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店を後にする際にもただひたすらに「ごめんなさい」と謝罪を繰り返すリリーだったが、今は彼女に構っている暇はない。とにかく事の次第は分かったのだ。気にするなとだけ告げて、焔 は冰の住むアパートへ向かうことにした。
手元の腕時計を見れば、時刻は午後の九時を回ったところだった。この時間ならまだ冰も休んではいないだろう。
「レイさん、すまねえな。カネと一緒に先に邸へ戻っていてくれ」
レイも倫周 も快く見送ってくれたので有り難かった。
「焔 、レイさんたちをお送りしたら俺は黄 の爺さんの方を訪ねて事情を知らせておく。まだカジノにいるだろうからな」
「なら俺はレイさんと倫周 君のお相手を引き受けるぜ!」
遼二と紫月 がそう言ってくれるので、彼らに後を任せて焔 はアパートへと急ぐことにした。自ら車を飛ばし、単独で住居区へと急いだ。
思った通りか、冰はまだ起きていたようで、彼の住むアパート三階の窓には灯りが灯っていた。
(ボウズ――)
すまなかった、その気持ちのままに逸るように階段を駆け上がった。
当然か、冰は皇帝・焔 が――それもたった一人で供もつけず訪ねて来たことにひどく驚いた様子でいた。
「お兄 ……皇帝様!」
大きな瞳をこれ以上ないくらいに見開いて呆然状態でいる。まるで「こんな時間にどうなされたのですか?」とでも言わんばかりだ。
「あの……もしかしてじいちゃんに何かあったのでしょうか?」
黄 老人は高齢だ。カジノでの仕事中に具合でも悪くしたのかと思ったようだ。
「いや――そうじゃねえ。お前さんに用があってな」
「僕に……ですか? あの、ではどうぞお上がりください」
ちょこんと屈んで来客用の小綺麗なスリッパを勧めてくれた。
「ああ……では失礼するぞ」
「どうぞ。お目苦しい所ですが……」
冰の言葉通り、部屋は狭く、自身の皇帝邸と比べれば見るからに質素だ。それでもきちんと掃除がなされていて、玄関からも見える小さなキッチンのテーブルには夜食だろうか、黄 老人の為に用意したと思われる食器がきちんと並べられており、ガス台の上には美味しそうな香りのする鍋――。おそらくはワンタンスープの類だろう、老人の帰りを待ちながら冰がこしらえた物と思われる。
こんなふうにしていつも夜遅い老人の為に夜食を作り、たった一人この質素な部屋で帰りを待っているのだろう。同じ年頃の学生らは両親に甘えて遊びたい盛りだろうに健気なことだ。
焔 はもう堪らずに、目の前の華奢な身体を引き寄せてはハグを通り越す勢いで抱き締めてしまった。
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