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 一方、冰の方である。  それはつい一週間ほど前のことだった。高校からの帰り道、冰は見知らぬ女に突然声を掛けられたのだ。 「雪吹冰(ふぶき ひょう)っていうのはあなた?」  女は見た目だけでいえばかなりの美人で、着ている服も派手な感じの出立ちだった。冰のような学生にとってはおおよそ縁のないとでも言おうか、おそらくは夜の商売に身を置いているふうにも感じられた。 「あの……あなたは……」 「私はリリー。フレイの女よ」  フレイ――どこかの店の名前だろうか。女の雰囲気からして夜のバーか何かかも知れない。 「あの、雪吹は僕ですが……」  何のご用でしょうかと尋ねんとした矢先だった。 「あなた、フレイの邸に居候しているそうね?」 「居候……?」  フレイの邸――というからには、店などの名ではなく誰か個人のことを指しているのだろうか。だが、冰にはフレイなどといった知り合いはいない。当然、居候などとも無縁だ。  何か勘違いをされているのだろう、そう思った。 「あの、僕はフレイさんという方を存じ上げませんし、お人違いではないでしょうか……」  そう返すと、女は険のある表情でキッと睨みつけてよこした。 「しらばっくれないでよね! あなた、図々しくも彼の邸に住んでいるそうじゃないの!」  嘘をついても無駄よと言わんばかりに、相当苛立っているのが分かる。 「お人違いです……。僕は本当にフレイさんという方とは……」 「どこまでもシラを切るつもり? じゃああなたの家はどこよ! 今からどこに帰ろうっていうの!?」 「こ、皇帝様のお邸です。僕は今、父と共に皇帝様のお邸にご厄介になっていまして」 「ほら見なさい! やっぱりフレイのところに住んでいるんじゃないの!」 「……? あの、フレイさんというのは」 「あなたの言う皇帝様のことよ! 皇帝周白龍(ジォウ バイロン)!」 「(イェン)のお兄さんのこと……ですか?」  そう訊くと、女は更に眉間を筋立てた。 「(イェン)のお兄さんですって? あなた、彼のことをそんなふうに呼んでいるっていうの!?」  冰にとっては言われている意味がまるで分からない。女が何をこうまで苛立っているのかも――だ。 「まったく! 図々しいにもほどがあるわ! 彼をその名前で呼べるのは彼の家族身内か、よほど懇意にしている裏の世界のお仲間だけなのよ!? せいぜい(あざな)か、普通はイングリッシュネームのフレイムって呼ぶのが常識だわ」 「フレイム……(イェン)のお兄さんはフレイムとおっしゃるのですか?」 「ほらまた! (イェン)って言った!」  いい加減にしなさいよと女の苛立ちに拍車がかかる。 「すみません……」  だが、冰にしてみれば正直なところ難癖以外の何ものでもない。第一、今の今まで(イェン)にイングリッシュネームがあること自体初耳だったし、(イェン)本人からも呼び方について指摘されたわけでもない。というよりも、皇帝様と呼んでいたところ、『(イェン)』でいいと言われたくらいなのだ。  本人がそう呼べというのだから他の呼び方――ましてやイングリッシュネームで呼ばなければならないなどとは思いもしなかったといえる。  だがまあ、よく考えれば、あの紫月(ズィユエ)とて『皇帝様』と呼んでいることに気付く。遼二は『(イェン)』と呼ぶが、それこそ裏の世界の親しいお仲間といえる間柄なのだろうから当然といえばそうか。 「すみません、失礼を……。無知をお詫びいたします」  存外素直に謝った冰の態度に溜飲を下げたのか、女はわずかばかり険をゆるめると、今度は少々得意げな顔つきで驚くようなことを言ってよこした。

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