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「お……兄さん」
「すまなかった、冰――。俺はてめえのことしか考えられずにいた」
「あの……」
焔 は衝動的に抱き締めてしまった抱擁を解くと、真顔で視線を合わせながら謝罪を口にした。
「きちんと理由も訊かずにお前さんたちを帰してしまったことを謝りたい。俺は――てめえの勝手な勘ぐりで……お前さんたちが俺と共に住むことが気重なんじゃねえかと思っていたんだ。そんなお前さんたちを無理やり引き留めるのは俺自身の我が侭なんだろうと思っていた」
「皇帝様……そんな」
「すまなかった。お前さんたちが出て行った後も……俺はその理由をてめえで探そうともしなかった。カネと紫月が動いてくれて……初めて真実を知ったんだ」
「……あの」
「ホステスが訪ねて行ったそうだな? たった今、本人に会って確かめてきたところだ。あのリリーは俺の恋人なんぞじゃねえ、仕事上顔見知りというだけの間柄だが――」
焔 はリリーにも事情があったようだとだけ告げ、更なる謝罪を続けた。
「臆病だった。俺は――お前さんたちが望まねえのに俺の身勝手で邸に留めているんじゃねえかと思っていた。だとすればやっていることは女衒と同じだと――。お前さんたちを解放してやることこそが、俺がすべきことだと思って疑わなかった」
焔 は一応この地下街では権力者という立場にいる。そんな自分がこうしろと言えば、それに逆らえない者がいることも自覚している。自分が黄 老人や冰と共に住みたいと言えば、彼らは従わざるを得ない。だが、そんなふうにして縛り付けておくのは違う――そう考えてしまったのだ。
「お前さんたちにとって……嫌な人間にはなりたくなかった。負担を強いたくなかった。だから俺は――」
そこまで聞いて、冰の方が驚かされてしまったようだ。
「こ、皇帝様……! そんな……とんでもありません! 僕もじいちゃんも……皇帝様のご厚情がどれだけ有り難かったことか……。ですが、僕らこそ皇帝様のお邪魔になってはいけないと……」
「――では、俺のところに居るのが嫌ではなかったのだな……?」
「嫌だなんて……滅相もありません。僕は……本当に有り難くて嬉しくて……」
でも皇帝様の足枷にはなりたくなかった――言葉にせずとも冰の全身がそう云っているようで、焔 は申し訳なかったという思いを通り越してワクワクと心が逸り出すのを抑えられずにいた。
「戻って――来てはくれまいか」
「え……?」
「嫌でないのなら、戻って来て欲しい。むろん強要するつもりは毛頭ない。だがもし――! もしもお前さんたちが嫌でないなら――戻って来て共に暮らして欲しい」
「皇帝様……」
こんなことなら偽の婚約を思いついたあの時に、すぐにも籍を入れて形にしてしまえば良かったと後悔しているくらいだ。そんなことまで言う焔 に、冰の双眸はみるみると涙でいっぱいになっていった。
――と、そこへタイミング良くダイニングに置かれていた電話機が鳴った。紫月 からであった。
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