆のものであった。
混沌とした外観は目くらまし、一歩中に入れば、その地下世界に誰しもの想像を遥かに超えた煌びやかな街並みが構築されていた。
高級レストランにバー、外の世界では五つ星と名高いホテルもさながらのゴージャスな宿泊施設、巨大カジノに遊郭――と、世間の想像とはまるきり異なる別世界。そう、ここは極々限られた人々のみぞ知る巨大遊興街だったのだ。
一般的に九龍城と呼ばれている外観は単なる入り口に過ぎない。地上にある違法建築揃いの建物の真下には、その遥か何倍もの広大な敷地が存在していて、外の世界と何ら変わらない景色が広がっていた。むろんのこと舗装された大通りが存在し、車やバイクも当たり前のように行き交っている。地下世界は碁盤の目のように整備され、歓楽施設が軒を連ねる街の中心部といえば、遥か古の物語にでも出てきそうな豪華絢爛の建築物。映画のセットと括ってしまうには規模が大き過ぎて、タイムスリップでもしてしまったといった方が合点がいくかも知れない。目を閉じればまるでそこかしこに宦官たちが歩いていそうな錯覚にとらわれる。ともすれば皇帝や妃まで住んでいそうだ。
街の外れに行くに従ってこの城内で暮らす人々の住処もある。作り物ではあるが、植樹によって緑も心地好く配置され、リゾート地も顔負けといったところだ。地上の摩天楼にこそ及ばずとも、混雑する繁華街の狭い路地などに比べれば、こちらの方が整然としていて気持ちがいいくらいだ。
だが、その存在を知る者は限られていて、出入りもまた然りであった。変な話だが、香港に住む一般人にとって、自分たちの足元にこんな街が栄えているなどとは思いもせずに生涯を終えていく者も五万といることだろう。
この特殊な街、通称『九龍城』を統治するのが焔 の生家である周一族なのだ。
国内外からの要人を始めとした各国の大富豪や著名人らが秘密裏ながらもこぞって訪れる華やかな砦、その中で動く金の額も一線を画す。
当然のことながら悪もはびこる、ある意味では快楽と危険が表裏一体といえる。統治する者がいなければ、途端に無法地帯と化し、遊興どころか殺戮や戦を伴う荒廃した街となってしまうだろう。
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